こ・れ・か・ら
いままで犯してきた過ち
哲学と思い込んでいたもの
- 人間的な幅のある・豊かな感情が欠けていたこと。
- 体と心が分離していたこと。
- 言葉の遊びが好きだったこと。
- 自分自身を自分の中だけで探していたこと。
- 正しさ・本来という言葉への固執。
- 自分独自の意味の世界を持っていたこと。
禅と思い込んでいたもの
- 非言語的な認知能力の弱さを「型」で補おうとしていたこと。
- 周りの影響を受け易くて、かき乱される「心」を、坐禅をすることで平静に保ちたかったこと。実際、どんなことがあっても、平然とできた時期があった。それは、「心」の動きを切り捨てただけだった。
- 社会=世間=世俗からの逃避。
- 人間の姿をしているけれど、人間ではないものになりたかったこと。でも、今では坊主は普通の人間なので、誰もそうは見てくれなかった。
- 相手と同じ気持ちになる=「同事」という禅の思想を、「同化」という自分のとりえでのりきっていたに過ぎなかった。他者の視点に立つ、とか、他人の立場を思いやることが出来るようになったというよりも「自分だったらどうするか」考えていただけだった。
- 徹底的な自己否定を「修行」と呼んでいたこと。
気功と思い込んでいたもの
- 誰かが、何処かが痛いと言うとき、わたしは手をかざしてその痛い個所を当てることができる。そして、何処を治せば良いか、勝手に手が動いて教えてくれる。つまり、私はその人と同じ状態になってしまうのだ。でも、治療が終わると、ぐったりして寝込んでしまう。つまり、「同化」したあげく、自分の命を与えてしまっていたのだった。(気功用語では、外気治療とか、自発動と言うけれど…。)
- 「気が見える」と言う人に、「そんなに、いつもいつも気を全開にして放出していては、周りの影響をまともに受けて、疲れてしまう。コントロールした方が良い。」と言われたことがある。「自開」というのは、見える人には見えるらしい。
孤高の人と思い込んでいたもの
- 人が仲良くしているのを、見ているのは大好きだ。けれど、人と人との実際の係わり合いの中に、入っていきたいとは思っていなかった。人情などというものは、はじめから持ち合わせていなかったし、人それぞれの思わくが交差する醜い世界が垣間見えたとたんに、イヤになって逃げ出してしまう。それは、私のとりえであって、何もそれを捨てる必要はなかった。
- 私は、私の目に映る世界を、傍観していたいだけだった。観客として見ているだけなら良いのに、何かしらこちらに働きかけて係わってこられると、シャッターが降りてしまっていたのだ。
- 私の目の前に広がっている物や人は、すべて私独自の価値観で意味付けされている。私にとって実在する、唯一の世界とは、私の頭の中で組み立てられた世界だった。それが、客観的にどんなものであろうと、私にとって何の意味もないし、関心もない。しかし、他の多くの人にとっては、人との係わり合いや具体的な物のもつ価値が話題の中心であり、人や物の社会的な価値の体系の中に自分を位置付けることで生活している。世の中とは、私の知らない、しかも、私が入ることもできず、は入ろうとも思っていないモノだった。私は、その片隅にちょこんと坐って生きていければ充分で、それ以上の価値のあるものでもなかった。
生真面目さと思い込んでいたもの
- 次に何をしなければならないか、体で覚えることが出来ずに、頭で考えてやっていたこと。
- ひとつのものをやり遂げるには、緊張して頭の中に手順や流れを保持している必要があったこと。(邪魔が入ったり、思い通りにいかないとパニックになった。)
集中力と思い込んでいたもの
- 何かに夢中になると、他のすべてが止まってしまうだけだったこと。
- 興味のあることにだけ、ものすごいエネルギーを短時間の内に注ぎ込むことができること。
目や耳が悪いと思い込んでいたもの
- 目の前に現われるもの・耳に入ってくる音に、注意が向かってしまうので、見なければならないもの・聞かなければならないものに集中できないだけだった。
- 遠視で乱視で斜視だから、見えにくかったのではなかった。放っておくと座標軸がなくて視点が定まらないので、ひとつのものを見つめるというのはとても疲れることだったこと。
モノゴコロついて、私の周りの人達とのギャップを知って以来この方、私はすべてのものに「〜であるべき」という足かせをはめてしまっていたようです。そして、"本来の私"を封印して、自分と、自分の育った家からの脱出をはかり、アスペ的なものを否定して来ました。
それで得られたものといえば、社会の中で命をつなぎとめることが出来るようになったこと。それは、人魚姫が足を得た代わりに、声を失ったようなものでした。「本来の自分」の声を。しかし、魚のヒレを足に換えて、人間になった振りをしてみても、人魚はやはり人魚でした。
でも、これからは、もっと気楽に生きていきたい。
少しでも「自閉」的な要素がある人を探すのもいいし、「人間の姿をしているけれど、実は人間ではないことに悩むキャラクターたち」と一緒に、二次元の世界を旅するのもいい。でも、そういう人達が、大手を振って歩けるような世の中になってくれると、もっといい。
私は、自分がそういう人間だということに誇りを持っています。「自閉」的な能力=才能があって"良かった"と思っています。それを踏まえた上で、どう「社会」と折り合いをつけていこうか、考えて行きたいと思っています。
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