「LONELY★WILD Case of TOMOYA」

氷野 紅樹

1.

「波田!!」
 授業中。俺はいつものように寝ていたが、いつのまにか横に教師が立っていた。顔を上げ、睨む。
「……なんだよ、うっせえな」
「何だ! その態度は。授業中だぞ。全く、いつもいつも問題ばかり起こして、本当にろくでもない奴だな。お前は学校の恥だ」
「何だ!? 勝手なこといいやがって! ふざけんな!」
 机を蹴って立ち上がる。教師の怒鳴る声が聞こえたが、知ったこっちゃない。軽蔑し、迷惑がり、関わりたくないと言う思いが透けて見える同級生の態度も癪に障る。教室内を睨みつけ、教室の戸を力まかせに閉めて、廊下に出る。

「……では、次は40ページの第4パラグラフから。黒田さん、読んで訳してください」
  同じ2年の教室が並ぶ廊下。ひとつの教室の前を通り過ぎ、振り返る。英語の授業中で、女子生徒が1人、立ちあがって教科書を読みはじめた。
  すらりと姿勢の良い立ち姿。背を流れる、美しい黒髪。長く垂れるポニーテールの根元には、凛として涼しげな水色のリボン。
(あや……)
  口元が自然にほころぶ。前は遠くから見ているだけだったが、今は違う。
  あの日、話すことがなければ、あやは永遠に美しいままの、手の届かない偶像だっただろう。だがあの日突然、空から降って来た天使のように、俺の隣に来た。
「“あや”でいいよ。……私のこと。もちろん、嫌じゃなかったらだけど」
「“トモ君”って、呼んでいい?」
「せめて友哉か、“トモ”にしてくれ」
  親しくなるにつれ、飾らない素直な性格も、芯の強さも、全てが好きになった。美しい偶像が、愛しい、かけがえのない存在になっていくのに、時間はかからなかった。

 人生が変わるような出逢いって、本当にあるんだな、と思う。
  今までは、憎しみや怒りしかなくて、ただ荒れ狂う感情を持て余していた。だけど、あやと仲良くなってから、爆笑したり切なくなったり愛おしくなったり、まるでオムニバスCDを聴くように、色々な感情が現れてきた。
  学校に行き、授業は寝て過ごし、放課後に司書室に行く。そこであやと一緒に音楽を聴いたり、話したりしながら図書委員の仕事が終わるのを待って駅まで送り、バイトに行く。
  少なくとも登校日数は前より格段に増えたし、バンドやバイトの仲間からも、良い意味で変わったといわれた。そして、笑うことは今までよりもずっと増えていた。

2.

 あやの母親と弟にも会った。いつものように駅まで一緒に歩いていると、「あやぁ」と呼ぶ、ハスキーな声が聞こえた。振り返ると、笑って手を振っている女性。お母さん、と、あやが応えた。
(お母さん? マジで?)
 高校2年の娘がいるとは思えないほど若々しい、細身で、シャープな印象の大人の女性。黒のパンツスーツ姿で、ゴールドの鞄を提げている。ベルトは赤、足元は黒の網タイツにピンヒールの靴と、一見シンプルながら細かいところにも気を抜いていない。あやと同じ大きな目に、下品ではない華やかな化粧。ハイライトを入れ、細かいウェーブのかかった黒髪は長く、ストレートにすると腰まで届きそうだ。その髪をかき上げる左手の薬指には、シルバーの細い指輪。
「あやぁ。いま帰り? あたしこれから旦那を迎えに大学行くところ。そろそろご飯だからさ。あ、もしかして……トモ君?」
 そういえば、あやの父は大学教授だった。研究に熱中すると食事も睡眠もしないのだとか。しかし普通娘の前で「旦那」と言うか?
「あ、はい、友哉です。どうも、はじめまして」
「こちらこそ。会えて嬉しい! 最近、あやと仲良くしてもらってるみたいで、ありがとね。本当に背が高くてかっこいいー。ね、何センチあるの」
「185センチです」
「そうなんだー。脚、長ーい。あ、この前、BOOWY貸してくれたでしょ。若い頃は聴かなかったけど、いま聴いてみるといいもんだね。よかったら、お茶しない? 時間大丈夫?」
 そんな訳で、近くのドトールに入って、3人で1時間ほど話をした。俺はこの人を何と呼ぶか迷ったが「皐月(さつき)でいいよ」と言うので“皐月さん”と呼ぶことにした。皐月さんは気さくでお洒落で、かっこいい女性だった。
 今は「趣味に生きる自称・有閑マダム」だが、昔は長距離トラックの運転手や美容師をして、駆け出しの国文学研究者だった夫・隆(たかし)との結婚生活を支えたそうだ。
 結婚したばかりの頃、隆は講義中に講義室で倒れた。連絡を受けた皐月が勤務先のトラックを借りて大学病院に駆けつけると、お腹がすいて眩暈がした、と言った。確かに異常はなく、研究室に泊り込んで一睡もせずに仕事をし、何も口にしていなかったのが原因だった。以来、時間をみて机から引き剥がし、強引に食卓の前に座らせ、箸を握らせて食事を摂らせている。皐月が大学に行けない時は、大学生協に勤める友人に頼んでいる。目を離すと本を読み出すので監視が必要だと、そんなことを笑って話した。
 皐月はメジャーデビューした頃からのXの熱狂的なファンで、hideに憧れてギターを始め、バンドを組みリーダーをやっていた。今はロックな主婦ばかりの「おばさんバンド」のリーダーだそうだ。洋裁もやるし、油絵も描くという。
 ヨシキとヒデと命名した飼い猫の写メも見せてくれた。ヨシキの方は毛の長い茶色と黒の虎猫で、パールと薔薇の首輪をしている。そしてスパイクチョーカーをしたヒデは白と黒の短毛の斑猫で、頭頂部の毛がなんとピンクだった。
「あの、この猫。毛、なんか変わってません?」
「あぁ、ヒデでしょ。上の息子がねー、あたしのカラーワックスつけたの。あとこの子達の首輪、あやが作ったんだよねー」
「うん。晶(あきら)には、私の髪に絶対変なものつけないでね、っていつも言ってるの」
 あやには中学生と小学生の弟がいた。俺のバイト先のコンビニが、あやの父親の大学と下の弟の通う塾の通り道だとかで、この日以来、皐月はちょくちょく寄ってくれた。弟達とはその時に会い、話もした。
 上が晶で下が曜(ひかる)。中学2年の晶はサッカー部に入っていて真っ黒に日焼けしていた。いたずらばかりして怒られ、皐月が呼ばれることもあるらしい。小学3年の曜は算数と理科が得意だそうだ。昆虫が好きで去年の夏、家の玄関を虫だらけにして大騒ぎになったという。俺には兄弟がいなかったが、晶も曜も実の弟のように可愛かった。

 こんな風に、俺の周りが一気に賑やかになった。その中心には、いつもあやがいた。この幸せを失ってしまったら、という怖さもあったが、あやと一緒なら、何があっても大丈夫な気がした。
  あやが好きだ。明日も、明後日も、その先も、ずっとずっと一緒にいたい。だけどまだ、その想いは伝えることができないでいた。

「ね。トモって誕生日いつ?」
  夏服に変わったばかりの頃。司書室で、不意にあやがそんなことを言い出した。
「誕生日? 6月10日」
「え? 来週じゃん!? お祝いしなきゃ」
「えー、いいよ、そんなもん」
「良くないよ。1年に1度の誕生日なんだから。ね? 放課後、ケーキ食べに行こう?」
「……わかった」
「約束ね」

3.

 そして、今日がその6月10日。
「マジかよぉぉ!? なんだよこれ!!???」
 昨夜から頭が痛くて寒気はしていたんだが、寝れば治るだろうと思ってとりあえず寝た。翌朝、目が覚めたら体中が熱くて、だるい。どっかに体温計あったよな、と思い、探して計ってみたら、38度。
「なんなんだよ。よりによって今日じゃなくてもいいだろ……」
 俺は18歳の誕生日を迎える今日、あやに気持ちを伝えようと決めた。仲良くなってからそんなに月日は経っていないけど、ただの友達かそうでないか曖昧なまま一緒にいるのはいけないような気がした。きっちりけじめをつけるべきだ、と。それなのに……なんで今日なんだ?? メインの着メロにしている布袋寅泰の「スリル」が鳴った。
「もしもし。母さん? あ? うん、ちょっと熱あって、うん、38度くらい。え、いい。いい。来なくてもいいよ。大丈夫。うん、薬はある、うん、水分ね……わかった。うん、サンキュ、じゃ」
 放課後までまだ時間はある。とりあえず何か食って薬飲めば落ち着いてくるかもしれない。俺は身体は丈夫なほうでめったに寝込むことなんてなかった。ちゃんと食べて薬を飲んで寝てろ、あと水分を摂れと母さんに言われたので、コンビニに行く。食欲はなかったがスタミナ焼肉弁当と幕の内弁当を選び、2リットルのスポーツドリンクを2本買った。
「う……焼肉は、ちょっと無理か」
 食うだけ食って、薬を飲んで横になる。携帯を開けて画像を表示させる。あやの写真。見つかれば間違いなく消されるし、他の奴に見られるのも嫌だったので待受にはせずに保存している。司書室の机で居眠りをしていた所を写した画像で、寝顔が最高に可愛い。
 携帯を枕元に置いて目を閉じる。

 いつものように、朝食のあとに学校に行くために鏡の前で身支度をする。
  部屋着のワンピースを制服に着替える。女子の夏服は白のブラウスに、薄いグレイのベストとプリーツスカートだった。半袖のブラウスの袖を折り、襟元に紺色のリボンを着ける。夏服の場合、リボンは着けなくても良くて、実際着けている子は少なかったけど、リボン自体が可愛いし、あった方がバランスが良いと思う。冬も夏もネクタイをせずに胸元を開けているトモには「暑くないか?」と言われたけど。
  スカートは膝上ギリギリの長さにしていた。短すぎるのも嫌だったし、この長さが襞の流れが綺麗で、脚も細く見えるから。今日はほんの少し、仄かに香るコロンを裾につけた。靴下は膝丈の黒のレースつきハイソックスを選ぶ。
  そして仮留めしていたシュシュを外し、指で髪を梳いてから櫛を通す。大切にしている長い髪。昨日、美容院でトリートメントして毛先を揃えたので、櫛通りが良くてさらさらしている。2つに分けて両耳の上でゴムで留め、生成りのレースのリボンを結ぶ。
  通学用の黒い鞄の横には、今日はモノトーンの小さな紙袋が置かれている。
「ん……いい感じかも」
  身支度を終え、携帯を開いて画像を表示させる。トモの笑顔。アド交換した時に撮った。学校では怖がられているトモだけど、私を見る目は本当に優しくて、思い出すだけでくすぐったくなる。今日の放課後、トモの誕生日を一緒に過ごす約束をした。学校の外で会うのは初めてだし、お洒落して祝ってあげたいと思うと、身支度にも気合が入る。
「あやさんは本当にお洒落さんですね」
  部屋の外から声がかかった。父だ。童顔で、長めの髪に和服姿で、明治時代の作家みたい。今日もワックスで頭をピンクにされた猫のヒデを腕に抱いている。
「お父さん、帰ってたんだ?」
「ごめんね、覗いていたわけじゃないんだけど。印象は違いますが、やっぱり皐月さんに似たんですね。おや、それは?」
「今日、お誕生日の子がいるの」
  ヒデの喉元を撫でる。ごろごろと喉を鳴らした。父は微笑んで、言った。
「……あやさん。今はもう、学校で辛い思いはしていないみたいですね」
「うん。……行ってきます」

4.

 学校に着くと、トモが来ていなかった。遅刻かな、と深く気にしないようにしてたけど、3時間目を過ぎてもまだ来ないので、ちょっと心配になってきた。
「おはよ。トモ、まだ寝てる? 放課後、楽しみにしててね!」
 とりあえずメールを打っておいた。
 お昼休み。図書室の鍵を開けて、いつものように司書室でご飯を食べる。携帯を開けたけど、返信はない。受信できなかったのかも、と新着確認をするが、「新着メールはありません」のメッセージ。
 不安になって2通目のメールを打つ。
「トモ。メール見てくれた? 学校にも来てないから、心配…。とりあえず、見たら返信下さい」
 送信完了のメッセージを見て、携帯を閉じ、祈るように握り締める。

 目が覚めると、昼の1時45分だった。濡れて貼りつくTシャツを脱いで、タオルで汗を拭きつつ体温を測ると熱は36度5分まで下がっていた。
「すげぇ。マジで奇跡じゃん!?」
  時間はまだあるし少し横になってから準備するか、と思って、着替えながら何気なく携帯を見た。メール3通に着信2件。全部、あやからだった。
「トモ。大丈夫? 何かあったの? 心配だよ(涙)。連絡して。マナーモードにしてるし、授業中でも大丈夫だから」
  薄紫の携帯を握って、不安そうな表情をしているあやの姿が目に浮かんで、胸が痛む。この時間だと電話は駄目だな、と、メールに返信する。
「あや。心配かけてごめん!! 約束は大丈夫だから。授業終わった頃に電話する。本当にごめん。じゃ、またあとでな」
  しばらくしてX JAPANの「Rusty Nail」が鳴る。あや専用の着メロ。授業が終わってすぐにかけたようだ。
「もしもし、あや?」
「トモ……どうしたの? 大丈夫? あれ? なんか、声が変」
「ん、ちょっと朝、熱あってさ。でももう下がったから大丈夫。待ち合わせだけど駅で……」
「駄目だよ。熱があったなら動いちゃ駄目」
「だけど……」
「私がトモの家に行く」
「え!?」
「場所教えてもらえれば行けるから。初めてだし、ちょっと時間、かかっちゃうかも知れないけど。委員の方はお休みすること、先生に言ってあるから心配しないで」
  学校の最寄駅から家までのルートと、念のため住所をメールすることにした。駅に着いたら迎えに行くと言うと大丈夫と言うので、もし分からなくなったら連絡しろ、とにかく家に着いたら携帯鳴らせと言っておいた。
  あと2時間ちょいで、あやがここにくる……。一瞬放心した。が、辺りを見回して我にかえる。まず部屋が汚い。弁当の容器やペットボトル、汚れ物や雑多なものが散乱している。その上、汗をかいて寝ていたので汗臭い。とりあえず汚れたTシャツやタオル、シーツなどを洗濯機に投げ込み、弁当のゴミなどを台所のゴミ袋に運ぶ。
  床に置きっぱなしになっているCDやスコアや雑誌、ピックを片付け、窓を開けてベッドを中心に部屋中にファブリーズを撒きつける。そこまでやって俺自身が汗臭いことに思い至り、風呂場に行って裸になり、シャワーで頭から爪先まで洗う。
  乾燥機からトランクスを引っ張り出して穿き、普段着にしているライブで買ったTシャツを着て、黒のジャージを穿く。髪はざっと後ろに流した。
  着信はまだない。間に合ったと安堵して、ベッドに座った。雑誌やスコアをめくって眺めたり、携帯を開けたり閉めたりする。落ち着かない。そのうち、ドアを叩く音がした。しかし普通に手でノックするのとは違う、変な音がする。何かがぶつかるような音。
(何だ……?)
  多少警戒しながらも気になるので、出る。
「誰??」
「……トモぉ。私」
「あや? どうした? 携帯は?」
  ドアを開けると、通学用の鞄の他に両手に紙袋やらビニール袋やら、大小5つほどの袋を提げて重そうにしているあやが立っていた。確かにこれでは携帯は使えない。さっきの変な音は、袋を持ったままドアを叩いたからのようだ。
「重かった……。腕、痛いよー」
「無茶しやがって。大丈夫か? そっちの手の袋、貸せ。俺が持ってくから。鞄も寄越せ」
  あやから袋と鞄を受け取り、一旦床に置いてドアを閉める。

5.

「熱出したって聞いたから。ご飯とか食べてないんじゃないかと思って。学校の近くのお店で栄養ドリンクとかいろいろ買ってきたの。
こっちは果物。具合悪いとあんまり食欲ないかなと思って。あとこれ、ケーキなんだけど食べられる? アイスとかの方が良かった?」
 あやは床に座って荷物を広げている。俺は置いておくと腐りそうな物を冷蔵庫に運ぶ。
 ひと段落して、一緒に床に座り、小さい座卓の上にケーキの箱を置いて開けた。白いクリームとイチゴの、小ぶりな丸いケーキが中から出てくる。
「トモ……誕生日おめでとう」
「ありがと。あや、今日は本当に心配かけてごめん。そしていろいろありがとな」
「ううん。でも、熱下がって本当に良かった。元気そうで安心したよ」
 ケーキを切りながら笑うあや。初めて、心から愛しいと思った人。今日こそ、ちゃんと気持ちを伝えないと、と、あやを見ると顔色を変えて何かを探している。
「あや? 何? どうした?」
「ねぇトモ。プレゼント、まだ渡してなかったよね?」
「え? ああ……」
「見つからないの! お買い物した時に忘れたのかなぁ? でも、さっきまであったのに」
 そう言って首をひねりながら鞄を開けたり袋をひっくり返したりしている。
「いいよ、あや。オマエの気持ちだけで十分だ。ありがとう」
「良くないよぉ……せっかく選んだのに」
 涙目で俺を見上げる。本当に、見ていて飽きないヤツ。
「……じゃ、代わりに俺の頼み、聞いてくれるか?」
「え? 私にできることなら……。言ってみて」
「あや……服、脱いで」
「ええっ!!??」
「ごめん、いまの冗談。あのさ……その髪、解いて見せてくれないか? せっかく綺麗に結んでるのに悪いんだけど」
 ウサギの耳みたいに垂れているあやの髪。その解いた姿を今、もう一度見たかった。
「え、髪? ……いいよ」
 あやは左側の髪のリボンを両手で丁寧に解いていく。ゴムを外して、髪を指で軽く梳く。解かれた髪が肩を隠し、腕を覆う。初めて見たあの日、目を奪われた美しさ。まだ結んだままの右側も同じように解く。
 その姿から、一瞬も目を離せない。高鳴っていく鼓動。目の前で裸になっていくのを見るよりも興奮するかもしれない。あやは髪を結んでいると可愛らしい印象だが、下ろすと一転してぐっと色っぽくなる。
 俺の視線に気付いて、恥ずかしそうに顔を俯ける。胸元まである前髪が顔を隠す。薄いグレイの夏服の上を流れる、艶のある黒髪。脚を隠して広がるスカートにかかる毛先。
「あや……マジで、すげぇ綺麗だ。初めて見たときから、オマエの髪、綺麗だなって思ってた。女の髪ってこんな綺麗なもんなんだなって、目が離せなかった。普段結んでるのも、すごい……可愛いけど、下ろした方がやっぱ良い」
「ありがと。……トモがそう言ってくれるの、すごく嬉しい。トモは私が、初めて、好きになった人だから」
「……おい!? 今、何て言った?」
「ん……。だから、トモは私が……」
「待て!! それ以上言うな!!! その先は……俺から言う」
 あやの正面に座り直し、話し始める。声が震えるが、構ってはいられない。
「あや。俺は、オマエが好きだ。だから……だからこれからも、俺と一緒にいて欲しい」
 ずっと、ずっと伝えたかった言葉。言い終わると、一瞬照れたように俯いたあやは、すぐに顔を上げて嬉しそうに笑ってくれ、俺の目をまっすぐに見て深く頷いてくれた。
「側に来い、あや……。オマエに触れても、いいか?」
「ん……」
 細い肩を抱き寄せる。指が震える。初めて触れるあやの髪。柔らかくて、少し冷たい。指を通すとするすると滑りながら流れる。頬を埋めると、今まで感じたことのないふわふわとした感触。甘い香り……やべぇ、どうにかなりそうだ。

 ――幼い日。いつもは迎えに来る母さんが幼稚園に来なかった。近かったから俺は1人で家に帰り、ドアを開けた。鍵は開いていて、居間の食卓に母さんが座っていた。組んだ指に頭を乗せて、何か考え込んでいた。いつも綺麗に結っていた黒髪は乱れ、背中に落ち、疲れた様子に見えた。
  おかあさん。
  振り向いた母さんの顔は、ところどころ赤くなったり青くなったりしていた。寂しそうに微笑み、無言で俺を強く抱きしめた。俺の頬に当った母さんの髪。乾いたような感触で、少し痛かった。その日以来、母さんはあの男に会ってないらしい。

 腕の中のあやを見つめる。子猫のように幸せそうに目を閉じている、初めて愛した女。どうして、こんなに愛おしい存在を、傷つけたり苦しめたりすることができるのか。あやと出逢ってから、あの男のことが、ますます分からなくなった。
(俺はアンタとは違う。絶対、愛する人を不幸にさせない。どこに居るかも、顔も知らないけど……アンタが母さんにしたことには、ずっと逆らい続けてやるよ)
  あやが目を開け、手を伸ばして俺の頬をそっと包む。顔と顔が近づき始めた、その時。
「友哉、いる?」
  ドアを叩く音。聞こえてきたのは、懐かしい声。ふたりとも弾かれたように離れる。
「母さん? ちょっと待って。ごめん、あや。ちょっと待っててくれ」
  慌てて、玄関に走ってドアを開ける。母さんが両手に袋を提げて立っていた。
「どうしたんだよ……」
「熱があるって言うから心配で。食べる物とか買って来たのよ。もう下がったの? また背、伸びたんじゃない? あら、お友達?」
「お邪魔しています。黒田あやこと申します」
  いつの間にか隣に来ていたあやが挨拶をし、静かな動作で頭を下げる。1人暮らしの息子の部屋に女がいると言うのに、母さんは驚くより先に感心している。
「まぁ……可愛らしくて、よくできたお嬢さん。波田でございます。息子が、お世話になっております。驚いたわぁ、友哉がこんな素敵なお嬢さんとお友達だなんて」
  って、母さん、驚くところが違うだろ!

6.

 その夜。あやが帰ってから、久しぶりに母さんと晩飯を食った。流しが汚いと文句を言いつつ、買ってきたもので晩飯を作り、まとまった量のおかずも作っておいてくれた。痩せたように見えるが、顔色は良いようだ。
「久しぶりね、友哉。あんたも18歳になったんだね」
「おかげさまで。母さんも元気そうだね」
「友哉。今日のあんた、いい顔してる。前はいつも怒ってたけど。あの子のおかげかしらね。あやこちゃん、だっけ? いい子だわ。お行儀も良くて。大事にしてあげなさいよ」
 照れ臭さに、俺はあぁと曖昧な返事をする。

 そして、あやが大騒ぎして探していたプレゼントは、冷蔵庫の中にあった。紙袋には、小さな包みと、封筒が入っていた。包みを開けると、黒の革のブレスレットが入っていた。封筒の中には2つ折りのカード。

   トモへ。
   お誕生日おめでとう。
   どんなのがいいか悩んだけど、トモに似合いそうなのを選びました。
   気に入ってもらえたら、嬉しいな。

  私もトモも、もうひとりじゃない。
   これからもよろしくね。一緒に、楽しい時間を過ごそうね。
                              あや

 CDプレイヤーのヘッドホンをつけて、再生ボタンを押す。流したのは、詞も曲も布袋寅泰の「LONELY★WILD」。俺の気持ちに沿うような曲。怒りに任せ、暴れれば暴れるほど、心は荒れ、傷ついていった。本当は、受け止めてくれる人を、心を尖らせないでいられる日々を求めていたのに。
 そして、あやと出逢った。こんな俺を、あやは好きになってくれた。初めて恋した思いを受け止めてくれ、母さんをはじめ周りにいる人たちの、俺に対する気持ちにも気付かせてくれた。戦い続けた日々はもう、終わりにしてもいいのかもな。
  左手首にブレスレットを着ける。帰り着くべき場所を見つけた。心から愛する人と出逢えた。もう、傷つくことを恐れなくても良い。暖かい思いが溢れ出し、胸の奥に沁みていくようだった。
  一瞬、視界がぼやけ、頬を涙が伝っていった。


続く

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