社会の中の《群れない》人々

−「自閉症」の診断基準−

 

どこかの山の中で自給自足している人ならともかく、人間というのは社会の中にいなければ生存できないカヨワイ動物です。自給自足しているといっても、家や食べ物だけではなく着るものまでも自分で調達できる人はそう多くはないでしょう。集団で社会の外に暮らしていると自負している人々でさえ資金や物資は社会から得ていて、社会の中でどこか収まる場所を確保しなければなりません。つまり、自立してはいるけれど、なお社会とは無縁でいることはできないのです。

この一人では生きられない、動物としては落ちこぼれた「人間」たちは、生存の為に「社会」を形成して「文化」を発展させる事で生き延びてきました。人間がそうした意味での「社会的存在」だということは、誰も否定できないでしょう。

しかし、社会を否定するわけではないけれど、《群れる》ことを拒絶しているかのような《群れない》人種、それが「自閉民族」なのです。それはあたかも、サルの中にゴリラもいればチンパンジーやオランウータンもいるかと思えばニホンザルもいるというようなものです。ただ《群れ》の形態が違っているだけで、種としては全く同じ「ニンゲン」です。

この誇り高き「自閉民族」は、社会の中にあって《群れない》という特性を持っています。人と人とのつながりが希薄で、人から学ぶことと教わることを拒否し、《群れ》の中に自己の安住の場を求めることができません。つまり、《群れ》るための人間関係の構造を持っていないのです。その中には知能の高い人も低い人もいるし、言葉の遅れがある人もいればそうでない人もいるというわけです。それは、ニンゲンとして普通の事です。

言葉や知能で計れないとすれば、では、何を基準にするかと言うと

  1. 社会的相互作用。
  2. コミュニケーション。
  3. 想像力。

という、いわゆる「三つ紐」と呼ばれているものです。

「社会的相互作用」とは、主観的世界から抜け出す為のさまざまな能力がどれだけ発達しているかで測られるものです。身体感覚や感覚器からの知覚のバランスをベースに、それらを統合する"自我"の働きによって「相互作用」は成立します。「他人が自分に係わり・自分が他人に係わる」関係を持つ為の身体的・精神的な受け入れ体制を構造として持つこと。それができて初めて、自己と係わってくる他者とが相互に係わり合うことができるのです。

  1. ≪主観的な存在としてではなく、客観的な存在として自己を認識する≫
  2. ≪自分を客観的に見ている他者を認知する≫
  3. ≪自分と同じ主観的存在としての他者を認識する≫
  4. ≪その他者に対して自分はどう行動すればいいか学習する≫

という構造がなければ、

  1. その行動や言葉を模倣して、自分のものにする。
  2. その属する集団に認知される為の、文化的な行動の仕方を学習する。
  3. 状況に応じて、自分がどのように行動すべきかを判断する。

ことはあり得ません。これができないから「自閉症」が「自閉症」といわれる基本中の基本です。

「コミュニケーション」というと、言葉をどれくらい身につけているか・言語の発達の遅れはないかに限定されてとらえられがちです。が、自分の意志を相手に伝え・他人の意志を読み取る手段としての言葉や身振りなどをどれだけ使えるかということが重要なのです。比較的高機能で、書いたり話したりできていても、読者や聞き手を想定していない一方的な・双方向でない言語しか持てなかったり、意味が独断的で一般的に通用しない言葉を使っていたりしている場合なども含まれます。言葉を持っていてもコミュニケーションができていないからです。言葉の遅れがみられない「自閉症者」の場合、人が聞いていようといまいと、今は話して良い状況だろうとなかろうと、一方的に自分の言いたい事をしゃべりまくることがよくあります。また言葉に限らず、身振りや顔の表情などを有益な情報として読み取れなかったりもします。

  1. 他人に対して、自分の要求しかしないタイプ。
  2. 他者に係わって何かを伝えようとするが、相手の都合を考慮しない一方的な働きかけが多いタイプ。
  3. 双方向の働きかけをしているけれど、情報に自分特有の意味づけをしてコミュニケーション言語に独断的な解釈をしているタイプ。

1よりも2、それよりも3と、人との係わり合いの程度が軽くなればなるほど、悩みは深くなるというのは容易に想像できるでしょう。

 

「想像力」というのは、他人の立場に立ったり、他人の気持ちを推し量る能力です。自分から見えている人間以外の[自分を見ている人間]の≪心≫=気持ち・感情を「想像」する能力です。

自分の考えに固執して自分自身以外の「ひと」の立場には立てないので、幼児期には"ごっこ遊び"ができないといった特徴で現われます。そして、「あいさつ」を立場の違いで変えることができなかったり、言外に要求される意味を読み取れなかったりします。例えば「いってきます」「いってらっしゃい」の区別がつかない、名前を呼ばれたら何か用事があるはずなのに「はい」と返事だけする、というように。こうした日常会話での困難さは、対人関係の大きな障害になるだけでなく国語の読解力にも影響します。


自分自身の生来のモノの見方・考え方を、社会的に通用する様式に変換する能力を持たないまま成長してしまった人たちも、社会に出て行かなければならない時期がやがてやってきます。青年期になると「自閉症者」でも、ある程度の≪心≫の理論を持てるようになると言われています。これには、二つのタイプがあるように思われます。

  1. 「他人も自分と一緒」と考えるタイプ。
  2. 「自分は他人と違う」と思ってしまうタイプ。

自分の言動がどんなに「自閉的」でトンチンカンなものであっても、他人が全く眼中にないか、前者のように「他人も自分と同じように考えたり行動するものだ」と思いこんでいるのなら、本人自身はそれほど悩まずに済みます。ただ、思い通りにならないとパニックになってそれ以上進めないし、自分のやっている事がおかしいと思わないので能力開発がしにくく、できる仕事は限られてきます。

しかし、自分が他人と同じ様に言動できないと気づきながらも「自分は正しい・間違っているのは他人の方だ」と思ってしまう後者の場合は、それだけ周りがよく見えているので「人のふり見て我がふり直す」というより「わかっているかのように演技」できます。その為、ある程度の社会性を身につけることができます。パニックもうまくカモフラージュします。けれど、人知れず莫大なエネルギーを費やさなければなりません。あるいは、「なぜ、正論に従って人は動かないのか」「なぜ、真理は実現しないのか」と憤ってしまうことにもなりかねないのです。

 

「自閉症」というと何か特別な人種であるかのように思われがちです。確かに、こうした社会性に障害がある人はいじめに会い易く、情緒的にも不安定になりやすいものです。就労・自立といった事を想うと、心配の種は尽きません。しかし、「自閉症」を理解しようとするのなら、まず上記の「三つ紐」がどのように絡み合っているか把握することが大切です。常同行動・固執・多動・パニックといったさまざまな行動上の特徴は、それらの現われに過ぎないのです。現象としての「自閉的」症状がどんなに軽くても、本質としての「自閉的」状態を放置して良いわけはないのです。

また、その生きていく道の困難さは、自閉・言語・知能のレベルの高低に必ずしも比例していません。その辺の事情は、健常と呼ばれている人と同じ事なのです。そして、人と係わり合う度合いが多くても少なくても、自分の要求を満たしている限りにおいて自己満足しているタイプなのか、人々の中にいながら社会帰属意識を持てないでいるタイプなのかという違いは大きいのです。しかし、その違いもまた、一般の人々の自己意識のバリエーションと大差はないのです。


      

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