マレク先生の手
わたしは、他の人にあって自分には欠けていると思われるものを、箇条書きにしてみた。
- 自分の体、及び感覚との一体感。自分の過去との一体感。
- 愛着、信頼、人との親交。
- 自分だけ違っているとは感じずに、平等の関係だと思えるような、友情。
- 闘って自分の中に引きこもってしまうのを、止める能力。
- いつ、どういう人に対して見切りをつければいいのかという判断力。
- 自分の中に引きこもってしまうことなくいられる場所。
- 保証がなくても、「世の中」を受け容れること。
- 他人に頼らなくても、未来を見通すことのできる力。
わたしはこれを、マレク先生に見せた。先生は、かすかに笑ったようだった。
『こころという名の贈り物』(P85)
「もしできたらでいいんだがね、ドナ、わたしの手にさわってごらん」次のレッスンで、マレク先生が言った。とたんに吐き気がこみ上げて来て、わたしは身動きできなくなった。この男は何を望んでいるのだろう? わたしはパニックの中で考えた。過去のこだまが、大波のようにわたしを襲い始めた。
(中略)
マレク先生は、わたしの中のこの闘いを、知っていたに違いない。先生は、無理やり侵略してくるようなことは、しなかった。先生は、ただ手を差し出したまま、わたしの方から触れるのを、待っていた。
わたしは怖かった。自分がむき出しになっているのに、どうしたいのかという自分の気持ちが、どこにも見つからない。
『こころという名の贈り物』(P157〜158)
触れ合いを受け容れることや、本物の感覚を持つことは、近しさや親しさから生まれるものだと思う。あるいはどうして自分がそうしたいのかと、自覚するところから生まれるものだと思う。だがわたしはこれまで、そうした本当の触れ合いや感覚と、自分が行ってきたむなしい演技でしかない触れ合いとの間に、決して橋を架けることができなかった。
というのも、わたしは心の中で、人が自分に触れるのは、逆にあらゆる近しさや親しさの可能性を打ち砕き、否定するものだと感じていたからだ。
『こころという名の贈り物』(P163)
人が、人から生まれて人の中で育つという"当たり前のこと"ができない自閉症者が、「ありのままの君でいい」なんて言われることは、まずありません。確かに、自閉症者が"ありのまま"でいては、本人も周囲の人も困ります。社会的に妥当な範囲に入ってもらわないと、他の人たちと一緒に居られません。それに、たとえ社会的に受け容れられる範囲に入っていたとしても、その基盤はやはり自閉症の形式のまま"当てはまっているだけ"ということが解かっていないと、いつか必ず破綻します。
特に、あまりにも人と違う奇異な行動をしてしまう人とか、明らかな問題行動をしてしまう人は、あたかも"そこにいることさえも許されない存在"になってしまいます。しかも、『天使が消えた街』で、ラジオを落として発作的なパニックを起こしてしまった輝さんに対して、「困っているのは当の本人なのに、誰も助けてやろうとしない。それどころか、逆に追い込んでいるのはあなたたちだ!」なんて言って護ってくれた達郎さんのような人も、普通いません。(そういうことが言える人もまた、社会から爪弾きされてアウトローとして生きる道を選択した人でした。)
或いは、「社会的に恥をかかせない」「一人前に認められるようにカモフラージュする」という交換条件の下で"生活の保障"だけしてもらっている関係しかないとか、"うまいこと利用されている"だけの関係しかないのは、生活上の必要から依存しているだけで本当の意味で"いなくなったら困る存在"ではないので、絶えず《捨てられる恐怖》と背中合わせです。
「自閉症」という障害を持って生まれた人は、〈人〉が〈人〉に対して抱く素直な感情だとか〈人〉に係わる為にする行動が、そもそも違っているのです。そうと知らずに育ってしまうことは、「誤解されることはあっても、理解されたことがない」という外傷体験の連続でしかなかったりします。だから、ただ単に、"人と違う在り方をしている"というだけで、そういう思いをして来た人たちが、純粋に〈人〉が〈人〉を救おうとして"手を差し伸べる"ことがあるという事実を受け容れるのは、容易なことではありません。
健常と呼ばれる大多数の人たちは、この世に生まれた瞬間から誰に教わることなく、家族の中での自分の位置付けを探り、自分の存在を"人に認めさせる"ためにはどういう行動をとれば良いのか知っています。母に対しては子であるのは当たり前のことで、自分が帰属している家族の中でどう振る舞ったらいいのかなんてことを人から教わる必要も、全くありません。そして、人見知りなどのいくつかの過程を経て、家族以外の他の集団に係わることができるようになり、そこでの自分の役割や位置付けを死守しようとします。
しかし、自閉症者は、そういう「社会的な人格」を持っていません。
また、健常と呼ばれる大多数の人たちは、この世に生まれた瞬間から誰に教わることなく、自分の生理的な欲求や心理的な感情を満たすために"人に働き掛ける"にはどういう行動をすれば良いのか知っています。更に、社会的な役割を積極的に担うことで、その要求がかなえやすくなることも知っています。人の心情に響くようなお世辞を言ったり、人の心情を動かすようなオベッカを使うことができます。
しかし、自閉症者は、そういう「社会的な欲情」を持っていません。
普段は精一杯の演技をして「社会的な人格」を装っている人が、酒の席やプライベートな場面で思いっきりハメを外して人に甘えたり、自分の感情を他人に対してむき出しにすることは、恥ずかしいことではなくむしろ好感を持って迎えられます。心理的な距離を置かずに、自分のことを人に語り・人の話に耳を傾けで共感することと、物理的な距離を置かずに、人と触れ合うことは、人との親しさの証です。
しかし、自閉症者は、そういう風に「人に打ち解けること」が出来ません。
もし、何かのオタク的な知識があれば、その話題が披露できる時・披露していい場にいる限り、"そこにいる"ことができるでしょう。しかし、本当の自分でいられるのは、砂時計の砂と共に自分が落下している時や万華鏡の色彩と形の中に入り込んでいる時や音の振動に共鳴している時でしかない、なんていう感覚を共有してくれる人は、普通の人ではありません。
ありのままの自分の存在を認められたこともなく、自分の自然な感情を現わすことを禁じられた人は、初めはただの"人と違っている"だけの人でした。それが、何時の間にか「悪い子」になり、「ここにいてはいけない人」になってしまう。
本当に、怖いのは「人の心」です。
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