自閉症と『心の理論』

引き続き、『子供はどのように心を発見するか−心の理論の発達心理学−』アステイントン著より

私たちは陣取りをして遊んだものだったが、ゴールキーパーを混乱させて陣取りをするために、私は自分のコートに枯れ葉を詰め込んで、ゴールキーパーの目につく場所へ置いた。ゴールキーパーがそのコートに気をとられたすきに、私はゴールに走って陣取りすることができた。

『我、自閉症に生まれて』(テンプル・グランディン著/P51〜52)

私たちはこの四年生の先生の家の煙突や、路地や、ポーチや、バラの花を目がけて、次々に瓶を投げつけた。砕けたガラス瓶が先生の庭いっぱいに散らばった。翌日、学校でマクドナルド先生はクラスの皆に、先生の庭が大変な被害にあったことを話した。私は捕まる気はさらさらなかったので、ランチの時間に、カフェテリアで先生の隣に座った。「マクドナルド先生、先生の美しい庭がめちゃくちゃにされるなんて、ひどいですね」と、言葉をかけた。(中略)「でも、私、スーの家にいたんです。そして、私たちはロバート・ルイスとバート・ジェンキンスが、先生の家の近くにいるのを昨日見たのですよ」と、告げた。マクドナルド先生は立ち上がって、ロバートとバートが座っているテーブルに勇んで近づいて行った。私は先生が二人を校長室に引き連れていくのを眺めていた。二人をトラブルに巻き込んで気の毒とも思わなかった。彼らは瓶を投げようと思いついたら、きっとそうしていたであろうから。それに、私に対してあんなに意地悪な者たちは、こんなふうに罰せられてあたりまえ。今大人になって考えてみれば、この少年たちにひどいことをしたものだと思う。

『同』(P52〜53)

テンプルさんの自伝に語られているこの一節は、出版当時、「自閉症児に、こんなことができるのか!?」と物議を醸した部分だそうだ。いや、もっとも、その前に、「自閉症者に本が書けるか?」とか「大学で教授をやっているような人が、自閉症であるはずはない!」と言われただろう。

「自閉症児が、嘘をついたり騙したりできるはずがない。」と思っている人は、今でも多いと思う。


では、テンプルさんのとった行動を『心の理論』で説明してみる。


ゴールキーパーを混乱させて陣取りをするために、私は自分のコートに枯れ葉を詰め込んで、ゴールキーパーの目につく場所へ置いた・・・これは、健常な3歳児〜4歳児のレベル。

『子供はどのように心を発見するか−心の理論の発達心理学−』(P139〜140)

私たちはロバート・ルイスとバート・ジェンキンスが、先生の家の近くにいるのを昨日見たのですよ」と、告げた/彼らは瓶を投げようと思いついたら、きっとそうしていたであろうから・・・これは、幼児的な嘘。

『子供はどのように心を発見するか−心の理論の発達心理学−』(P171〜172)

私に対してあんなに意地悪な者たちは、こんなふうに罰せられてあたりまえ・・・これは、騙し。

『子供はどのように心を発見するか−心の理論の発達心理学−』(P184)

皮肉なことに、このすぐ後の章に、「この理解にけっして到達しないように見える子供」として、自閉症児について書かれている。

しかし、それは間違いではない。と言うのは、自閉症児というのは「幼い頃にふつうに心を理解するようにならない子供」として、紹介されているから。だって、上のテンプルさんのエピソードは、小学校五年生の話で、これは自閉症児が『心の理論』を獲得する標準的な時期と一致する。つまり、5歳で<二次的な志向的システム>に移行する普通の子どもに比べれば、十分に幼稚な行動なのだ。

例えば、誰かが物凄い形相で走っているとする。←発達上の障害があると、どうなるか?

  1. まず、全く外界に「注意」が向かない段階の子どもは、人が走っているのに気が付かない。当然、走って行く方向に自分がいては危険なことも分からない。←「注意の障害」があると、ここのところから危ない。
  2. それから、人が走っていることに「注意」が向き、自分がどう行動すれば安全か考えることができるようになる。←さしあたり、危険回避だけはできるようになる。
  3. そういう状態の人の動作を、「走っている」という言葉で表わしていることが分かる。←「言葉の遅れ」があると、動作だけを抽出して概念化することが難しい。
  4. 「走っている」人は、「急いでいる」ことが分かる。←「非・言語性学習障害」の状態だと、ここらへんから危なくなってくる。こういうことを、いちいち言語化して説明しないと分からない。
  5. 「急いでいる」のは、どうしてなのかという「理由」を考えることができる。←「非・言語性学習障害」では、その「理由」がなかなか学習できない。
  6. その人の「気持ち」が分かる。←「自閉症」では、共感性の欠如から、同じ「理由」を持つことが難しい。当然、その人の「気持ち」も、学習によって習得しなければならないことがある。

人の「気持ち」というのは、言葉でも表わされるが、行動にも表われる。テンプルさんは、人のとる行動を予測できたし、言葉巧みに信念を操作して人を騙すことができた。テンプルさんは「行動障害」のある「自閉症」児だったが、「注意の障害」や「学習障害」は軽かった。「言葉の遅れ」と「読字障害」があったのは、主として聴覚系の混乱があったからだった。『心の理論』課題は、ちゃんと通過しているのだ。


要するに、自閉症者が決して獲得できないモノというのは、そういうことではないのだ。


では、それは何か!?・・・以下、『子供はどのように心を発見するか』から拾ってみる。

赤ん坊でもできるこれらのことが、「自閉症」児は全くできないというわけではない。多くの「自閉症」児は、非常に遅れて、或いは、非常に稚拙にこれらの課題を達成する。

しかし、「人が何をしているかが分かる」⇒「人がどう感じているか・何をしようとしているかが分かる」⇒「人がすでに持っている信念を利用して人に行動を起こさせるには、どう言えばいいかが分かる」という、(あくまでも)主観的な理解ができるようになっても、決してできないもの。それから、「自分が知っていることを、全ての人が知っているのではない」とか、「自分が感じているようには、人は感じていない」ことが分かっても、決してできるようにはならないもの。それは、やっぱり「社会的相互作用」なのだ。

言葉の障害のない「自閉症」でも、「何かの話題について、交替でそれについて話す=会話する」とか、「相手が知らないことについて、相手に分るように話す=説明する」とか、「他人の信念をくつがえして、自分の意見を通す=説得する」というような〈やりとり〉ができない。やっぱり、言語を使って、他人に〈伝え〉たり、お互いに〈知らせ合っ〉たりする能力、つまり〈語用論〉の障害は残される。


「自閉症」児・者に対して、「意思の疎通が図れない」とか「気持ちが伝わらない」とか「心がない」と言われるのは、『心の構造』が違うのだから当然と言えば当然なのだ。

ただし、非常に適応の良い「自閉症」者は、ちゃんと人の気持ちや感情を理解している。社会生活も営んでいる。意思の伝達はできるし、人の気持ちを損ねないように気をつけることができるし、心をこめて人と接することもできる。『心の理論』課題は、とっくに通過しているのだ。でも、やっぱり、全く何の問題もなく適応できているわけではない。

かつて、一方的・受動的・構造化された教育環境("知識の詰め込み"とも言う)では、高学歴に達した高機能自閉症者が就職できない、或いは、安定就労できないのは、〈話し合い〉と〈気持ちのやりとり〉ができないからだった。しかし、今後ますます、学校から「決まり(規範)」がなくなって、「話し合って決める」とか「みんなの輪を重視する」とか「個人の自主性や自由を尊重する」方向になっていくと、最後の砦もなくなってしまうような気がする。

元々その能力に欠陥があるのだから、教えたり訓練して身に付くことには限界があって当然なのに、どうすればいいのだろうか?


             

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