もう、過去のことは思い出さない。辛い記憶は引きずらない。15歳、つまり中学を卒業する年の誕生日、私は母と約束をした。その時にもらったX JAPAN の「Rusty Nail」の音源。聴きながら、過去の傷も、辛かった夜も、もう忘れよう。そう決めた。目の上くらいだった前髪を伸ばし始めた本当の理由は、過去は消せないけど、これからの日々を、前を向いて生きるためだった。
「あやこちゃん。前髪、長くなったねー。伸ばしてからどのくらいだっけ?」
「んー、1年と4ヶ月ちょっとかな? 中学卒業する年の誕生日からだから」
「前髪伸ばしてから、ぐっと大人っぽくなったね。前からロリィタ風の甘めな服をよく着てたけど、可愛いだけじゃなく、上品で大人っぽくて、いい感じに似合ってるよ」
トモの誕生日の前日。母の妹・みづきの美容室に寄った。そろそろ毛先を揃えたかったし、トリートメントをして綺麗にしたかった。髪はずっと伸ばしていて、昔からこの叔母に手入れをしてもらっていた。中学に入る頃には、家でのケアの仕方も教えてもらった。叔母は近くに住んでいて母と仲が良く、よく遊びに来ていた。叔母は結婚しているが子供はいなくて、美容師の仕事を続けている。切り揃えた黒髪という山口小夜子のような髪型をずっと貫いていた。母も叔母も、ファッションも生き方も自分のスタイルをしっかり持っていてかっこいい。2人とも私の憧れの女性だった。
そんな2人に影響されて、私も自分の好みに素直に洋服や小物を選んでいる。一番好きなのは、クラシックで可愛い雰囲気。ロリィタとはちょっと違うけど、アンティークドールのドレスのような、綺麗な色の服や、薔薇やリボン、レースなどを使った小物を集めている。学校では上品で可愛いトラッドスタイルになるように制服はきちんと着て、髪のリボンや通学鞄、靴下、外靴などで可愛らしさを出している。好きな服を私らしく着るだけで、強くなれる気がする。高い服を着なくても、派手じゃなくても、無理に流行に合わせなくてもお洒落はできる。それが私の信念。
私はずっと、学年1位の優等生としてしか見られなかった。好きな本を読んで、普通に授業を聞いて興味を持って覚える。ただそれだけのことをしているだけなのに、みんな私のことを点数でしか見ない。それがすごく、不満だった。
でも、あの人は、私のことを違う角度で見てくれた。
私の大好きな人、トモ。本当は1コ年上の、同学年の彼氏。初めて言葉を交わした日。「オマエは自分をちゃんと持ってる」とはっきり言い、大切にしている長い髪を「かっこいい」と言ってくれた。あの日、トモに、「私のこと、“あや”でいいよ」と言った。あの時はさらりと言えたけれど、今思い出すと心臓が破裂しそうだ。でも“黒田”とか“波田君”とか、苗字で呼び合うのは、どうしても、嫌だった。そしてトモの誕生日の、ちょっとだけ期待しつつも、でもまさか、と思ってた告白。死ぬほど嬉しかった。
トモはとても背が高くて、腕や脚も長く、スタイルが良い。そして、意識してかどうかは分からないけど、本当の意味でお洒落だ。格好つけているだけの男の子と違って、制服も必要以上に着崩さないし、髪も染めず香水もつけないのが大人っぽい。いつも袖を折って着ている長袖のワイシャツの下にシンプルなネックレスをつけ、制服のグレイのズボンにはロックティストなデザインのベルトをしていた。左手首には私がプレゼントしたブレスレットをいつも着けてくれている。何より、ギターと言う夢中になれるものを持っているのが魅力的だった。
誕生日の翌日の帰り道。正面を向いたまま、私に左手を差し出し、ぶっきらぼうな口調で「ほら」と言った。嬉しくて嬉しくてぎゅっと握ったトモの大きな手は、少し震えていた。見上げると、照れたような表情を浮かべていた。皆、トモのことを反抗的だとか攻撃的だとか言って怖がるけど、自分より弱いものをいじめたり、女の子に乱暴することは決してない。本当はとても優しい、純粋な人なんだと思う。
「なぁ、あや。そのストラップって、自分で作ったの?」
携帯につけていた、ピンクの造花の薔薇とビーズのストラップにトモが気付いてくれた。
「うん。気付いてくれたんだ。嬉しい! でも、甘すぎるかなぁ?」
「そんなことねぇよ。それ、あやらしくていいよ。マジで器用だよなぁ、オマエ。頭もいいし……模試の結果。国語で全国5位ってすごくね?」
「ありがと。トモだって、この前、私が解んなかった英語の問題、すんなり解いたじゃない? あれ、すごいよ」
「まぁ……。英語はなぁ。かっこよく歌いたいし、いろんなバンドの英文サイト見たり、洋楽も聴くからよ。自然に覚えたんだ」
「それってすごい。ねぇ……トモ。いつも私のこと、ちゃんと見てくれて嬉しいよ」
答えの代わりに、私の頭を軽く撫でるように叩く。時計を見ると5時になっていた。
「あ、そろそろ図書室閉めないと。先に本、整理してくるね」
「俺も手伝おうか? 高いところとか危ないだろ」
「大丈夫。お父さんの書庫整理手伝ってるから、こう見えても力あるんだ。じゃ、ちょっと待ってて」
いつものようにキャスターのついた返却台を押し、本を書架に戻していく。返却台の上に乗っている本は多くて、今日はちょっと大変かも……と思いつつ、手の届く場所の本から書架に戻す。
『世界の歴史』シリーズ3冊を持って、脚立に乗る。2段の脚立だが古くてちょっとぐらぐらして、怖い。3冊はちょっと無茶だったかな。棚につかまりながら慎重に乗るが、本を抱えているのでバランスをとるのが難しい。
足に力を入れた瞬間、足元が崩れるような感覚があって、身体が揺れる。脚立が倒れる音。落ちる、と身を固くする。気がつくと、誰かの腕の中にいた。何が起こったのか解らない。大好きな匂い。視線の上には、シルバーのネックレス。
「トモ!?」
「大丈夫か? やっぱ気になって来てみたんだ。そしたらオマエが脚立踏み外すの見えて……間に合って良かったよ。立てるか?」
うん、と言って立ち上がったものの、「痛っ」と座り込んでしまった。左足が、痛い。
「あや!? どこ痛い? とりあえず掴まれ。いいか?……そこ、座れ。こっちの足首か? ちょっとごめん」
トモは私を抱えて椅子に座らせてくれた。そっと靴を脱がせて足首に触る。
「折れてはいねぇみたいだ。捻挫したんだな。とりあえず保健室で湿布もらって冷やすか。ほかに痛いとこないか? 腹とか打ってないか?」
「うん……大丈夫」
「ここが外れたんだな……」
トモは脚立を掴んで立て、じっとそれを見ている。
「トモ?」
「何でもねぇ……あや。保健室行くぞ。掴まれ」
トモは荷物を持って保健室に連れて行ってくれ、家まで送ってくれた。
その日の夜。バイト中に「ムシキング」のカードがおまけについたチョコが3つ、レジに差し出された。くるくると動く瞳が俺を見上げている。あやの弟で小学生の曜(ひかる)だった。後ろから皐月さんが歩いてくる。
「よぉ、曜。塾の帰りか? お、今日は3つか」
「うん。今日返ってきた算数のテスト、百点だったから、お母さんが買っていいって。塾のクラスで百点だったの、俺だけだよ」
「マジで!? すげぇじゃん、曜」
「曜。ちょっと先にお父さんのとこ、戻っててくれる?」
会計を済ますと、皐月さんが曜に声をかけた。分かった、とチョコの箱を抱えた曜が車の方に消えるのを見て、皐月さんは真顔で切り出した。
「ね、仕事中悪いんだけど、ちょっと話したいことあるんだ。時間取らせないから……」
「大丈夫ですよ。ちょっと待ってて下さい」
レジを代わってもらい、店の外に出る。皐月さんから漂う、エキゾチックな香り。ヒールが静かに地面を叩く。長い髪を留めたクリップの、銀色の飾りが揺れて光る。いつも明るい皐月さんの、シリアスな表情が気にかかる。
「ごめんね、仕事中に。あのさ、あやのことなんだけど……。今日さ、図書室で脚立から落ちて怪我したんだよね?」
「はい」
「他に、何か変わったこととかないよね?」
「……どうしたんですか?」
俺の頭を、嫌な予感がよぎる。図書室で見た脚立。
「ん。あのね、あの子ちょっと前にもね、体育の時間にこけたのよね、バスケやってる最中に。まぁ、あやは体育とか運動、すごく苦手なんだけど。
でも、あの子、誰かに押されたような気がするって、この前、妹に洩らしたみたいなの。妹、美容師でさ、ずっと前からあやの髪、手入れしてて、あやと仲が良くて……。気のせいかもしれないし大丈夫って、あやには口止めされてて迷ったけどって言ってた」
「……皐月さん。図書室の脚立なんですけど。部品が外れて壊れたみたいなんですよ。古いから壊れてもおかしくないんですけど。でも、その部品、誰かが外さないと外れないはずなんですよ。間違って外れるような部品じゃないんです」
皐月さんは黙り込み、手を額に当てて何か考えている。
「トモ君なら、話しても大丈夫だと思うから言うね。あのね、あや、中学の頃にもちょっと色々あったの。クラスの子全員から無視されたり、嫌がらせされたりして」
「何で?? あやが?? あいつ人に嫌われるような奴じゃないですよ」
「……何かね、2年の時にクラス替えして、新しいクラスに馴染めなくて、浮いちゃったみたい。あの子って大人しいようで、でもちょっと目立つでしょ。あやはそんなことされたの初めてで、すごく傷ついて。変な手紙来たり、靴隠されたり、ひどい落書きされたり。
でも、ぎりぎりまで言わなかったんだ。様子が変で、どうしたのって、旦那もあたしも何回も聞いたけど大丈夫って。そしたら夜遅く、剃刀持ってぼーっと机に向かってるの旦那が見てさ。さすがにその時、問いただしたら全部話してくれた。
あの子、嫌がらせしてくる子に直接やめてって言ったし、先生にも言ったんだって、自分で。でもね、先生は取り合ってくれなかったって。ひどい教師でさ、逆にあやのことを協調性がないとか何とか言い出したって……それ聞いて、あたしも旦那も、学校に抗議したよ。でも、あやの傷ついた心は治らなかった。しばらく、学校に行けなくなって。
中学卒業の時の誕生日にね、あたし、あやと約束したの。もう、辛い過去は忘れて前を向いて生きるってね。その時、X JAPANの『Rusty Nail』の音源をプレゼントしたの。あやはあやのままでいい。辛かった夜を終わらせて、まっすぐ生きていきなって」
「あやに……そんなことがあったんですか」
素直で天真爛漫なあやからは想像できなかった。そんなひどいことをされて、1人で悩んでいたことがあったなんて。
「トモ君。あたしさ、あやが心配なの。でもさ、あの子も高校2年だし、あたしや旦那じゃもう駄目なんだよね。
ね。お願い、側にいてやって。トモ君がいるだけで絶対、あやは元気になれるから。あとね、これ。あたしのメアドと電番。もしどうしても気になることあったら連絡して」
「……あやのことは必ず、俺が守ります。それだけは、約束します」
皐月さんは安心したような、でも少し寂しそうな笑顔を見せて、戻っていった。
それから、俺は極力、あやと一緒にいる時間を増やした。足がまだ危ないからと一緒に登下校したり、休み時間もさりげなく様子を見に行った。
昼休み。携帯とプレイヤーを持って玄関に行った。休み時間は廊下がうるさいので、いても解らない。授業中は通る人も少なく、なかなかいいサボり場所だ。ロッカーにもたれて座り、イヤホンを突っ込んで曲を選ぶ。と、裏から声が聞こえた。
「……これだ、黒田あやこって」
再生ボタンを押そうとした手が止まる。ロッカーを開ける音。何をしているのか、ざらざらと音が聞こえる。動きを止め、息を殺す。
「マジムカつくんですけど。生意気。ぶりっ子だし」
「つかあんたさー、さっき体育の時、わざと狙ったでしょ」
「当たり前じゃん。鈍いよねー、あいつ」
「早く。ひと来ちゃう」
捕まえて殴りたい衝動を抑え、無音のイヤホンを突っ込んだまま、横のガラスに目をやると、運動部らしい髪の短い日焼けした女子の姿が3人、映っていた。目を凝らして顔と特徴を覚える。完全に立ち去るのを見届けて、あやのロッカーを開ける。
(……!! 何だよこれ!?)
あやの黒い厚底の革靴の中には、大量の画鋲。中にはセロハンテープで留めてあるのもあった。咄嗟に近くの排水溝に捨てる。裏返すと、靴底にも刺さっている。それも爪で全部取り除き、捨てる。そのまま、あやのいる教室に向かう。隅の方にさっきの3人が固まって笑いながら喋っている。
(何やってんだあいつら……あやに何の恨みがあるんだよ)
最近、ちょっと嫌なことが続いた。同じクラスのソフト部の子が、何となく私に冷たい。冷たいだけならまだしも、その子達の視線や態度が怖かった。何か嫌がるようなことをしただろうかと考えてみても、ほとんど話さない子達だったし、思い当たることはない。
図書室で本の整理をして、司書室に戻るとトモが机に突っ伏して、左腕を枕にして寝ていた。静かに隣の椅子を引き、座る。
顔はやや細面で、耳は大きい。はっきりした形の良い眉。いまは無心に閉じられている、細いが存在感のある強い目。筋の通った鼻。柔らかく閉じた大きめな口はもともと口角が上がっている。精悍な、雄のライオンみたい。ギタリストの布袋さんに影響されたらしい、立てた短髪がよく似合う。一見冷たそうだが、表情は子供のようにくるくる変わる。
大好きなBOOWYや尊敬している布袋さんの話をする時の輝いた目、捻挫した私を心配してくれた真剣な目、そして、目が合った時のくすぐったいほどの優しいまなざし。
頬杖をつき、トモの寝顔を間近で眺める。幸せで、ふわんとした気分になる。
(ああ……幸せ。トモの顔見てるだけで、嫌なこと全部忘れられそうだよ)
少し身動きするトモ。目を開けて、私に気付く。
図書室を閉める時間になったので、司書室のドアを開けて、あの子達がまだいるのに気付いた。ソフト部の女の子3人。皆、ジャージと制服をだらしなく着崩し、短いスカートの下にハーフパンツを穿いて、図書室の椅子の上に上履きのまま立膝をしている子もいる。本を読んだり勉強したりする風ではなく、携帯をいじったり喋ったりしている。ガムらしき甘い匂いや、時折上がる笑い声が気になった。
「あや、どうかしたのか?」
司書室のドアから、どうしようかと見ていると、後ろから、トモの声が聞こえた。
「ん。ちょっと、騒いでる子がいて……。もう図書室閉める時間だし……」
「どこ?」
「あそこの席……。トモ?」
トモは険しい表情で、その子達の方を見ていた。
「なぁ、あや。あいつらには俺が言ってくるわ。もう閉めるから帰れって」
「いいよ。図書委員の仕事だし大丈夫。ありがとね、心配してくれて」
不安そうに私を見ているトモに笑って、司書室を出た。
「あの、ちょっと。もう図書室閉める時間なんだけど……あと図書室で、あまり大きな声で喋らないでくれる?」
あやの声が聞こえる。結局1人で出て行ったけど、心配で俺は反対側の本棚で様子を見ることにした。図書室にいたのは間違いなく、あやの靴に画鋲を入れた女子達だった。そして脚立から落ちた日も、昼間に図書室で見かけた。いつも図書室に来るようになって気付いたのだが、図書室に来る奴らは大体決まっている。だから、その時は見慣れない奴らがいるな、と思った程度だったが、靴に画鋲を入れたのを見て、全てが繋がった。
「ちょっと、聞いてる?」
「うるさいな」
「え?」
「ってか、あんたムカつくんだよね。ぶりっ子だし、いつもいい子ぶってさ。ちょっと成績良いからっていい気になるんじゃないよ」
「そうそう、ブスのくせにぶりっ子して男ウケ狙って。何その髪型? キモすぎだし」
「体育の時とかさ、鈍くて目障りなんだよね。超イラつくんだけど」
この子達、何言ってるの? 私は理解できなかった。前に感じた不快感。理不尽。よみがえる嫌な記憶。
―― 机一面に書かれた落書き。「キモい」「ブス」「死ね」。先生に相談して、返って来た言葉。「黒田さんが周りに合わせようとしないからいけないんじゃない? もう少し協調性がないと……」
嫌な記憶を振り払うように言い返した。
「さっきから何言ってるの? 私、別にいい子ぶってなんかいない。それに、どんな格好しようとあなた達に関係ないでしょ。気に入らないのも勝手だし、干渉しないで。
それに、私は男ウケなんか狙ってない。そんな必要ないもの。だって私、もう付き合ってる人がいるの。その人以外の男の人なんて、私には全然興味ない。
そんなこと言いにわざわざ来たわけ? 私に文句があるなら3人で来ないで堂々と1人で来ればいいじゃない。言いたいことはそれだけ? それなら帰って。そして迷惑だから二度と来ないで」
(あや……すげぇ。かっこいい)
決して声を荒げるのでも感情的になるのでもなく、冷静な口調で話していた。その頭の良さは父親譲り、気の強さは皐月さん譲りか。そんな場合ではないと解ってはいたけど、俺はあやに惚れ直した。あやがさっき言った「付き合ってる人」って……俺のことだよな。俺以外の男のことは興味がないと言い切ったあやに、静かに感動していた。が、次の瞬間、我にかえる。
「うるさいんだよ!」
「ちょっ……何するの!? 止めてよ! 放してっ!」
あやの悲鳴。本棚の裏へ走る。女子達があやに掴みかかっていた。
「止めろ! お前ら、何やってんだ」
あやは突き飛ばされ、俺の足元に転ぶ。背後にあやを庇い、女子達を睨み付ける。本気でぶっ殺してやりたいほどの怒りに頭が煮え返っていたが、妙に冷静だった。
「……なんてことするんだよ。てめぇら、さっきから聞いてりゃ下らねぇ言いがかりつけて、ひでぇことしやがって。今日のことだけじゃないだろ。俺、全部見てたんだぜ。
2度とこいつに、俺の彼女に手、出すんじゃねぇ。今度なんかしたら、マジぶっ殺す。
解ったな? 解ったらさっさと帰れ。ムカついて殴りたくなる。その前に消えろ」
顔を見合わせ、頷いた女子達が言葉を失ったまま帰るのを見送って、あやの側にしゃがむ。ウサギの耳のようにふたつに結んでいた髪は引っ張られて解けかけ、淡いピンクのリボンは片方、引きちぎられていた。腕には引っかかれたような跡。
「ひどいことしやがって……。あや……大丈夫か?」
膝のあたりを見つめたまま動かない。俯いて膝の上で握り締めた手が震えている。頬が濡れていた。色が変わるほど、唇を強く噛んでいる。俺が側にいるのさえ、解らないみたいに。しばらくして、リボンとゴムを引っ張るように外し、指で乱暴に髪を梳く。
抱きしめてやりたいけど、触れてはいけない気がする。何と言ってやればいいかも解らない。でも、決して離れられない。どうすればいいんだ? 一番、大好きなヤツの痛々しい姿を目の前に、何をしてやればいいか解らない。切なくて情けなくて、涙が出そうだ。
図書室を出て、玄関までの廊下を歩く。あやは鞄を抱えたまま、俯いていた。オマエ、もうひとりじゃねぇよ。ずっと、ずっと俺が側にいるから。声にならない思いが浮かんでは、宙に消え、言葉にならない。せめてすぐ側を一緒に歩くしかできなかった。
玄関で携帯が震えた。こんな時に誰だよと思ったら、氷葉さんだった。2つ年上で、俺が尊敬するアマチュアのミュージシャン。ライブを一緒にやろう、という話が動いていて、出ないわけにもいかないが、あやが気になる。電話が切れた。
「あや。こんな時に悪いけど、ちょっと携帯かけてきていいか? オマエのこと、すげぇ心配なんだけど、ちょっと、バンドの事で……大事な電話でさ。すぐ戻るから、ここで待ってろ。いいか?」
あやの正面に回り込み、両手でその肩を抱え、目を見て言う。こくりと頷いて、少しだけ笑った。その笑顔に安心して、氷葉さんに電話する。
「氷葉さん、友哉です。すいません……はい、大丈夫です」
電話が終わって戻ると、あやがいなかった。学校の中を覗いても、いそうな気配はない。ロッカーを開けると、外靴がない。すぐにあやの携帯に電話をする。コール音が鳴るが、出ない。一旦切ってメールを入れる。
(あや……。どこ行ったんだよ……?)
悲しいことや辛いことはいつかきっと終わる。目を閉じて、嵐が過ぎるのを待つ。
心で受け止め切れないことが起こってしまった時、私はいつもそうやってやり過ごしてきた。全ての感覚を閉ざし、感情を眠らせる。そうして、次に目が醒めた時、全てを忘れて普段の私に戻れる。
電話をかけに行ったトモが「待ってろ」と言ったけど、出てきてしまった。トモはバンドのことで大事な用事があるみたいだったし、私のことで邪魔したくなかった。私自身のことは、1人で何とでもできる。いや、しなくてはいけない。今日のことは確かにショックだった。投げつけられた理不尽な言葉も、髪を滅茶苦茶にされたことも、ものすごい屈辱だった。でも、いつものようにして嵐が過ぎ去るのを待つだけ。
そう思って、公園の東屋にあるベンチに座る。私の、お気に入りの場所。音楽を聴くように、夕暮れの景色に身をゆだねる。膝の上に抱えた鞄に肘をつく。解いた髪が頬にかかる。このまま、気持ちが落ち着くまで1人の世界に沈む。その筈だった。
私の中に溢れ出す想い。トモのこと。私を庇って、あの子達に本気で怒ってくれた。その後も、ずっとずっと私を見ていてくれた、切ない視線。トモはいつも私の側にいてくれた。一緒にいるとドキドキして宙を歩くような心地がしたが、反面で気持ちが落ち着いて、自然なままの自分でいられた。
中学の頃、クラスの子達に嫌なことをされて以来、女の子同士の付き合いが苦手になった。それなのに、感覚も、見ている景色も全然違うはずの男の子のトモとは、女の子の友達以上に不思議と何でも自然に話せた。憧れていただけの人は、いつの間にか心から大切な、愛しい人になっていた。
でも今日、トモに何も言わずに帰ってきてしまった。私のこと、本気で大切に思ってくれているのは解っている。心配してるだろうし、優しい分、傷ついてるかもしれない。
謝らなきゃと、鞄から携帯を出す。着信とメールがあった事を知らせる、ピンクの光。トモからのメールを開く。「あや。さっきはごめん。今どこ? 連絡して」
(トモ……ごめんね。会いたいよ)
氷葉さんに電話したことを後悔していた。聞かれて困る話でもないし、少なくともあやの側で電話をかけるべきだった。
(ごめんなあや……。1人にしてごめん……)
深い闇の中で手を離してしまったような、そんな気分。このままもし、あやを見失ってしまったら。そして二度と俺の側に戻ってこなかったら。そう思うと、いても立ってもいられない。いや、絶対にそんなことはさせねぇ。
携帯の発信履歴を見る。氷葉さんとの電話は大体10分間。学校から駅まで、俺が歩いて10分くらい。あやの足では駅まで行って電車に乗るのは無理だろう。きっと学校の近くにいるはずだと、まずは辺りを探してみることにした。たまたま自転車で来ていて良かった。あやから連絡があってもわかるように、ハンドルに引っ掛けた鞄を少し開け、見える所に携帯を置く。まず駅に行き、図書館やらファーストフードやらファミレスやらを覗いたが、いなかった。念のため、あやらしき女の子が来なかったか聞いたが知らないと言われた。携帯を出して時計を見る。6時35分。
もしかしたら帰ってるかもしれないし、皐月さんに電話しようか。でもあのまま黙って家に帰ることはないような気がする。心配かけてしまうだろうし、まずは探そう。7時になって見つからないようなら1回連絡入れたほうがいいかもしれない。
喉が渇いて、ふと見かけたコンビニに立ち寄る。アクエリアスのペットボトルと、いちごミルクキャンディを買った。傷ついたあやを前に何もしてやれなかった。何と言葉をかけたらいいのか解らなかった。皐月さんから聞いた話を思い出す。中学の頃、嫌がらせをされて深く傷ついたこと、そして辛いことを1人で抱え込もうとする傾向があること。
あやは優しくて芯が強い。周りに心配をかけたくなくて我慢したのだろう。誕生日にもらったカードに書いてあった「私もトモも、もうひとりじゃない」の、本当の意味が解った気がした。その時は何とも思わなかった。気付いてやれなかった。
俺の手の中で突然、携帯が震える。聞こえてきたのは「Rusty Nail」のイントロ。
「もしもし、あや?」
「……トモ。ごめんね。黙って帰っちゃってごめん」
「大丈夫か? 今どこにいる? 1人か?」
「ん……学校の近くの、N公園。東屋のベンチにいる」
「N公園だな。えっと……今から10分くらいで行ける。待ってろよ。そこから絶対、動くな。いいな」
俺は電話を切ると同時に自転車に跨り、ペダルを漕ぐ。公園にそのまま乗り入れてあやを探す。東屋らしいものはすぐに見つかった。ベンチに座っている、見慣れた制服を着た女子。身体の前に垂らした長い髪。見つけた。
「あや」
自転車のタイヤが地面に擦れる音。私のすぐ側で、私を呼ぶ声が聞こえた。ギターの弦を弾くように響く、低い声。振り返ると、大好きな顔。深い呼吸。安心したような目。
トモがそこにいる。すぐ側で感じる、匂い、声、体温。ただそれだけで、こんなに穏やかな、落ち着いた気分になれるなんて。
「ごめん、トモ。本当にごめんね」
「あや! 良かった。……心配させやがって」
トモの大きな手が私の肩を包むように抱き、腕を撫でる。トモの腕に手を乗せる。少し湿気を含んでしっとりしたワイシャツ。薄い生地越しに伝わる素肌の熱。
「あや。ごめんな、1人にして……このままオマエを失ったら、って思うと、マジで怖かった」
「ん……。トモのせいじゃないの。私、昔からこうだから。
辛いこととか、抱えきれないことがあった時、気持ちの整理ができるようになるまで、しばらく1人になるの。
前にも今日みたいなことあったの。もう、忘れようと思ってるんだけど、中学の頃に周りの子とうまくいかなくて……。誰にも言えなかったし、言いたくなかった。言っても、解ってもらえるわけじゃないし。それなら我慢したほうがいいって」
寄り添うように、ベンチに並んで座る。俯いたまま話す私の手をずっと、握ってくれている。頭の上に感じるトモの視線。
「でもね、今日は違った。トモのことが頭に浮かんで、側にいて欲しいって……ごめんね、勝手だよね、黙って帰ってきちゃったのに。だけど、私のこと、庇ってくれて嬉しかった。トモと一緒なら大丈夫って。私の戻るべき場所は、トモの隣なんだって思ったの。
トモと出会えて、仲良くなれたこと、……私のこと、好きだって言ってくれたこと、本当に嬉しいの。もう、離れたくない」
「辛かったな、あや……。オマエ、本当によく頑張ったよ。……でもさ、オマエ、もうひとりじゃないんだぜ? 俺だって、オマエにめちゃくちゃ救われてる。どうしても辛い時は……俺にだけは、甘えて欲しい。そしてずっと、離れるな」
トモはあやすように私の頭を撫でてくれた。最後の方は照れたようなトモの声。嬉しくて切なくて愛しくて、安心して、涙が溢れる。
「泣くな。手、出せ」
私の手の上に載せられたのは、いちごミルクキャンディだった。
「トモ……今日は本当にありがとう。そして心配かけてごめんね。私からのお礼……目、閉じてくれる?」
「目? 何だよ、何する気だ?」
「いいから。途中で開けちゃだめよ」
「…わかった」
トモは素直に目を閉じてくれた。ちょっと緊張しているようにも見える、端正な顔立ち。自分の心臓の音が聞こえそう。呼吸を整えて、身体に触れないようにそっとトモに近づく。口角の上がった、大きな口。ためらいを振り払うように、唇を重ねる。私とは違う身体。柔らかい感触。そのまま、数秒間。唇を離すとトモは、思いっきり目を見開く。
「あや!? オマエ……、今……」
「ふふ。……びっくりした?」
「『びっくりした?』じゃねぇよ。オマエ、突然……。俺のファーストキス奪いやがって」
「ファーストキスって……」
「笑うな! こら、あや。待て!」
赤くなって焦っているトモが可愛くておかしくて、笑いながらベンチから立ち上がり、東屋の中を逃げる。追いかけっこ。すぐに、トモの長い腕に絡め取られる。
「捕まえた! このやろぉ。仕返ししてやる」
トモの両手に頬を包まれ、唇にキスされた。頬や額、首筋に降る、雨のようなキス。時折漏れる吐息が無防備で、可愛い。トモの首に腕を絡める。ワイシャツの襟の中、首筋から鎖骨を指でなぞる。指先に触れるネックレスのチェーン、短い襟足の髪。制服越しに感じる、背中に回されたトモの熱くて力強い左手。そして、優しく髪を撫でてくれる右手。
告白した時もそうだった。俺がいつ、どうやって伝えるか散々悩んでいたにも関わらず、こいつはあっさりと「トモは私が初めて好きになった人だから」と言った。か弱く見えて気が強く、初心に見えて大胆。全く、こいつにはいつも驚かされる。さっきまで泣いていたくせに、今は俺の腕の中で笑っている、愛しいヤツ。
あやに触れるたび、長い髪が俺の腕に触れた。いつまでも撫でていたいような柔らかな手触り。少し掬って頬に当て、唇で触れる。ふわふわしているくせに、冷たく滑らかな感触が狂おしい。猫のように目を閉じた、小さな可愛い顔。薄目を開けて、俺に微笑む。
見つめあって、ゆっくりと唇を合わせる。いちごミルクキャンディ味の、長い、長いくちづけ。黒髪に両手を沈める。思考が、弾け飛びそうだ。
あや、あや。俺を、オマエの中で溺れさせてくれ。
「友哉。今、学校の帰りか?」
「氷葉さん。あ、今日、休みですか? 珍しいですね、こっち来るの」
「うん、ちょっと用事があってさ。あれ? その子がもしかして、例の?」
「……自慢の彼女です。あや、氷葉さん。俺がよく行く楽器屋のスタッフの人で、バンドやってて、これから一緒にやらせてもらうことになったんだ」
あやと氷葉さんが軽く挨拶を交わし、せっかくだからと3人でドトールに入る。
氷葉耀介(ひば ようすけ)。現在20歳。今まではギターを弾きながら歌っていたが、歌に専念したいと思うようになったそうで、俺に声をかけてくれた。この前、店が終わった後に音合わせをして、次のライブで正式にメンバーになることが決まった。
クールな外見とは対照的な、華やかで伸びのある声を活かした情熱的なヴォーカルやステージでのパフォーマンスはアマチュアバンドながら、一部のロックファンの間では話題になっていた。氷葉さんはステージを下りると柔らかい物腰の優しい人だった。今日も俺と次のライブやギターの話をしつつ、氷葉さんとは初対面の上、バンドや楽器のことを詳しく知らないあやが居心地の悪い思いをしないよう、さりげなく気を遣ってくれていた。
氷葉さんとあやと3人で話していて判ったことがひとつ。あやの誕生日は2月1日だった。それって……布袋さんと同じ誕生日じゃん!?
「あや!! オマエは俺の運命の女だ! 俺らが恋に落ちることは決まっていたことだったんだ!」
「トモ!? どうしたの急に? そんな大声で……。人が見てるよ……」
向かいの席で、俺らの様子を笑いながら見ていた氷葉さんがあやに話しかける。
「次のライブ、8月の頭にやるからさ。あやちゃん、良かったら来て。曲はBOOWYのコピーと、オリジナルが何曲かで、友哉も1曲、歌うことになってるから」
「え? そうなんですか!? トモ、すごいじゃん。絶対行きます!」
話が一段落した頃、ちょっと失礼します、と、あやがトイレに立った。
「話には聞いてたけど、あやちゃんって本当に良い子だね。友哉とあやちゃんって、ぱっと見、全然違うのに、どこか似てて。すごく似合ってる気がするよ」
そう言われて少し照れる。グラスに手を伸ばし、口をつける。氷葉さんは「友哉、ちょっと」と、左手の指で軽く手招く。ドルガバのライトブルーが軽く香る。長い前髪がかかった氷葉さんの目が、悪戯っぽく細められ、俺の耳元で囁く。
「お前さ、あやちゃんと、もう………のか?」
瞬間、飲んでいた水が逆流する。顔が火照り、息が苦しい。盛大にむせる。
「ちょっ、友哉……!? お前、大丈夫か?」
「『大丈夫か』じゃないですよ。いきなり何言い出すんすか氷葉さん。こんな昼間から……」
「顔、真っ赤だぞ。それにもう夕方だよ。その様子じゃ、まだみたいだな」
「当たり前じゃないっすか! ……焦ってあいつを傷つけたくないんで」
ゆっくりと呼吸する。落ち着いては来たが、まだ動悸が早い。氷葉さんは笑って俺の肩を叩く。顔を上げ、表情を和らげて俺の背後を見る。あやが、戻ってきたらしい。
つづく
ロングヘアマガジン>ロングヘアアート>小説