サリーとアンのテスト

  1. サリーは、カゴと玉を持っています。
  2. アンは、箱を持っています。
  3. サリーは、持っていた玉をカゴの中に入れて、部屋を出ます。
  4. アンは、その玉をカゴから出し、自分の箱に入れます。
  5. 箱を置いて、アンは部屋を出ます。
  6. そこへ、サリーが帰って来ました。
  7. さて、サリーは、玉を出そうとしてどこを探すでしょうか?

このテストは、自分の視点以外(サリーの視点)に立てるかどうか、そして、サリーが持っている「玉は、カゴの中にある」という信念を理解できるかどうかを、テストする課題です。

3才ぐらいでは、普通の子どもでも「玉は箱の中にある」という、自分が見て知っている事実を答えてしまうそうです。この時点では<自己中心>的で、自分の視点からしか物事を見ることができないのです。そして、4〜5才になると、<脱中心化>して、サリーの視点に立てるようになるのだそうです。しかし、3才児でこのテストに失敗する子どもでも、日常生活では明らかに他者の視線を意識しているし、「恥ずかしい」という感情や自尊心もちゃんとあるといいます。

全員と言うわけではありませんが、≪自閉症≫児・者がこの課題に失敗するのは、どうしてでしょうか?

という、三つのことが考えられます。しかし、この課題には正解しても、下記のような場合だってありえます。これは、他のどんなテストについても言えることです。

上記のどの段階でも、「自閉症」あるいは、「自閉症スペクトル障害」に属していると言えます。それなら、「自閉症スペクトル障害」は単に成長し損ねた人達のことを指すのか、という疑問が沸いてきます。

その答えは、「No!であると、断言できます。

もし、「自閉症スペクトル障害」が、<脱中心化>の時期が遅れただけの、単なる発達の遅れであるのなら、いつかは追いついて"正常"になるはずです。それに、人間としての機能に異常が無くて<脱中心化>ができていないのは、単なる「わがまま」であり、エゴイストでしかありません。しかし、先ほどの段階で言えば「心の理論」があって、<脱中心化>していてもなお、「自閉症スペクトル障害」があるからには、しかるべき原因が何か他にあるはずです。

「自閉症スペクトル障害」者は、単なる「心の理論」や「脱中心性」の欠陥者ではない、と私は思っています。もっとも、「自閉症スペクトル障害」者が、「自分一人だけの世界に住んでいる」とか、「自分一人で住んでいるわけではないが、自分独自のやり方で住んでいる」なんていうことを客観的に測定しようとしたら、その行動で判断するしかないというのは解ります。しかし、その謎を解くカギは感覚レベルの障害に隠されているというドナさん、グランディンさんの見解に、私も共感しています。


何故、≪本人≫は、感覚のことを話したがるのでしょうか? 一般的に、感覚とは、自分以外のモノと自分との接点であり、外的な世界を知る手がかりとなる材料です。しかし、単に外界との係わり方の様式であるだけではありません。それはそのまま、自分にとっての内的な世界の様式でもあるのです。感覚器官としての機能は共通でも、受け止め方には文化的な影響が反映される事だってあります。日本人は虫の声から秋らしい情緒を感じるけれど、アメリカ人にとっては雑音でしかないというのが、いい例です。個人レベルでも、あるものには敏感な反応を示し、またあるものには鈍感だったりします。あるものは苦痛、またあるものは心地よさを与えてくれます。

しかし、「自閉症スペクトル障害」者には、ある程度の共通した感覚障害があるようです。そして、その内的な感覚世界に異常があるというのは、≪本人≫にとって、二十四時間つきあわなければならない大問題を、自分自身に抱えているということなのです。

でも、悲しいことに、聴覚障害者の多くが自分の聴力を疑っていないのに似て、≪本人≫には自覚しにくいのです。自分の感じている感覚世界が自分だけに固有のものだなんて、夢にも思っていないのです。しかも、「自閉症スペクトル障害」と一口に言っても一人一人みな違うし、感覚障害の重症度も違えば、現れ方も違います。もし、触覚や身体感覚の異常が大きければ、行動に現われる確率は高いでしょう。聴覚の異常は、言葉の発達に係わる可能性があります。しかし、中には、あまりにも微細すぎて、何のおもてだった症状にもならないものだってあるのではないでしょうか。

いくつかの原因が脳内にあって、それぞれの感覚の異常に反映しているのか、個々の感覚は正常なのにそれを統合する部分に障害があるのか、まだ判っていません。そして、感覚異常が原因で「自閉」が起きるのか、「自閉」が先にあるのか、はたまた、それと知的な障害とが一体となっているのか別のものなのか…、判らないことだらけなのです。

参照:テンプル・グランディン著自閉症の才能開発』第三章締めつけ機/自閉症の感覚問題


そうした神経学的側面の研究を待たずとも、行動や発言から判断できるものは、たくさんあります。まず、正常なヒトのコミュニケーションの発達の過程は以下のようになっているはずです。

  1. 「自分」とは、外界に係わっている「主体」である。
  2. と同時に、「自分」には外側があって、外観を見られている「客体」である。
  3. しかも、「他者」との係わりの中で位置付けられている「社会的存在」でもある。
  4. その「他者」と「自分」とが係わり合って、「社会」が成立する。
  5. 相手が聞きたいと思っていることを、相手にも理解できるように説明したり、相手が自分に期待している事柄を想定した受け答えをして、コミュニケーションが成立する。

これらのことが、「自閉」性の障害の為に、「他者」との係わりの中で普通にできない「自閉症スペクトル障害」者の見せる症状を、五つの段階を追ってまとめてみます。

のような自明のことができていないわけが無い、と思われがちです。確かに、「主観的」な意識や思考=「心」が無いなんてことはありえないでしょう。しかし、「主体」として"係わっている"かと問えば、そうでもない可能性はあります。

例えば、「自分」を守り・育ててくれる、「自分」にとって"有益"である「ニンゲン」という同じ種族の存在に気づかず、"まなざし"を向けなければ、「ニンゲン」に関する重要な情報を入手することは困難です。ましてや、「自分」に触れられることとが不快であれば、場を共にすることすらできないではありませんか。ただ、それが動く物であり、自分に何らかの働きかけをしてくるものだとは分かっても、その動きや働きかけの意味がわかるはずもないし、相手の「心」にも気づかなくて当然です。視線が合わないとか、まるっきりとんでもない方をいつも見ているのは、危険信号です。

の自分の外側の感覚も、とても重要です。普通なら、自分=自分の体というこの感覚は、かなり早い時期に獲得するそうです。自分の「心」と自分の「体」は、切っても切り離せないもので、最も確かなことの一つのはずです。そして、「自分」が「他者」を見ているのと同じように、「自分」が「他者」に見られていることを意識し、その「他者」に向けて「自己」の存在をアピールすることが自然にできるというのです。

私は、触覚の異常がない「自閉症スペクトル障害」の人でも、この問題はあるのではないかと思います。空間にポツンと目だけ浮かんでいるかのような重度のものから、時々体の感覚が"消える"という程度のものまで、さまざまでしょうけれど。この現象が起きている時は、内側からの感じだけでは「体」の境い目が解らないのです。

「自閉症スペクトル障害」者を良く観察して見ると、自分で体のどこかを触って確かめたり、自分の皮膚感覚に合った何かにくるまるというようなことをしているはずです。そうした物理的な刺激で自分の外側の感じを味わったからと言って、ただちに「他者」の"まなざし"を意識できるようになるわけではありません。が、精神的な安定の為に必要なのです。また、反復的な「常同運動」をする場合もあります。その時は、確かに「体」はここにあるのに「心」がどこかに行っているのです。これも、止めるよりも、時間と場所を制限してある程度やらせた方が落ちつきます。

は、「自分」を見ている「他者」の"まなざし"が集団化したものです。人の視線を感じることで、「自分」が属する集団内で「自分」がどのような"ふるまい"をすれば「自分」が有利になるかを身につけます。「自分」が「他者」から注目される為には、愛嬌をふりまくと良いこと、誰かが見ているところでは恥ずかしい事をしないことなど、集団の具体的なメンバーに対する行動の仕方が分かってきます。

さらに、集団を大きくして文化的な意味合いを帯びてくると、それは「世間体」になります。しかし、「他者」からの"まなざし"を意識できない「自閉症スペクトル障害」者を身内に持つと、社会的に好ましくない行動の連続で、日夜「世間体」との葛藤に悩まされることになります。

複数の人間が並行しているだけで、それぞれが全く別々の事をしている"並行遊び"は、「自閉症」の症状として顕著なものです。しかし、一見、言葉を交わして一緒に遊んでいるようでも、「自分」の思う通りに「他者」を動かそうとしているだけだったり、互いに言いたいことをただ言うだけで、係わり合っていないことがあります。以降の困難さは、行動障害が軽くなっても改善しにくいものです。

「自閉症スペクトル障害」者は、たいてい、人から教わることが嫌いです。何かを教えようという時は、≪本人≫が既に知っていることを、教材にしたり"例え"として利用して、「自分」で気づいたかのように仕向けた方が、うまくいきます。こうして、「自分」の世界に入ってくれる人と「自分」が先生(教えくれる人)と決めた人とは、信頼関係ができ、直接のやりとりができるようになります。

「心の理論」を持ち、<脱中心化>ができても、通常の感情が育ちにくい「自閉症スペクトル障害」者にとって、のように相手の心をそらさないようにお喋りをするのは、至難のワザです。なにしろ、「自分」が人とどこかが違うとは分かっても、どこがどう違うなんてことは、誰かが教えてくれない限り分かるはずがありません。まさか、「自分」と「他人」が構造的に違うなんて思ってもいません。みんな、「自分」と同じだと思って、人の為を思い親切にしようと一生懸命なのですが、ことごとく裏目に出ます。

誰も聞きたいと思っていない「自分」のことを、繰り返し延々と話す。(私が今していることです。)ふさわしくない状況で、人の言ったことを猿まねしてヒンシュクを買う。本来なら頭の中で黙ってする思考内語を声に出して喋って、本当に必要で人に言うべきことが言えない。「自分」にとって分かりきっていることは、人も知ってて当然だと思い込んでいて、ハッキリ伝えていない。一人勝手に、言ったつもりになっていて、何も伝わっていない。これこそ正に、「自閉症スペクトル障害」者の勘違い人生そのものです。


最初の、「サリーとアンのテスト」に戻ります。私が始めてこれを目にした時は、「自閉症」を説明する文を読んだ流れの中でした。まず、私に関係があるなんて思ってもいない時でしたから、「自分」をテストする気など、カケラもありませんでした。何度もあちらこちらの本で見かけますが、引っ掛かるわけがないとタカをくくっていました。

しかし、先日、体調の悪い日にモウロウとした意識で眺めていたら、箱の中の玉が頭にこびりついて離れませんでした。普段、何気なくやっているようで、頭で考えてやっていたのに気がつきました。日常の生活では、けっこう出来ていないのかもしれません。一生お付き合いしなければならない、自分自身のことですから、テストに引っ掛からないから安心だなんてことはないのです。


              

「"健常"と呼ばれる不思議な人々」へ   「ペンギン日記」へ   「感覚統合訓練」へ