わたしと小鳥とすずと
わたしが両手をひろげても、
お空はちっともとべないが、
とべる小鳥はわたしのように、
地面をはやくは走れない。
わたしがからだをゆすっても、
きれいな音はでないけど、
あの鳴るすずはわたしのように
たくさんなうたは知らないよ。
すずと、小鳥と、それからわたし、
みんなちがって、みんないい。
金子 みすず
誰も皆、得意不得意があって、好き嫌いがあって、感じ方も考え方も違っている。言葉にすればあたりまえだけれど、実際の人間関係でちがいがわかるのは、並たいていのことではありません。たとえば、その場にいないひとの悪口を言い、ひとをバカ呼ばわりする心に、自分と違う他人を許す寛容の気持ちがあるでしょうか?
ひとがバカという言葉を使う時、本当に能力が無いというよりも「自分だったらこうするのにやらない・できない」ぐらいのことでしかないのではありませんか? それは、「私とあなたは違っている」という意味なのです。
そもそも、人がひとを理解するとはどういうことでしょうか。逆に、ひとに理解されるとはどういうことでしょうか。もし、自分が正当に評価されていない、本当の自分はこうなのに、こう言いたかったのに伝わっていないと悩んだら、こう考えてみたらどうでしょう。
他人の頭の中にある私の姿は、
誤解された自分ではない。
ひとの頭の中で再生されたのは私の影で、
その頭は、その人のものでしかない。
相手にどう思われているか詮索して、なんとかして良く見せようとじたばたしているのは、ひとの心を支配しようとして逆に支配されてしまっているのです。ひとがどう思おうとそのひとの勝手、そんなつまらないことにエネルギーを費やすのはやめた方がいいのです。
どうせ、ひとは自分のことしか考えていないのです。他人の頭の中でしていることを心配するひまがあったら、自分の頭の中を整理する方が得策ではないでしょうか。もともと上下も勝ち負けもない人と人との関係にそんな軍配を持ちこんだのは、自分自身なのではありませんか? あなたが今、自分の外にあると思っているモノはみな、自分の頭の中の世界ではないのですか? 自分で作り上げた妄想を、客観的な事実だと思い込んではいませんか?
自分が自分の主人公なのです。
自分の見方・感じ方を変えれば
すべてが変わるのです。
だから、
気にしなければ、気にならない。
気にしない、
気にしない。
ここで、忘れてはならない大切なことがあります。
変わったのは自分自身であって、
相手ではありません。
自分が自分と違う人間を受け入れて
やわらかい頭になったとしても、
やはり、自分と違う他者を排除しようという
アタマのかた〜いひとがいなくなるわけではありません。
ほとんどの人は相も変わらず、
自分の頭と違う頭を許そうとはしないでしょう。
そんなことに気づきもせず悩みもしていない人に、
「やわらかい頭になれ!」なんて
説教しようと思ってはいませんか?
それもまた、自分の押し売りじゃあありませんか?
解ってくれる素晴らしい人は大いに誉めましょう。
解らないのはかわいそうな人と思ってあげましょう。
あなたは今、とっても楽になったはずです。
とっても幸せな気分になったはずです。
やわらかな頭があなたの身について、
やわらかな顔になった時、
やわらかなこころは外へとひろがっていきます。
小さな波紋が、池全体に拡がっていくように。
そうして始めて、ひとの心は変わるのです。
こんなことも、やってみるとオモシロイかも〜♪
(某Mさんが発見したサイト)
「憩いの森」へ