親の治療

「障害のある子どもを持った"親"もまた、治療の対象になる。」ということは、実は臨床の現場では誰でも知っていることだし、いろんな「親の会」ができるのもその為と言ってもいいくらいの、大問題なのだ。"親"への治療といっても、障害児と社会の板挟みになって苦しんでいる親に、抗鬱剤や精神安定剤を処方しろというのではない。親自身の「心」の癒しもまた、必要だということだ。

去年、或る学会で「障害児を持った親が、我が子の障害を受容して一緒に生きていく気になる」までの何年間かの[母親の日記]を、ただ読み上げるという報告を聞いた。正直言って、「すっごく楽した研究発表だ!」と思った。けれども、こういう母親の心の軌跡なんて、障害を持った親たちと接しているとよくあることで、とってもありふれたことなのだ。それなのに、「こういう観点から研究対象にされるのは始めて」という前置きの方に驚いた。

「どうやら、この子は"普通"じゃないらしい!」と気づいた時、親の取る態度はさまざまだ。まず、身体的な障害や脳性麻痺などの目に見えて判る障害だと、事実は事実として受け入れざるを得ないので、納得するも何も、その後の治療スケジュールを黙って聞き入れるしかない。しかし、こういう「障害」なら、全ての人が協力して養育しようと思って当然だと思っていたら、この極東アジアの島国の土着民族というのは恐ろしいもので、「障害のある子どもを生んだ」などと言って母親を責めるなんてことが、未だに当たり前のように行われているらしい。

「精神発達遅滞」「言語障害」「自閉症」「注意欠陥多動性障害」という発達障害では、事情はものすごく複雑になる。意外に多いのは、母親はいち早く異常に気づいているのに、父親が認めようとしないケース。それから、ほとんどの場合、祖父母が全く理解を示さず「普通の子だ」と言い張って、第一の外敵になる。それで、ワラにもすがる思いで児童の発達障害を診てくれる病院に辿り着いて、開口一番「私の育て方の、どこがいけないのでしょうか?」と医師に泣きながら訴える、なんてよくある話だ。それで、「お母さんが悪いんじゃなくって、障害があってこういう行動をしているのですよ。自分を責めてはいけません。」と言われて救われた気分になる、というのも非常にありふれたパターンだ。

それから、母親が障害を受容できないケースでは、「今まで、私は順風満帆な人生を送って来たのに、この子のせいで私の人生はめちゃめちゃにされた!」という被害者意識があって、何年もかけて説得して「この子と共に・この子の障害と共に、生きて行く」ことに価値を見出すように母親の方を"治療"したという報告にも、枚挙に暇がない。

どちらにしても、こういう家族を見る度に、グサッグサッと来るわけです。

まわりの家庭というのは(実状はどうあれ行事に出てくる時には)、だいたいこんな様子ですから。

子どもの「障害」を認めていようといまいと、社会との戦闘の最前線に立たされている母親が、障害児の数だけいるのは事実です。


「診断」がついたから、我が子の能力を最大限に活かすための方法論と施設と教育体制が整っていて、「ウチのお姫様や王子様の前には、バラの花を敷き詰めた療育の道が開けている。」と思っていると、とんでもない! 「診断」だけはあっても(その前に「診断」さえなくて、の方が圧倒的に多かったりもするのだが…)、何の指導もなく「どうしていいか分からない」とか、さしあたって何か言われたけれど「本当にそれで良いかどうか疑問だ」というのが、医療現場の実状です。教育の方は、まるっきりお粗末で、それこそ自分で開拓して、イバラの道を切り開いて行かなければならない段階です。(と言うか、進んでいる地域とそうでない地域の格差がありすぎます。しかも、専門の研究者がいて・進んでいる地域を数えるのに、片手で足りてしまうというのは、大問題だ!!!)

それで、普通でない我が子をどう扱って良いかわからない母親が、一番最初にすること。

問題行動を起こす度に、叱りつける。

でも、言葉が通じないので「言っても聞かないから、体で覚えさせろ!」となって、

問題行動を起こす度に、叩く。

ということになって、何をするにも横目で母親をチラリチラリと見たり、終いには、明らかに母親に対して怯えの表情を見せるようになってしまう子どもを、よく見掛けます。というのは、「診断」を宣告された母親は、「障害」という言葉は「社会的な死」を意味するかのように連想して、ショックを受けます。しかし、周りから絶えず「母親の育て方が悪い」かのように言われ続ける。だからこそ、なんとかして直してやろう(つまり、行動を矯正してしまおう)と躍起になってしまうのです。(それが悪いと言っているんじゃなくって、そうならざるを得なくなっているということです。)

すると、障害児の方は、自分のした行動と叩かれたこととの因果関係がわからず、

不安感が強まって、ますます問題行動が激化するという、悪循環が繰り返される。

そこで、「障害」を良く知っている治療者が、受容する方法と接し方を指導すると、

子どもの問題行動が沈静化し、安全感が生まれて母親に愛着行動を示すようになり、

母親の側に、始めて「我が子が可愛い」と思う余裕ができる。

という「母子関係の治療」がなされるのは、障害児教育の常識とも言える構図です。

最初に子どもの障害を受容して味方につく範囲が、全くなくて子どもだけが追い込まれようと、母親一人だけだろうと、両親揃っていようと、万全の医療スタッフが付いていようと、障害児の周りには、全く理解がなく「躾のせい」と強行に主張する敵が必ずいます。同居する祖父母、近所のおじさん・おばさん、同級生の父兄や教師、etc。・・・障害を受容するということは、人は皆一人前で、「普通」であることが「価値あること」だという前提で成り立っている「社会」の中に、「異常」なことをする子どもの「親」として所属する苦痛と、そういう子どもをやがて「社会」に送り出さなければならない不安を抱えながら、どうしていいかわからない子どもに対峙しなければならないということなのです。

しかし、障害のある子どもを社会の成員として育てるためには、障害の受容は不可欠です。その為には、必要なポイントというのがあります。

  1. 子どもの「障害」を知ること:どういう「障害」なのか分からなかったら、間違った解釈をし続けることになります。障害児の行動に一般的な意味付けをして、「良い子・悪い子」という評価をしてしまうと、問題の所在を見失います。それから、「障害」に則したスモールステップを知らなければ、「できなくて当たり前の過剰な要求」の連続になって、失望し続けなければならなくなります。
  2. 愛着形成の「障害」となる「障害」に惑わされないこと:サイレントベイビーであるとか、接触防衛反応の強さとか多動というのは、感覚神経や運動神経の異常に起因するものであって愛着形成を拒否するものではないということが分からないと、親の「愛情」を無視されたかのように思ってしまいます。
  3. 相手に届かない「愛情」は「愛情」ではないこと:親が、どんなに自分の「愛情」を伝えようと熱心に取り組んでも、子どもが望んでいることと食い違っていたら、それは「愛情」ではなく「苦情」です。「子どものために良かれと思って、全身全霊を尽くしてあれもこれもやってあげたのに、全く効果がない!」と嘆く前に、目の前の子どもの発達段階を見極める必要があります。

つまり、正に、「急がば回れ!」なんです。

あっ、参考までに…、障害がある子の母親支援の方法』(大熊喜代松著/学研)なんて本が出ています。


      

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