「うるせぇな。てめぇに関係ねぇよ!!」
威嚇するように叫び、何かを蹴飛ばす。彼は全てに対して苛立ち、怒っていた。
挑むような光を秘めた細い目、逆立ててセットされた黒い短髪。長身の背をわざと丸めて、戦場を往くように歩いていた。
教師のちょっとした言葉に本気で怒り、納得ができないことに声を荒げたり暴れたりしていた。そんな彼は同学年だけど私たちより1つ年上で、前の学校で問題を起こして退学になったとも、家庭の事情で転校し、うちの学校に編入したとも言われていた。現在は唯一の家族である母とは別々に暮らし、一人でアパートに住んでいるという。
皆、そんな彼を恐れて近づかなかった。
彼の名前は、波田友哉(はた ともや)。
私はそんな彼に、強く惹かれていた。ちゃんと学校に来て勉強することが普通だと思っていた私には、破天荒に暴れて歩く彼が、とても新鮮で眩しかった。
クラスは違ったけど、時々洩れ聞く「怖い」噂に、快感すら覚えていた。
たぶん彼は私のことは知らないし、知ることもないままに卒業するんだろうなぁ。と思うと、寂しさとどうにもできない焦りを感じた。
でもあれが、もし間違いじゃなかったら。彼は一度だけ、私のことを見てくれた。振り向いた私と目が合って立ち去った彼のこと、そしてその時の、吃驚したような傷ついたような彼の表情が、忘れられない。
俺がはじめてあいつを知ったのは結構前だった。
休み時間に、廊下を歩いていた時。偶然、眼に入った教室の廊下の戸のすぐ側の席で、本を読んでいるあいつを見た。
艶のある黒髪が背中を流れ、腰を越えて垂れている。身体を動かすたびに、光を湛えた長い髪は静かに流れるように動く。月の光を跳ねかえす夜の川のように。
時折、髪を後ろに払いのけるように頭を軽く振ると、さらりと波打つように揺れる。漆黒よりも少し淡い色の、柔らかそうな髪。
やばい……女の髪って、こんなに綺麗だったんだ……。
美しさに心奪われた。他のものは何も見えなくなり、何も聞こえなくなった。
この掌で大切に守ってやりたいけど、触れてはいけない。ずっと見ていたいけど、見つめると胸が苦しくなる。今までに感じたことが無い気持ちが身体を突き抜けて、痛い。
突然、あいつが振り返った。大きな黒い瞳。弾かれたように、俺はその場を離れた。
違うクラスだったけど、後でその教室の座席表を見て名前はすぐに解った。
あいつの名前は、黒田あやこ。
父親は大学教授。得意科目は古典と英語で成績は学年1位、図書委員を務める。弁は立つようで、教師に詰め寄ることもあるらしい。そして可憐な容姿ゆえにひそかに狙っている奴も多いらしいことも知った。
あの日。
運動部の連中に絡まれて喧嘩になり、教師に怒られて悪態をつきながらその場を離れ、誰も居ない教室から外を眺めていた。
教師との対立は日常茶飯事だった。誰かに頭ごなしに怒られたり、押さえつけられると無意識に反発してしまう。もちろん学校は嫌いだった。
餓鬼の頃から怒られ、逆らってわめいてばかり。渦巻き、荒れ狂う怒りを持て余していた。俺は、自分を操る見えない相手を振り切ろうと鏡の中で滅茶苦茶に暴れる操り人形のようだ。そして暴れれば暴れるほど糸が縺れ、身動きがとれなくなる。
俺の中に、一人の男がいた。一度は愛し、子供まで作った女を散々苦しめ、悲しませて捨て、今は金儲けに精を出しているという、最低な男。顔は知らないが見たいとも思わない。だが俺の中には、確かにそいつの血が流れている。そう思うと腹が立って、すべてを殴って、蹴って、ぶっ壊してやりたくなる。
昔、先輩に教えてもらって始めたギターと、ロックが俺の命だった。俺の気持ちに沿うような、身体を突き抜ける音。BOOWYやXの曲も覚えた。荒れ狂う感情をスコアに乗せるようにギターを弾くと、音と言う形になって放出されるのが快感だった。
だけど最近では、心が尖って尖って、どうしようもない気分の時には、あいつのことを考えるようになっていた。その時だけ、錆びたナイフのような心が少し和らぐような気がしていた。
俺を腫れ物のように扱い、目を合わせないようにする他の奴等と、あいつは違っていた。あいつはこんな俺のことを、目をそらさずまっすぐに見た。それも嫌な目つきではない、ただ純粋な、優しい瞳で。そして、廊下で近くに行くことがあっても、あいつは他の奴のように必要以上に避けなかった。
なぁ……俺はオマエがいてくれるおかげで、ずいぶん救われてるんだぜ。
いつか話してみたいけど、無理だろうな。
あの日も、あいつのことを考えて、少し怒りが落ち着いていた時だった。突然、教室の戸が開く音に振り返ると、人がひとり駆け込んできた。
翻るスカート。華奢な身体。制服のブレザーの裾に届くほどの、長い黒髪。俺の目の前を走り抜けたのは、紛れもなくあいつだった。
あの日。
私は学校の机の中に忘れ物をしてしまい、急いで放課後の教室に戻った。歯医者に行くためにせっかく早く学校を出たのに、駅について本が無いことに気付いた。そして、その本には診察券をしおり代わりに挟んでいたのだ。
気付いた瞬間、駅から学校に向って、もと来た道をダッシュしていた。後ろで結んだ髪が激しく揺れる。シュシュとゴムが緩んでしまうけれど、今だけは構っていられない。歯医者歯医者……本本。と頭の中はその言葉がぐるぐる廻っていた。憎々しげに階段を3階まで駆け上がり、教室の戸を開ける。薄暗い教室の中、机に軽くぶつかりながら自分の机を目指す。勢いよく椅子を引き、机の中を覗き込む。
「よかった、あったー」
安堵の溜め息とともに机の中から本を回収した。息が切れる。椅子に寄りかかったまま床に座り込む。その時、ふと前を見て初めて、誰かいる、と解った。
「あ……波田君!?」
窓の側の手すりにもたれて、吃驚したようにこちらをみているその人は、彼だった。
(え、波田君? どうして? 違うクラスの筈なのに?)
何を言ったらいいか解らなくて、床に座り込んだまま、ただその人を見ていた。
彼は笑い出し、そして言った。
「すげぇ独り言だな……黒田あやこちゃん」
「え……波田君、何で私の名前、知ってるの?」
「つかそれ俺が聞きたい……って、その前に、大丈夫? 立てるか?」
彼は私の側に近づいてきて、しゃがんだ。反射的に乱れた髪を指で整える。私をまっすぐに見ている目は、いつも荒れて怒鳴っている彼から想像できないほど、柔らかかった。
「思いっきり息切れてんぜ。何そんなに急いでたんだよ……」
「歯医者に行くつもりだったんだけど、本忘れたの。診察券が挟んであって」
「あぁ……その本か。それ、面白い?」
私が抱えている本を見て、彼は言った。
「え、私は好きだけど……読む?」
手渡すと、彼は真剣な顔で読み始めた。そして、診察券を返しつつ言った。
「これ、2,3日貸してくれねぇか? こいつは返すから。代わりにこれ貸す」
彼は鞄からCDを取り出し、手渡した。
「これと同じ音源だ。ちょっと聴いてみろ」
彼が差し出したイヤホンをつけると、大音量が耳に飛び込んできた。頭を押さえつけられるような閉塞感を打ち破るように、真実の言葉を、歌っている。
(あれ?)
よく聞いてみると、どこかで聞いたことがある曲だった。
「あ。私、この曲知ってる」
「マジで!? 『MARIONETTE』か……オマエ、BOOWY好きなの?」
「誰の曲かまでは分からなかったんだけど、日曜日の夕方にラジオ聴いてたらこの曲が流れてて、かっこいい曲だなって。それで気になって」
「ああ、誰かリクエストでもしたのかな。俺も好きだぜ、それ。氷室の歌詞が最高なんだ。ギターの布袋は、俺が憧れてるギタリストなんだ。まぁ、そのCD聴いてみろよ」
「うん。ありがとう」
「オマエ、意外と俺と趣味合うかもな……って、言われても困るだろうけど」
そういうと挑発的なまなざしを投げ、「喧嘩っぱやいし、出来損ないの問題児だからな、俺」と言った。初めて間近で見た、寂しそうな目。
きゅう、と、胸が締め付けられるような気がした。
「……私はそんな風に思ってないよ。
波田君、おかしいと思うことや、言いたいことがちゃんと言えて、すごくかっこいいよ。
それに、ギター、やってるんでしょ。何ていうか、自分を表現できるのってすごい。私、ずっとそう思ってた。だから、出来損ないとか言わないで。
私……本は好きだけど、これと言って得意なものはないし。何ていうか、皆から点数でしか見られていない感じがする。全然、自分がないみたい。私は私なのに……」
「そんなことねぇよ」
彼は、私の目をまっすぐ見て言った。
「オマエは自分をちゃんと持ってる。流されてるだけの奴らとは違う、自分の基準で動いてるよ。
俺はオマエ、真面目なだけじゃないと思うぜ。成績だってちゃんと自分の意思で勉強してなかったら、試験で毎回1位にはなれないって。
それと……その髪の毛、何となく伸ばした長さじゃないだろ。そこまで長い奴、他にいないし……かっこいいよ」
今まで聞いた誰の言葉よりも、力強く真剣な言葉。違うクラスの彼がそこまで私を見ていたことが意外だった。そして、大事に伸ばしてお尻に届く程になった髪を「かっこいい」と言ってくれたのも、彼の他にはいなかった。
「……ありがと。何か、元気になれた気がする。これ、お礼。ね、手出して」
ポケットからいちごミルクキャンディを取り出し、彼の手のひらにぽんと乗せる。
「あ? なんだこれ? ってか、いつも持ってるの?」
「うん。好きなの」
「こんなもんばっか食ってるから虫歯になるんだよ」
「違うよ。甘いもので好きなのはそれだけ。本当は、醤油煎餅が大好きなの」
「醤油煎餅ね……さっきから思ってたけど、オマエ、見た目と中身、全然違うよな」
「よく言われる」
「なぁ、……オマエ」
「“あや”でいいよ」
「え?」
「私のこと。友達に“あや”とか“あやちゃん”って呼ばれるから……あ、もちろん、嫌じゃなかったらだけど」
ちょっと吃驚したような彼。でもはっきり「嫌じゃない」って言ってくれた。そして照れたような表情で「あや」と呼んでくれた。
「ってか、時間いいわけ??」
「あぁぁっっ……良くない!!!」
私は鞄を抱えて、慌てて立ち上がる。戸口まで走ってから、彼の方を振り返る。
「お話できて嬉しかった。私、図書室にいること多いから遊びに来て。あと……“トモ君”って呼んでいい?」
「トモ君かよ……」
「駄目?」
「……せめて、友哉か“トモ”にしてくれ」
「解った。じゃ、またね、トモ」
「ああ」
彼の笑顔を背に、CDと診察券を抱き締めて走る。駅に着いて、電車に乗って、ひと段落して、息を切らしながら借りたCDを見た。
黒い背景に濃紺のメタリックな花の写真のジャケットの「THIS BOOWY」というCD。彼の世界をちょっとだけ共有できるような気がして、嬉しかった。別れ際に見た笑顔は、今までに見たことがないほど、優しくて素敵だった。
これのおかげでまた、話せるよね?
「トモ、か……」
走っていく後ろ姿を見ながら、こんな風に普通に誰かと話したのは久しぶりだということに気づいた。話してみて、ちゃんと自分を持ってる素直な奴だな、と思った。可笑しいのか嬉しいのか解らないけど、自然に笑みがこぼれた。
そして初めて間近で見たあいつの顔は、大人しめだけど整った顔立ちで、大きな瞳が愛らしい。長く伸ばして上げている前髪も色白の肌を引き立て、よく似合っていた。
見た目、可憐な優等生なのに……やっぱ面白い奴。
数日前の職員室前で見かけたやりとりを思い出す。
根暗な国語教師の岬が、あいつの髪の毛をじろじろ見て「染めているんじゃないか」としつこく言い出したのだ。
確かに真っ黒ではなかったが、傷んでいない綺麗な髪だ。それにあいつは髪を染めるような奴じゃない。ヤな感じの言い方。大切なものが汚されたような気分だった。あれ以上何か言ったら殴ってやろう。そう思った時だった。
黙っていたあいつが、はっきりと岬に言い返した。
「先生。私は髪を染めていません。生まれつき、こういう色なんです。
母も同じ色で、昔同じような事を言われたそうです。何なら親を呼んでも結構です。
親からもらった髪なのに、黒く染めろというのはおかしいです。」
大人しく見えるあいつの意外に強い態度に言葉を失った岬の顔も快感だった。
こいつ……やるじゃん。
この日、屋上で聴いたBOOWYの「MARIONETTE」が、妙に爽快だった。
俺の手の中には、1冊の文庫本。太宰治の『斜陽』だった。読みながら思う。この主人公、わけわかんないのに、どこかに1本芯があって……あいつみたいだな。
今度会う時、言ってやろう。
翌日の放課後、俺は図書室に行った。奥の本棚の側に、あやがいた。後ろで1本に編んだ髪を揺らしながら棚の本を並べ替えている。
「あや」
側に行き、名前を呼ぶとふわりと笑顔になり、言った。
「トモ。来てくれたんだ」
「ああ、本、返そうと思って」
俺を柔らかく包んでくれるようなあやの顔を見ると自然に笑える。傷つけられることを恐れずに、尖らずに居られること、呼吸するように自然に笑い、話すこと。それだけの当たり前のことがこんなに居心地よくて新鮮なんだ、と初めて感じている。
がんじがらめになっていた感情が解き放たれ、羽ばたくように自由になる。