「自閉症」とエゴイズム

 

「障害者」は、障害があって善悪の区別がないから何をしても許されるなどと考える人はいないと思います。「みんないっしょに」生きて行く為には、"社会の側"と"障害者自身"のお互いの努力が必要なのです。

ノーマライゼーションが前提としているのは、双方の歩みよりです。

  1. 障害があっても居場所が有る"社会"を実現する。
  2. 障害がありながらも一緒に生きていけるように治療・教育をする。

"社会の側"に求められるのは以下のようなことです。

  1. 障害をよく知る。
  2. 健常者の価値観を当てはめない。
  3. 障害があるからといって、何か他の生き物であるかのような≪差別≫をしない。また、憐れんだりさげすんだりしない。
  4. 理解しがたい行動をしているようでも、ちゃんとした理由や訴えがあることを≪理解≫しようと努力する。
  5. 能力がないのではなく「能力を活かす方法について無知なだけ」と、戒めて接するように心がける。
  6. 障害があっても同じ「人間」という観点を持って、困難を抱えて生活するひとびとの便宜を図る工夫をする。

"障害者自身"の生き方は、養育者と指導者の姿勢に負うところ大なのです。

  1. 障害の特性やそれぞれの性格に合った特技を見出し、社会的に通用する技能を習得する(とりえを活かして仕事につなげる)。
  2. ひとりひとり、それぞれに合ったライフスタイルを模索する。
  3. 障害があるから「できなくてあたりまえ」ではなく、障害があるからこそ「やってみよう」という前向きの姿勢を身につける。

"社会の側"は、行動を見て「悪」として排除するのではなく、自分たちの「無知」を自覚するべきです。そして"障害者自身"と"養育者と指導者"は、障害をもてあましたり振りまわされたりすることなく「生きる力」を培う必要があります。


さて、「自閉症」は≪群れる≫ための構造を持っていない、あるいは、その構造に歪みがある障害であるというのが私の持論です。つまり、社会的存在でありながら≪群れない≫という特性を持ったひとびとです。

自閉症者の行動は明らかに奇異なこともありますが、単なる「わがまま」と受けとめられる場合が多いと思います。できないこと・いやなことから逃避したり、決まりごとが守れなかったり、自分のことしかやらなかったり、自分の言いたい事をしゃべりまくったり‥人としてあるまじきさまざまな行為をしでかしまくります。なにしろ、普通ならこの世に生まれた瞬間から働き始める「生存の為に必要なゴマスリのテクニック」を持たないまま「おもいのまま」に生きているのですから。

長年つきあってきた間柄の内では、ある程度理解を得て「あの人はああいう人だから」とそれなりの居場所を確保することができます。しかし、わがまま・へんくつ・変人の汚名はぬぐいさることはできないでしょう。≪社会≫と≪個人≫、≪個人≫と≪個人≫との間に葛藤のない人なんていないのだから、誰か一人を特別扱いできる余裕などあるはずもありません。

そしておよそ、人が苦労して身につけてきた価値観を否定し、社会的地位を確保する為の努力もしなければ、人の気持ちや立場を考慮して「つきあう」ことのできない常識のない・なじめない人とバカにされてしまうのです。「人の話を聞かず、いくら言ってもわからない」しょうもないヤツと、のけものにされたりいじめられたりしてしまうこともあります。

そして当の本人はというと、高飛車な態度でやたらとあっけらかんとしているか暗くジメジメとしているかのどちらかで、いっこうに気にするそぶりもない。それもまた不気味ときている。利用価値がない限り近づくのはやめにしよう、とこうなるのではないでしょうか。

しかし、世の中そんな人ばかりじゃないから、まぁ「捨てる神あれば、拾う神あり」でどうにかこうにか生き延びてこういう大きな顔をしているわけです。本人からすれば、人になんて言われようと聞く耳を持たないか、何かに没頭していて他人のことはどうでもいいなんてこともよくあるんで、無理して「つきあい」の場に出て行かなければならない時以外はルンルン気分でいられるものです。

で、こんな「わがまま」な自閉症者はエゴイストかというと、実はまるっきり正反対に「自閉症者」はエゴイストにはなり得ないのです。「自閉症」の自閉性の元になる「社会的相互作用の欠陥」は、自我=エゴの形成に重大な影響を及ぼします。

というようなエゴイストは、自分と他人の図式が完全に出来あがった上で自分のことしか考えていない人のことです。自分と他人との関係を形成し損ねて「自分だけの世界」の外へ出られないでいる「自閉症者」は、人の心を読むなんてことは出きるはずもないのです。ましてや、人の心を計算して自分の為に利用するなんてもってのほかです。結果として人の心を踏みにじっていても、本人はただ自分の思いのままに振舞っただけなのです。それに、自分の身を守るのがこんなに下手な人種もないでしょう。なにしろ、本心まる出しのあけっぴろげかパニックになっているかのどちらかなのですから。

エゴイストというのは、むしろ、健常と呼ばれている人たちの方です。「自閉症者」からは、この"エゴ"はとても汚いものとして目に映ります。オモテとウラ・本音と建前を使い分け、うわべだけの「つきあい」ができる人は、許すまじき人なのです。言葉のわかる「自閉症者」は、いつも自分に正直に発言し、人の言う事を真に受けます。そして、自分の価値観を人に押しつけてくる「おせっかい」には「いいかげんにしてほしい!」と思っています。人との関係が希薄なことが心地よい者にとって、人に積極的に係わって干渉しようとしてくる「あつかましさ」がとてつもなく気持ち悪いのです。私はいつも、隅っこに座って人を眺めていたいのに。人にではなく壁にもたれていたいのに。できれば黒子になっていたいのに。


こんなに純粋な子供たちに、社会に生きる力を身につけさせる為に。


「自閉症」だと診断されていてもいなくても、子供に「社会性」が無いことを≪個性≫として認めすぎる育て方をした場合、本人自身は重大な人格障害を背負ったまま一生を過ごさなければなりません。逆に、「おまえはダメなヤツだ」と否定され続けて育ってしまったら、生きる場所が無くなってしまう。そのどちらに偏ってもいけません。

こういう子供を育てる時、まずは「自閉」を≪個性≫として十分に認めてあげて下さい。確実に本人に伝わるように。その前提の上で、「わがまま」と誤解されそうな行為はしないように何度でも言い聞かせて下さい。本当にはわからなくても、いつかは学習できるという希望を無くしてはいけません。そして、「自分の好きなことだけやっていてはいけない」ことを、日常生活の中で教えて下さい。決して無理をせずに、ささいなことを仕事として受け持たせるだけでいいのです。勉強の嫌いな子に机に座る習慣をつけさせるだけでも、立派な社会性の学習です。

そして、何かおかしなモノに凝りだしたら、社会的に通用する方向に持っていってあげて下さい。価値観がなければオタクの道にも入れません。どんなことでも、社会的に正当化される様式に近づける努力を惜しんでいけないと思います。

≪個性≫を認めるというのは、社会の中に居ながらその「居かた」がいろいろあって良い、ということです。人間が社会的動物である限り、社会的に価値のある≪個性≫とそうでない≪個性≫との選別はつきものです。でも、その≪個性≫に「障害」がくっついているからといって排除したり食い物にするのはエゴイズムです。共生の為には、お互いのノーマライゼーションが必要不可欠なのです。


        

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