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床に奇妙な紋様の刻まれた部屋。 魔術の実験用に作られたこの部屋で、セオドールは一人、呪文を唱え続けていた。 精霊を呼び出すための、高度で複雑な呪文である。セオドールは慎重に、繊細な構成を編み上げて行く。 しかし。 「……っ!?」 途中で制御を誤ってしまった。術者の制御を離れた構成は一個所に溜まり、力が渦巻いて行く。 もはや、どうにもならない。完全に失敗だ。 こういったときに被害を少なくするよう、この部屋は作られている。だが、今回はこのまま単純に爆発するといった兆候は見られない。凝縮した力が何かに転化されていっていた。 不意に、締め切られた部屋に突風が吹き抜ける。 風はセオドールの銀糸を激しく舞い上がらせる。目も開けていられぬほどの強さだった。 「くっ……」 自身すら吹き飛ばしてしまいそうなその強風のなか、セオドールはただ飛ばされぬよう立っていることしかできなかった。 「……お前か? 私を呼び出したのは」 風が収まって行くなか、低い声が響く。 ようやく目を開け、セオドールは声のした方を見る。そこには、うっすらと影に包まれて立っている者がいた。人影、文字の通りだなとセオドールは頭のどこかで思った。 「……あく……ま……?」 誰だと問いかける代わりに、何故かその言葉が出てくる。 威圧感と恐怖を感じながらも、その影から目を放すことができなかった。 「その通り。美しき者よ、私を呼び出した用件を言うがいい」 「……呼び出してなどいない。早々に立ち去れ」 「呼び出していない? ……ほう」 悪魔は一歩、踏み出す。 床には結界が刻まれている。召喚された者がそこから出られぬようにするためだ。 しかし、悪魔は結界などものともせず、セオドールに近づく。 「……何故……」 その様子を見て、セオドールは驚愕に目を見開きながら後退した。その額に汗が一筋流れる。 「ああ……魔界において執政官たる地位にある私を呼び出す力は誉めてやろう。……だが、結界の出来はいまいちだな」 悪魔は薄く笑う。 後退するセオドールと近づく悪魔。やがてセオドールは壁に追いつめられてしまった。 「……さて」 悪魔はセオドールの顎に指をかけ、上向かせる。 その恐怖にセオドールは微かに震えるが、それでも自らを叱咤して恐怖に負けまいと悪魔を睨み付ける。 「見事だな……」 セオドールの姿を観察しながら、悪魔は感心したように呟いた。 「……契約をしないか?」 喉元へ向け、指をつつ、と滑らせる。 「……け……いや……く?」 「そう。お前の魂と引き換えに、望みを叶えてやろう。お前に望みはないのか?」 ちょうど喉の中心で指を止め、そっと囁く。 「……戯れ言を」 隠し切れない恐怖を浮かべながらも、はっきりとセオドールは拒絶する。 「いい度胸だな。今、私がこの手に力を込めれば、お前の命など簡単に奪える。お前に選択権があると思っているのか?」 「……魂を奪われるくらいなら、死んだほうがましだ」 「一般論だな」 悪魔はセオドールの喉につきつけた指を軽く曲げ、爪を立てると素早く横に走らせた。 「……っ」 セオドールの顔が一瞬、苦痛に歪む。 セオドールの喉に直線状の傷が走り、その所々から小さな紅い玉が生じる。悪魔はその傷に舌を這わせ、わずかに滲む血を舐め上げる。 「良い血だ。高貴な血……微かに残るのは…………」 聞き取れないほどの小さな声で何かを呟いた後、悪魔はセオドールの首から離れ、再びその顎に指をかけ、上向かせる。 「お前に欲しいものはないのか?」 「……それくらいはある」 「嘘だな。もしくは、本当に欲しいと望んでいないかだ。本当に欲しいものならば、魂と引き換えにでも手に入れようとするはずだ」 「……それこそ、一般論だろうが」 その言葉に悪魔はセオドールの顎にかけた指をおろし、軽く笑った。 「本当にいい度胸だ。気に入った。それに……」 悪魔はセオドールの銀髪を一筋すくい、口付ける。 「この人間とも思えぬ美しさ、殺すには惜しい。今日のところは大人しく消えてやろう」 茫然とセオドールが立ち尽くすなか、悪魔の周辺の空間が歪み始める。 「契約をしたくなったら、いつでも呼ぶがいい。それではまた見えよう」 笑い声を響かせて、悪魔の姿は消えた。 セオドールはその場に力無く座り込み、ゆっくりと吐息を漏らす。 「今のは……現実の出来事か……?」 ややあって、呪文の失敗で幻覚を見ていたのではないかと、そっと自らの首に指を這わせる。 ざらりとした感触、そして鈍く走る痛み。 おそるおそる、今、首に触れた指を目の前に持ってくる。 セオドールの目に飛び込んできたのは、白い指と対比したように鮮やかな紅だった。 |
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あとがき(2005年7月追加) セオドールと悪魔の出会いの話です。 実は、隠し風味で悪魔視点のものもあります。(このページのどこかから行けます) しばらく前から悪魔視点のものもあったのですが、普通気づかないということに、気づきました。 |