成人の問題

−青年期・成人期の自閉症−

自閉症全般にわたって出現頻度の高い行動特徴

(18歳以上の187例を対象、出現頻度20%以上のみ)

  1. 神経質、緊張しやすい。(66.3%)
  2. ある考えが頭にこびりついて離れない。(65.8%)
  3. 一つのことを気にすると、いつまでもそれが離れない。(59.4%)
  4. 完全でなければ気がすまない。(52.4%)
  5. 身体の動きがぎこちない、無器用。(46.5%)
  6. 過食(食べ過ぎる)。(39.0%)
  7. 空想に耽り、現実を忘れる。(33.2%)
  8. よくいじめられたり、からかわれたりする。(32.1%)
  9. 内気で臆病。(30.5%)
  10. 爪かみがある。(28.3%)
  11. 肥満。(28.3%)
  12. 人から好かれない。(27.8%)
  13. 神経質な身体の動き、ピクピクした動き、チック。(25.1%)
  14. アレルギーがある。(24.6%)
  15. 年上の人と遊ぶのを好む。(23.0%)
  16. 引きこもってしまい、家族や他の人々と交わらない。(22.5%)
  17. 発疹その他の皮膚症状。(20.3%)
  18. 異性への関心が強い。(20.3%)

『自閉症の発達精神病理と治療』(小林隆児著、P6:表6)より/1990年の調査

「自閉症」の研究が始まって半世紀、小児期に「自閉症」と診断された子どもたちの追跡調査が行われ、専門家の手元には青年期・成人期の自閉症に関するデータが集まりつつあります。しかし、調査対象になっている自閉症者のほとんどは、まだ「自閉症」療育の方法論が確立される以前に「診断」されているので、適切な対応がされているとは言えません。だから、これから成長して行く子どもたちは、必ずしも同じ経過を辿るとは限りません。また、言葉の遅れのない自閉症(つまり、アスペルガー症候群)に至っては、かつてはそういう概念すらなく「診断」されるはずもなかったので、完全にデータから漏れています。これらの人たちは、得意分野を活かして就職し、社会生活を営んでいることでしょう。しかし、全く問題がなく平穏な日々を送っている人は、ごく僅かしかいないと思います。

青年期になった自閉症の特徴について、『発達障害の臨床』(中根晃著/P83)に簡単にまとめた表があります。

A、精神遅滞を伴うもの

  1. 残存・持続した障害:知覚過敏、言語理解・表出の障害、物事の意味や筋書きの認知の困難
  2. 新たな問題点:作業能力の不備、余暇のスキルの未習得で自由時間を持て余す
  3. 行動障害および精神症状:自己主張と関係した攻撃行動、強迫行動、嘔吐などの習慣の異常、自傷行為、周期性気分変調

B、高学歴に達したもの

  1. 基本的障害:視点の変換の困難、他人と照合のない言語、理論的に飛躍したストラテジー
  2. 精神病理現象:不安症状(強迫症状、対人恐怖、心気症状)、精神病様反応(関係念慮、幻覚様症状)

※未診断の者では、これらの症状から精神分裂病と誤診されて、不適切な治療措置が行われている可能性もあります。

「自閉症」の予後については、「中機能群では、就労ができ比較的安定する者が多いが、高機能群の方が難しい。」というのは、よく言われています。その理由のうち最大なものは、中機能群だと幼児期〜青年期まで、治療的に介入する余地が大きいので一貫した教育がなされる可能性が高いのに対し、高機能群では学校での成績が良く高学歴に達し、身辺自立にも困難が少ないので放置されてしまうといった面もあると思います。しかし、果たしてそれだけでしょうか?


中機能群の就労例については、親の会などによる実践報告が出版されています。

以下、ここでは、高機能群の青年・成人期の問題について取り上げることにします。


どの年代であろうと、「自閉症」で、しゃべれる・身辺自立ができる・技能を習得できるということは、自閉症児を抱えた親たちの間では羨望の的となります。「自閉症だなんて、誤診じゃないの?」とか「もう、治ったから大丈夫。」と、あっちこっちから言われるでしょう。しかし、「自閉症」なのに、しゃべれる・普通に見える・適応できそう、だからこそ困るのです。青年期以降も、発達課題を抱えていることは確かなのに、ハンディがあるとは思われない。それどころか、「かかわり障害」と「こだわり障害」の角が取れると、ある程度適応してしまう。しかし、言語発達がどんなに良好でも、下のような「コミュニケーションの障害」が依然として残ります。

高学歴に達した青年たちは、学生時代には友人との行動もしており、青年期の発達課題を乗り越えたかのように見えるが、就職後に適応上の問題が起こることが少なくない。彼らは仕事がきちんとできている時には精神的にも安定し、真面目に働く。しかし、仕事上注意を受けたり、新しい仕事がうまく対応できないとそれについて考えこみ、そこから抜け出すことができない。自分なりに考えた対応をこころみるが、他人の目からみても正しい方法であるかどうかを考えて、方略を変更することができないし、自分の主張に理論的飛躍があって筋が通らないのに気づかず、他人から注意されても考え直して納得するといったことがない。彼らは視点を変換して物事に再対処することが極めて困難である。彼らは平生はごく普通に話をしているが、自分の立場を説明するさいに、ごく日常的な用語の使い方もおかしくなる。

『発達障害の臨床』(中根晃著/P87)より

早期発見・早期療育で、完全な対応をすれば、これらの問題が全て解決するでしょうか?

ちなみに、青年期の発達課題として、『自閉症の発達精神病理と治療』(P10)には、以下のような点が挙げられているので、検討してみます。(引用は、白字の部分のみ。)

1、友だち仲間との関係をいかに発展させていくか。

「診断」や行動障害や学習障害の有無に関係なく、対人関係の軋轢を回避していった結果、「孤立」という形でしか適応できなくなってしまうというのはうなずける話しです。特に、「おかしなことをする子・おかしなことを言う子」として逆の対応を受け続けて来た場合だと、介入されることが過去の心的外傷の想起につながってしまうので、一切の支援も受けつけようとしなくなる危険さえあります。といっても、人に向かって自分が興味を持っていることをしゃべりたいと思うことはあっても、悩み事を誰かに打ち明けて解消したいという動機がほとんど無いので、普通に言われているような「ともだち」を必要としているとは言い難いと思います。ただ、病気などの事態に陥った時に、用事を頼める人が身内しかいないというのは、実際問題として困ります。

2、身体像の変化をどのように受け止めるか。

二次性徴に伴う身体的な変化にどう対処するかということだけでなく、「性役割」を引き受けなければならないことも、大問題です。全く無関心だと、体が大人なのにいつまでも幼児のように振る舞ってしまって、破廉恥と言われる。或いは、本人はただストッキングの手触りの快感を求めただけなのに、中に生足が入っていたなんてことになると、痴漢と勘違いされてしまう。また、異性に関心を持っても、付き合い方がわからないこともあるだろうし、無防備で性犯罪の被害にあってしまうこともあるでしょう。この辺は、親が最も心配します。しかし、それ以上に大きいのは、「社会的な存在」として認められている人間像が、「男性」か「女性」かのどちらかであって、もはや「人間」ではないということ。これは、本人が最も当惑するところです。

3、母子分離と自立をいかに達成していくか。

母親にべったりと依存して離れられないケースもあれば、生活という点では誰かに依存しなければならないのに、「障害」への無理解のために精神的な虐待を受けて来て、家族からの解放を求めていることもあるでしょう。いずれにしても、社会に巣立って行かなければならないのは、最大の難関です。今まで、家庭や学校で容認されてきたことが通用しなくなるばかりか、収入がないと生活できないという状況に直面しなければならないから。まず、就職できるかどうか。次に、安定就労できるかどうか。更に、就労後に精神的な破綻をきたさないかどうか。いつになっても、楽観は許されません。

4、自己意識(アイデンティティ)をいかに獲得していくか。

「自閉症」が、もし認知・知覚・言語だけの障害ならば、この時期の高機能者ならとっくに克服してもよさそうなのに、何故、すんなり社会に適応できないか!? その元凶になっているのは、「アイデンティテイ」の獲得の困難さにあります。そもそも、教条的な絶対命令に固執するか・自己の「こだわり」を通すかという二つの選択肢しか持っていないので、他者と自分を比較対照することで「自分らしさ」を自覚し、自分の主義・主張を展開していくことなどできるはずがありません。自己意識の中に入りこんだ具体的な他者の視点ではなく、観念的に作り上げた一般論としての「人が他人に対して抱く見解」に、自分自身をがんじがらめに縛ってしまう。そうして自己の行動を統制して、由緒正しき立派な行動をしていると思い込んでいる。なのに、他者からの指示は、いつもいつも具体的な状況に応ずるように命じられる。それは明らかにルール違反であり、あたかも自分と同じような発想をしていない人類全体からの迫害を受けるかのように感じて、憤ってしまいます。


かつて、私はタバコ売り場の店番をしていた時、巡回に来た店長に「売れてるかね?」と尋ねられて、「タバコは健康にも地球環境にも良くないから、売れない方が良い。」と答えたことがありました。しかし、3年前に自分が「自閉症」だと判るまで、そこでそういう応答をしてはいけなかったことに気づいてさえいませんでした。それどころか、その店長のことを「人の健康と自然保護に配慮できない悪徳商人」だと思って怒っていたのです。それでは、「雇用されている身で、店長に向かって言ってはいけないことを言ってしまった」とか、それで「自分の評価が下がってしまった」ことをクヨクヨ悩むはずもありません。いくらタバコの害についての認識は正しくても、その場では"タバコ売り場の売り子"として振る舞わなければならないし、雇い主の機嫌を損ねてはいけないなどという考えは、当時の私には、これっぽっちもありませんでした。

前回の『日記』に書いた、学生時代に時候の挨拶に対して天気図や気温の推移についての講釈をしたことも、それが失礼なことだと分かったのも3年前でした。ただ、その場のシラジラした雰囲気だとか苦笑していた相手の顔の残像が頭にこびりつき、何度も何度もフラッシュバックして(生理的に)苦しくなるのだけれど、それが何なのかは全然分からない状態でした。また、随分と長い間、師匠から教わった返事の仕方や社員研修用のマニュアル通りに答えていたので、その件に関してはカンペキだと思っていました。無理して挨拶以外の会話をしなくなったのは、つい最近です。だから、上手く応対できていないことに悩んでいたのではありません。

私は、社会的人格を持つというのは、自分の魂を本当に裂いて切り売りすることのように思っていました。自己の中心となる自我が、立場によって仮面をかぶって"本当の自分"を守って良いし、それは、「現実に目の前にいる他者によって規定されている自分の役割」でしかないということを知らなかった。また、24時間・全てのニンゲン活動に、状況に則して決まったしゃべり方や考え方があるのではなく、プライベートな場では"元々の自分のしゃべり方や考え方"を持っていて良いのだということも知らなかった。結果として、《自我によって統制されていない・感覚的な部品でしかない・自閉症のワタシでいる》か《全く自分ではない誰かになっている》かの、どちらかでしかありませんでした。

世間というのは残酷なもので、私が《まるっきりの赤の他人》になりすましている時はみんなが私を賞賛し、背伸びするのに疲れて《本当の自分自身》に戻ると、「いい加減にしろ!」と責める。しかし、こちらがどんなに望んでも、一向に解雇してくれないのです。

私は、「自閉症」という真犯人をつきとめるまで、人間関係はあるのに「人と人との付き合い」がないことにも、生物としての性はあっても社会的な「性役割」がないことにも、依存していた母親が実はトラウマの塊であったことにも、自分のアイデンティティが無いことにも、全く気づいていませんでした。なにしろ、「他人と照合していない」ことを誰も教えてくれなかったのだから、「他人と照合していなかった」ことさえ判っていなかったのです。しかし、「診断」が下ったから、これらのことを引き受ける気になったわけではありません。むしろ、「そのまま行こう!」「これで良かったんだ!」と思いました。


「診断」が遅れたことで、被ってしまった不利益はたくさんあります。だから、精神的に破綻をきたす前に、いや、精神的に破綻しないように、全ての自閉症児ができるだけ早い内に発見されて、適切な療育を受けられるようになることを、切に望みます。では、それで全てが解決するでしょうか? 以下の問題は、まだ残されるような気がします。

・・・私は、きっと逃げ出したと思う。

「自閉症」の研究が進んで、あれができない・これができないと拾い出して治そうとするよりも、「得意な面を伸ばすようにしよう!」とか、「こだわり」を大切にしよう!」という基本方針が指導されるようになったのは、素晴らしいことです。でも、最後まで残されるコミュニケーションの問題に関しては、単なる"会話の技術の問題"として指導されたのでは、たまったもんじゃあありません。私が、自分のことを「お前」と呼んだり、人に対して「わたし」という主語が必要なのは不自然だと感じていたことも、第三者からすればコミュニケーションの障害ですが、本人にしてみれば自我の脆弱性の障害です。そういう基本構造への配慮なしに言葉使いを直され続けたら、「ああ言えばこう言われた、こう言ったらああ言えと言われた」という記憶が残るだけだと思います。

・・・だって、それは、もうどうすることもできないのですから。

「自閉症」だから、"自己に内在する他者からの視点がない"ことに十分考慮して、「こういう風に教えてあげれば本人にも意味が解かるよ♪」と気楽に考えてもらいたい、と思います。


          

「社会性ってなに?」へ   「ペンギン日記」へ  「親の治療」へ