二つのモード

最近、私は「自閉モード」と「普通モード」という、二つのモードを切り替えて生活している。モードを切り替えたからといって、別人になってしまうわけではない。ましてや、「普通モード」というのは、全く普通の人になることを意味するのでもない。どっちでいても、出来る事は出来るし、出来ない事は出来ない。どっちでいても、物事は部分か全体かのどちらかで認知して、場面ごとに意識はブチブチと切れた、"デジタル人間"のままだ。

ただ、「自閉モード」でいられる時は、何の気兼ねもすることなく思いっきり「自閉症」のままでいることに決めたというだけの事だ。しかし、この境地に至るには、「自閉症」らしい行動や感じ方や考え方を「悪」や「罪」として封印していた、自分自身の「心」との闘いが必要だった。いや、その前に、「自閉症」の先輩たちとの出会いがあり、「自閉症」のままでいられる場所を提供してくれた先生方との出会いが必要だった。

「自閉モード」でいていい場所にいる時は、私は自分が落ち着ける場所に座り、見たいものを見、聞きたい音を聞き、好きな方向を向いて、自分にとって自然な姿勢をとる。時間が許す限り、一曲リピートでCDを延々と聴き続ける。そこにいる人といえば、「自閉症」のままでいることを許してくれる人たちだから、相手の目や顔を見なくていい。その〈人〉は、場の一部でしかないから、体を揺すろうが、手を振ろうが、足をバタバタさせようが、一向に構わない。考えながらしゃべる時は、音の混乱を防ぐ為に目をつぶってさえいる。そして、聞こえて来る声の中から、自分が反応できる言葉や話題だけを拾い、自分の使いたい用語を使って、一方的にしゃべりまくる。

そう、これは、悪い事じゃない。「自閉症」なんだから、当たり前の事なのだ。

ただ、普通の人が見たら奇異な事・普通の人がやらない事・普通の人には失礼な事・普通の人の前でやっては恥ずかしい事・普通の人の気持ちを損ねる事を、普通の人のいる所ですると、自分が「損」をする。でも、普通の人が誰もいないところで、自分の魂まで売り飛ばして普通にしていることはないのだ。

そして、今や、「自閉症」でない人たちが、私には絶対に感じる事の出来ない感じ方をし、考えつきもしないことを考え、はかり知る事の出来ない楽しみを享受していることを、素直に認めることができる。それは、どっちが上でどっちが下ということでもない。ただ、違っているということだから。

かと言って、今まで遮断していた「感覚」を全く解放してしまうわけにはいかない。なぜなら、世の中は、我々仕様でない音・光・臭い・触感に満ち溢れているから。もし、そうした「感覚」のまま世の中に出て行ってしまったら、私は平静を保つ事が出来ない。そして、私にはほとんど暴力に近いような「感情」の渦の中に巻き込まれてしまったら、完全に狂わされてしまうから。そういうものには、出来るだけ近づかないように、気をつける事が出来るようになった。全て、原因が判ってこそ心掛けられる、というものだ。

「診断」なんて、あってもなくても自分自身は変わりようがないから同じだ。とは思うけれど、ただ、今は大手を振って言うことが出来る。だって、自分一人の思い込みでも、思い過ごしでもないことが、確かに証明されたのだから。


        

「症状にならない症状」へ   「ペンギン日記」へ  「自閉症という名前」へ