蛍光灯と視覚の死角
何か書いてあったとか、誰かに何か言われるとすぐに鵜呑みにしてしまうのは悪い癖です。でも、事実は事実なので、いつもと同じように日記に書いてしまうことにします。どうせ、これは独り言なので…。
ドナ・ウィリアムスさんとテンプル・グランディンさんが、共に蛍光灯のチカチカとする光波が自閉症者にとっていかに迷惑なものであるか教えてくれるまで、私は全くそのことに気づいていませんでした。でも、紫外線防止効果のある花粉症予防メガネをかけただけでとっても楽になると経験的に知っていたので、試しにいろんなサングラスをかけてみたところ、ものの見事にハマッてしまいました。千円そこそこのコンビニで買った茶色のサングラスが、何万円もかけて特別にあつらえた視力矯正眼鏡に、勝っていたのです。
単に、いままでなかった奥行き知覚を取り戻しただけなのか、他に何かあるのかはよくわかりません。蛍光灯に限らずどんな光のもとでも同じ効果があって、とっても楽になったのはどういうことなのでしょうか。それに、サングラスをすると蛍光灯や電球に自然に視線が行き、上ばかり向いてしまうのも不思議です。何か、光の波長そのものに惹かれていたみたいです。
はたまた、私にとってお寺とは、線香の匂いやろうそくの炎の揺らぎ、梵鐘・木魚・読経の音、幾何学模様や金の装飾品のキラキラする輝きだったのと、何か関係があるのでしょうか?
これは、あくまでも予測ですが、規則的なもの・周期的なもの・物理的あるいは化学的な要素に対する反応の強さと囚われが、「自閉症」の謎を解くカギのような気がしています。
それで、そういう光のカベの向こうにあるもの、つまり、実在するいろんな物が見えていないかと言えば、そんなことも全然ないのです。たえず視線があっちこっちにさ迷っていて、まっすぐに一つのものを見るのはタイヘンだけれど、かなり小さい頃から、人が次に何をするか観察して先回りしてしまうのはお手の物でした。そして、事象の関係を把握する能力には何の問題もなかったし、言葉・数・論理的な思考はむしろ得意な分野でした。絵も上手く描けました。私はけっこう気が利いて、頭がイイと思われていました。
お陰で、私の視覚は、まず第一に光によって、次に興味・関心・注意の特異性によって、死角だらけだったのに誰も気づいていませんでした。その死角の為に私に見えていなかった唯一のもがニンゲン、いや、ニンゲンの現実だったということにも…。そして、私が、まるでネガフィルムのように白と黒とが逆転した世界にいたということも…。
私には、学習上の困難はないし、目に見える行動障害も起こしませんでした。私の子供時代は、多動で奇声を挙げパニックに陥り、しばしば集団の和を乱すというよくある自閉症やアスペルガー症候群の臨床像とはまるで異なります(息子の方はこの典型的な事例そのものですが…)。先生の話を良く聞く、真面目な生徒でした。しかし、当の本人は、24時間・四六時中、異常な感覚と過剰な脳内活動に振りまわされ続けていて、それを見抜く唯一の症状は、体育がすべてダメという不器用さにあったなんて、誰も考えてもいなかったのです。
よく、自閉症やアスペルガー症候群の子供が人を困らせるようなことをタイミング良くするのを不思議がる声を耳にしますが、行動障害のなかった私にも、この件について多少の心当たりがあります。私は、みんなが集団で活動している時に誰も手をつけていない箇所を見つけてサッと一人で収まってしまうタイミング、人が私に関心を寄せるとそっぽを向くタイミング、本当は助けを頼みたいのに・あるいは感謝の気持ちを表わしたいのに拒絶してしまうタイミング、どこで自分が手を挙げて発言すればイイか測って言いたいことを全部言ってしまうタイミング、総じて人を遠ざける為のタイミングばかり実にイイのです。そして、それは自閉傾向がある子供達に、共通して見られる特徴でもあるのです。
私には、一人一人の人の気持ちを逸らすことに関して天才的な能力があります。それに、一人一人の人の気持ちは読めないけれど、その集団の意志を何かの形で捉えているようなところがあって、一人一人を人扱いしなくていい集団を統制するのはとても上手です。全体を見渡して機械的に人員を配置するのは得意中の得意です。これは、動物をしつけたり、ゲームのキャラクターやモンスターの特徴をつかんで育成するのが上手なのと無縁ではないように思えます。が、そんなことをされた相手にしてみれば面白くない話です。人の意見を聞かないとか、子供扱いしているとか不満が残るし、バタバタと走り回っている姿は、滑稽でもあるでしょう。
視力うんぬんではなく、みんなが見ているものが見えていないというのは、たいていの場合、実に困ったことです。その能力が何か役に立つもの、いや、お金になるものならばラッキーですが、それだけあってもそれを活かせるとは限りません。つまり、手先が器用でなかったり、言語的な能力が伴っていなかったり、ふさわしい仕事が与えられなければ何の意味もないのです。
例えば、テンプル・グランディンさんの視覚で物を考え・三次元的な展開図を自動的に描く能力、山下清やゴッホの独特な絵の世界。実際、この3人の中で、成功を手にしたのは一人だけです。残りの2人のうち、一人はお金の価値が分かっていなかったし、もう一人は描いた絵の価値を分かってもらえなかったばっかりに、大金を手にしたのは本人ではなかったのでした。
その、人に見えないものとは、私の場合"法則"でした。小学校の頃の私は、友達の輪の中にいて、みんなの真似をして同じように振る舞ってはいましたが、最大の関心事はモノとモノとの関係付けでした。新しく見たもの聞いたものを以前に見たもの聞いたものと比べたり、その特徴を抽出してキャッチフレーズを作ったりレッテルを貼るのが大好きでした。中学生になって群れているみんなの外に自分を置くようになってからは、他人の目に映っている自分を計算して行動するようになりました。しかし、それもまた「私がこうすると、他人はこう思うに違いない」「普通、人はこういう場面でこうするものだ」という一つの法則でしかなく、一人一人の人とのつきあいとは程遠いものでした。
今でも私は、思い込みに満ち・幻想的で・一方的な係わり方しか他人と持てていません。他人とは、「私がこうすればこうなる」ものでしかなく、その通りにならなければ怒りの対象なのです。この場合には、私の方から係わる分にはいっこうに差し支えないのに、向こうから係わってくるのは苦痛です。しかし、かと思えば、人に何か言われるととたんに「そうするものだ」と暗示にかかってしまう脆さと背中あわせなのです。私にとって人と係わるとは、一方的にするか・されるかのどちらかでしかないのです。
それに、私にとって、予め計画されているとか・事前に連絡があるとか・やる人が決まっていることが、とっても大切なのです。「やると言ったのに、やらない」とか「やってあたりまえなのに、やらない」とか、予想外のことを突然言われるのは許せないのです。
例えば、道を歩いている時は、頭の中でコースや経過時間について綿密な計画に従って緊張しているか、まるっきりあてもなくボーっとしているかのどちらかです(日常生活の場面で後者であることは、ほとんどあり得ませんが)。
前者の時、知り合いの誰かが車で通りかかり、好意で声をかけてくれたのに、とっさに断ってしまうなんてことが良くあります。たとえ、疲れていたり重い荷物を持っていてもです。そんな時、私を車に乗せようと思ったら、いきなり「乗らない?」なんて言わないことです。
それから、私に気を使っていろいろ支度してくれたのは頭では分かっていて、本来ならばお礼を言うべきことだとも思っているのに、とっさに「イラナイ」と怒ってしまうこともあります。これはいつも申し訳ないと後悔するところです。ちゃんとした受け答えをする為には、マニュアル化した決り文句を何度も何度も頭の中で復唱して、ありとあらゆるケースに備えておくか、誰かになりきって真似をする必要があります。
なんて、こんなことを書くといかにも真面目一辺倒みたいですが、その正体は、自分にとって理に適っていなかったり納得していないルールは、平気で破ってしまうという"あまのじゃく"だったりするのです。
私は、たまたま「抽象化」が得意で、いろんな関係や法則性を見つけるのが好きなのです。だから、子供の頃は、天井の不規則な木目の中からたくさんの人の顔を見つけ出したり、歩道のタイルを一定の規則に従って歩いたり、一定の規則に従って人形を並べることに没頭していたのでした。その反面、理屈のないことと具体的なことはボロボロとこぼれてしまって何一つ覚えられない。でも、「視覚の死角」=インプットの異常を持つ人には、具体的な事柄を寸分たがわず記憶してしまうドナさんのようなタイプの人もいます。かと思えば、とっさに反応する反射神経がやたらと優れている代わりに何も覚えられない人だっているのです。
つまり、ここで言いたいことは、普通じゃないことを基準にすると、その外にはじかれてしまった人達をくくることは、ほぼ不可能に近いと言えるのではないかということなのです。
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