自己意識の限界

発語のない孤立型(カナー・タイプ)の自閉症児が言葉をしゃべるようになるとか、行動障害のある子どもが人の指示に従えるようになる、という「目標」を実現するには、「言葉を教え込んだり行動を統制するより先に、愛着形成が大切だ。」と言われています。これは、すなわち、「人に意思を伝えよう」とか「人に喜んでもらいたい」とかいう欲求が自発的に起きる前にこうしたことを要求すると、無目的で無意味な言葉やただ我慢するだけの所作を習得してしまう危険があるということです。

ヒトが人間になるため;に愛着形成が必要だというのは、比較的最近の理論です。で、これは何も障害の治療のために編み出されたのではなく、乳児期の発達課題の研究の所産です。いろんな本で散見するBowlbyという児童精神科医が1969年に発表した、"愛着行動を[生得的行動]が[目標修正的行動]に発達する過程"を、『発達心理学』の教科書から拾ってみます。

定位行動
人の顔を好んで注視する、声のする方に頭を回転させ鎮静する。
⇒母親を他人と区別して、眼や耳で母親の存在を確かめたり動きを追ったりする。
発信行動
泣き叫ぶ、微笑む、なん語を言う。
⇒泣き叫びの強度を調節する。呼び求める、両腕を上げたり手をたたいたりして歓迎を示す。かんしゃくを起こす。
接近行動
握る、見つめる、食べることと無関係な吸引。
⇒しがみつく、探し求める、後を追う。

つまり、生理的・生得的な行動が、母親という特定の人への行動へと発達していく過程が大切というわけです。この中で、「母親が泣くと泣きやむ」とか「母親がいなくなると泣く」とか「母親の後を追う」というような、いわゆる"後追い"とか"人見知り"については、「あって当たり前だけど、しない子もいるので、それほど心配することはない。」と『育児書』や『育児雑誌』に書いてあります。(注:それが、発達障害のサインだと言うのではありません。)

でも、「治療」目的で愛着形成を取り沙汰する場合、よくチェックされるのは以下の項目です。

確かに、接触防衛反応がある子どもは、自分から抱っこを求めたり・抱かれやすい体勢をとったりしないし、抱かれても重心が外に逸れて抱きにくい、と言うより落ちやすいので、とってもたいへんです(注:これには、原始反射がいつまでも残存していることも関係します)。それから、何かに脅えると、いかにも「恐い」という表情をしてそこに立ちすくんでしまい、人に駆け寄って助けを求めるどころではありません。また、母親の姿を見掛けると、(嫌っているとか・避けているという理由でなしに)面白がってワザと逆方向に走り出すというような行動をとることもあります。

あまり母親を求めたり頼りにしない子なので、「放っておいても大丈夫な、手のかからないおとなしい子(サイレントベイビー)」と思って安心していたのに、いざ歩けるようになったら、今度は「追っかけ回すのに忙しい多動児」に豹変した。なんて、よくあるパターンです。

そういう発達障害児の「関係障害」を「治療」するというのは、こういう図式になります。

人と無関係な状態だった子どもを、母親に愛着行動がとれるようにして「安全基地」を作る。

「安全基地」から離れては「甘える」という、発展した愛着行動がとれるようになる。

そうして、「物」に極限していた興味を「人」に向けさせ、「人」としての「行動」を模倣したり、「人」の反応を引き出すための「行動」を起こしたりできるようにする。

「人」との間に、情動的な共鳴関係を共有する。

愛着対象者との間の二者関係でしか通じない「サイン言語」で、会話するようになる。

《自分》《他者》《物》という三項関係を理解し、「共同注視(指差し)」ができるようになる。

他の「人」とも関係がとれるようになり、「人」の指示に従えるようになる。

「言葉」のやりとりができるようになったり、「人を喜ばす行動」ができるようになる。

しかし、それで「自閉症」が治るとか、行動障害がなくなるというものでもありません。治るのは、「人と人との関係性の障害」であって、もともとの「かかわり障害」や「注意の指向性の障害」や「注意集中の欠陥」ではありません。だから、愛着形成ができても、その子どもは相変わらず「自閉症」だったりADHDだったりするのです。


ここは、ADHDの『日記』ではないので、話を「自閉症」に戻します。

こうして、言語発達と行動統制に成功した「自閉症」児の何割かは、「早期小児自閉症」の状態ではなくなります。いわゆる、一見「普通」なのに「自閉症」である、「アスペルガー症候群(不自由なくしゃべれる自閉症)」とか「広汎性発達障害(自閉症のような行動をする人)」と呼ばれる範疇の「自閉症」児に変貌を遂げます。つまり、他者と無関係に"自動的に動く=autism"状態ではなくなります。

こうなると、人との関係は持てるし、人としての行動は取れる。全く「自我」が無いことはない。けれど、こうなっても尚、対象に同化しやすいままです。特定の感覚刺激に没頭してしまったり、場面ごとの人格の交代が全人的な乗っ取りであるかのようになってしまったり、誰かに何か言われたとか何処かに何か書いてあった「言葉」を全人類からの命令や迫害を意味するかのように受けとってしまったり、目の前の人物の感情的な変化に影響されたりしてしまうのです。(注:全ての「自閉性障害者」が「早期小児自閉症」だったのではなく、出発点が"ここ"という人もいます。)

この時期でも、自己意識の輪郭となる自己の身体の境界を外部からの圧迫刺激の形で得ようとするので、タオルや布団に全身すっぽりくるまったり、ボールプールを好むなどの締め付け刺激を求めたりします。小学生ぐらいまでなら、全身マッサージや、感覚統合的な遊びを取り入れて親子で一緒に遊ぶのが有効なのは、このためです。それから、いくつになっても「自分で作り上げた観念的な他者」に行動を規定される脅威から逃れられないので、「自分が・いま・どういう風に見えているか」とか「その振る舞いは・他人には・どう解釈されるか」ということを、私の言葉&私が聴き入れる言い方で教えてくれる人は、生きている限り永久に必要です。

「物」から「人」へと関心の対象を移行させるため、或いは、「行動障害」の治療のためには、一時的に「こだわっている物」を周囲から除去することも必要でしょう。しかし、こうなった状態の「自閉症」者、つまり、全く「人」と係われないことはない「自閉症」者から「こだわり」を剥奪することは、「精神的な死」を意味すると、私は自分の経験からも思います。何故かと言うと、私は現在、「こだわり」を「趣味」として残すことで「精神の均衡」をはかっているからです。それよりも何よりも、「こだわり」を技能に結びつけて職を得ることが可能になっている人も、現実にたくさんいるでしょ!

「早期小児自閉症」の明らかな特徴があるうちは、医療的にも教育的にも万全の体制をとってベストを尽くすことが必要だと、誰しもが思います。しかし、「自閉症」という状態のまま、「外見上の普通さ」を獲得して「世の中」の一員になっている人がいます。逆に、「学業成績の良さ」の故に「学校」という環境にだけ適応してしまった「自閉症」者は、一人前にできて当然の扱いをされて「人」として生きなければならない現実に直面して、「社会」に出ることをためらいます。いつもいつも、神経症状が安定しているわけではないし、自分を取り巻く人財に庇護されていられるとは限りません。元々の「障害」が一人一人違うだけでなく、「自分史」の経過が全く逆になっているという点でも、一人一人が全く違っている。だから、救われる道も、人それぞれ・さまざまなんです。

というわけで、私は今、こんなことをしている。

でも、饒舌に語っている時ほど、「世の中」からの疎外感を感じてしまうのは、何故だろうか?


      

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