12月
12月2日(金)  ゲームあるいは遊びとしての即興

そもそも何故”即興”で劇をやりたいのだろう?
演劇における即興の可能性、あるいは不可能性について、どう考えているのだろう?
どれくらい決め事があるのだろう?
言葉と身体を持った演じ手と音楽の関係を、どう考えているのだろう?
畢竟、何を伝えたいのだろう?
否、テーマや物語性を求めること自体がナンセンスなのだろうか?

頭がぐるぐる。
ああでもない、こうでもない。
?がうずまく。
いっしょに何ができるだろう。

”だんすだんすだんす”という、即興演劇をやるグループのアトリエ公演の初日に行ってきた。今晩は「かくてる・ぱーてぃー」と題されていて、男女二人が出演。なんとなく雑談風なところから、その時間は始まった。

おそらくあらかじめ決まっていたひとことではないか(?)と想われる、大きな声による「北の大地」のカットインで、その言葉から連想されるものを何人かの客に問いかけ、それらを使って物語を作っていく。容易に想像がつくような(一般人が想像することなど、どうしたって「北の国から」であり、富良野の光景だろう)「キタキツネ」が出た辺りで、展開は少々陳腐になっていったように感じられた。キツネは化ける、でだいたい流れは予想がついてしまう。新美南吉なんていう名前まで浮かんでしまった。

そしてエレピを弾いていた人が一人。音を出すタイミングをはかったりしていることはよくわかったが、そのほとんどすべてに音楽がつけられていた。私なら半分以下、だろう。それにあまりにも劇に合わせ過ぎている。エレピなので、それなりに音色にも配慮しているようではあったけれど、いかにせんプリセットされたものだけで演奏していたのでは幅が広がらない。私にはあまり良い音には聞こえてこない。それに問題はテンポ。テンポ感に変化がないと、芝居の流れは平面的になる。

思うに、相当の力がないと即興演劇はできない。言葉につまったら、身体がとまったら、流れが切れる。イメージの連鎖が生命かと。そしてその流れは勢いコラージュ風になる。

ちょっと調べてみたら、どうやら即興演劇は中世のイタリアで生まれた”コメディア・デラルテ”辺りに端を発しているらしい。そして時代を経て、現代の即興演劇にもっとも影響を与えた人物として、キース・ジョンストンとヴィオラ・スポルリンという人たちの名前が挙がるらしい。

ジョンストンは「シアタースポーツ」と呼ばれる、インプロシアターのスタイルを作り出した人で、その基本となるのは即興劇を演じるスキルを学ぶための300を超えるゲームだそうだ。
また、スポルリンは「シアターゲーム」という、やはり即興劇のスキルを考えた人らしい。

また、近年日本ではこうした即興劇が、例えば企業の研修やワークショップといった形で、人とのコミュニケーションを学ぶ場と時間として機能しているらしい。そこで人々は自分を解放し、他者とのあるいは自分自身との新たな出会いを享受するのだろう。

ともあれ、こう書けば、音楽ではすぐにジョン・ゾーンのことが浮かぶのが自然だ。ゲーム、そして遊び。そしてこのゲーム・ピースの功績は、これまで決して出会うことがなかったであろう人たちを、同じ場所と時間に集めることができるという点にあると思う。そしてそのゲームの結果あるいはそこにいた人たちの関係の結び方が、優れて面白かったかどうかがすべてであり、そこでは例えば音楽の真実とか深遠な意味といったものは問われることはない。

で、他人が遊んでいるのを見て、ゲームをやっているのを見て、面白いと思う人がいるだろうか。ゲームといってもいろいろあるが、野球やサッカー、あるいは将棋や囲碁は、真剣な勝ち負けがあるゲームで、それとこうした即興演劇や即興音楽とは、ゲームの意味合いが違う。

それに即興といっても様々だ。例えば太田惠資(vl)さんと私が加わっている、黒田京子トリオと太黒山を考えてみても、たった一人、メンバーが違っただけで、その即興演奏の質は大きく異なる。即興の意味も違う。

では、演劇や音楽における即興は、現代の演劇や音楽にどう応えているのだろうか。音楽について、私はおそらく答えられる。が、演劇についてはどうもよくわからないところがたくさんある。

ともあれ、よーく考えてみよう。それからよーく話し合ってみよう。


12月7日(水)  成長

大泉学園・inFで、太田惠資(vl)さんと喜多直毅(vl)さん、二人のヴァイオリニストと、一年に一度の逢瀬の七夕セッション。初めて演奏した時はリハーサルを2回やった。3人それぞれに月日が経ち、あれ(2002年)から4年の歳月が流れている。ということに、少々とまどう。

まだ仕事をしながら、新宿・ピットインの朝の部に、オリジナル曲などをひっさげてカルテットで初めて演奏したのは、1986年の1月。もうすぐ20年になる。ということにも、なんだかおろおろしてしまう自分を見る。

この間、私はいったいどれくらい成長しただろう?
って、ほぼこの20年間、ずっとライヴに足を運んでくださっている方にでも聞いてみようかしらん。

ここのところ、「学ぶ」ということの大切さを、しみじみ思う。もっと学びたいと、心が言っているのが聞こえる。つまり、自分はまだ何もわかっちゃいないと、つくづく思う。40歳も半ばを過ぎたというのに、なんてえことだあと、ほとほと思う。

人はそれぞれ。
という、ただ、それだけのことすら、私はまだうまく受容できていない未熟さを背負っている。


12月8日(木)  引き戸の世界

古い民家で演奏する機会を持った。それは新潟県・直江津駅から、車で海沿いに約30分程走った山の上にあって、土間や台所などは改築されているけれど、母屋の方は引き戸などは新しくなっているものの、そのままの形で使われていた。諸所に花が活けられていて、囲炉裏には炭の火が熾きている。天井は煤けて黒く、とっても高く、柱はやたら太い。

で、この引き戸を全部取っ払うと、多分ゆうに百畳くらいの広さにはなり、私たちは畳の上で演奏した。お客様も百人を超えていたと聞いている。

引き戸は立派だと思った。日本の家屋には、その風土や環境の中で培われてきた文化が息づいている。

自宅で法事などをするのが当たり前だった頃、こうして引き戸を取り払って、大勢の人たちが訪れたのだろうなあと思う。白い割烹着を着た、近所のおばさんたちが一所懸命煮物などをこしらえている姿が浮かんできた。私がそういう光景を憶えているのは、祖母、祖父、の葬式がそうだったからだ。

打ち上げは海沿いにある旅館で行われたが、いや、もう、それは各地から、様々な人たち、それぞれにこだわりを持って生きていらっしゃる方たちが集まっていたのに驚く。それにお料理が美味。温かい鮟鱇(あんこう)鍋、ハタハタ、さざえ、それにご自分で仕留めたという方の猪鍋、最後は打ち立てのお蕎麦だった。なんという贅沢〜。

夜は真っ暗で、風に揺られる竹の葉の音くらいしか聞こえてこない。ここにご主人と住んでおられる高橋竹山(二代目)さんの凛とした姿、生き方、そしてあれだけの人で盛り上がったのも、竹山さんと坂田明(as,cl)さんの人間としての在り様なのだろうと思うと、胸が少しふるえた。


12月10日(土)  ちょっとしたひとこと

18日の子供ミュージカルの本番に向けての稽古が大詰めを迎えた。今日はともあれ通してみるから、ということで見学に行った。が、つい、声を荒げてしまった自分が情けない。「頼むっから、今の百倍、口を開けてっ!」「明日は特訓するわよっ!」などなど。

稽古場は横浜からさらに地下鉄に乗って約25分くらいだろうか、港南中央駅という所まで行かなければならないから、家からだと通勤時間が片道約2時間かかる。(をを、東京駅から直江津駅まで行くのと同じ時間じゃないの。)はっきり言って、通勤費もばかにならない。報酬料だって法外に安い。

それでも、やる。やるだけの意義があると思っている。

その通勤に横浜駅からは市営地下鉄を利用している。この地下鉄、窓に「全席優先席」というステッカーがでかでかと貼られている。そっか、この車両は全部優先席なのねと思っていたら、否、電車の窓すべてにこのステッカーが貼られていた。

ああ、時代はここまで来ているのね、市営だものね、などと思っていると、車内アナウンスで流れてきたテープからは、路線バスのように、駅名を告げた後にいくつかの会社名などが聞こえてきた。関内駅では横浜著作権協会が流れたのにはちょっと驚いた。

けれど、帰りの車内アナウンスは人の声。ちょっとぼそぼそ話していたので、これでは目の不自由な人には聞き取りにくいに違いないと思ったりしたが、それでも、私はやっぱりテープの声より、人の声の方がなんだかほっとする。

夜遅くまで開いているスーパーで牛乳とパンを買ったら、レジのおじさんが「パンは別の袋に入れましょうね。つぶれているパンほど情けないものはありませんものね。」と笑顔で話しがけてくれた。

スーパーのレジで、こんな風に話しかけられたことに、私は異様に感激してしまった。スーパーで言われることとといえば、買い物の合計の値段と「〇〇カードはお持ちですか?」くらいなものだろう。こんな感覚を久しぶりに感じた気がしたのだと思う。この町からはいわゆる八百屋さんとか魚屋さんが消えていっていて、もうほとんど残っていない。昔はよくお店の人と話を交わしたものだったと思ったりする。

朝のパン屋さんでも、ちょっとお歳を召した従業員が、おばあさんを相手に優しい会話をしていた。なんだかいいなあと感じながら、サンドイッチとコーヒーをほうばったんだったけ。

何故こんなことを書いているかといえば、そのあまりの通勤時間の長さゆえに、今、鎌田實さんが書いた『がんばらない』と『あきらめない』(いずれも集英社)を読み返しているためだろう。電車の中で目と鼻の頭を真っ赤にしながら。


12月18日(日)  変わることができる

横浜・子供”ゆめ”ミュージカル 『ドリーム 2005〜未来へのおくりもの〜』の本番が終わった。会場は横浜市上大岡にある、港南区民文化センター”ひまわりの郷”ホール。

今月、10日、11日と稽古に行った時は、こんな状態で、一週間後にお客様の前でちゃんと披露することができるのだろうかと、少々暗澹たる気持ちになった。

今年8月の半ば過ぎに初顔合わせをしてから、ワークショップを経て、毎週末、さらに11月半ばからは毎週土日、約4ヶ月間稽古を重ねてきてはいたものの、どう考えても稽古時間が足りない。なにせ、セリフ、芝居、動き(どっちから舞台に入ってきて、どこへハケていくか、どこに立つか等々)、ダンスの振付、歌を主体とした音楽などなど、やることや憶えることが山のようにあるミュージカルだ。しかも舞台の上に乗るのは、小学校4年生から高校2年生までの、素人の子供たち。

学校の授業が終わった夕方から、本番と同じ劇場で、14日に衣装合わせ、15日と16日は最初から通しながら場当たり稽古(照明との関係を図りながら、立ち位置などを確認する作業)、17日は朝から通し稽古、夕方からGP(ゲネプロ)。そして18日は午前11時と午後4時に本番。

こうして実際の舞台に立つと、これまでの体育館のような所での稽古とは違う、新しいことが加わる。衣装、照明、装置、音楽はバンドの生演奏など。

このたった5日間で、子供たちは驚異的な吸収力とエネルギーでどんどん変わっていった。
驚いた。感動的ですらあった。
この変わっていくプロセスを目の当たりにして、人間というものは変わることができる、ということを感じ、ほとんど心はうるうるしていた。

それを根底で支えたのは彼らの”意識”だったと思う。舞台に立って、彼らの意識が変わったのだ。ストーリーの中で、自分が置かれている状況や役割を、自らきちんと演じ始める。そこでうたわれる歌の意味や内容を、自分で租借して声にし始める。

大人は絶対にこうはいかない。その意識がなかなか変わらないからだ。つまり、自我に縛られるためだ。

ともあれ、そのエネルギーいっぱいの子供たちに比して、稽古、本番と、それを指導する大人たちの方は疲労の色がありありと浮かんでいたが、子供たちの笑顔と涙で、すべてが救われる気持ちになるから不思議だ。

さらに、今回も去年に引き続き、ベースとチューバをお願いした松永敦さんからは、たくさんの意見をいただき、ずいぶん助けられた。多謝。

その話の中で、管楽器アレンジの話が出た。去年は劇団員が演奏したのだが、今回は音大出身もしくは在学中の人たちが担当した。それでなんとかスケジュールの合間を縫ってアレンジの見直し作業をしたつもりだったのだが、これがまだまだ甘かった。と、反省しきり。

というより、こうした編曲は劇団員のために長年やってきてはいるけれど、技術的にかなり制限される状況の中での作業で、他ならぬ私自身が非常に甘えていたことに、つくづく腹が立ち、情けなく、心底恥ずかしいと思うに至った。

編曲作業というのは、まずはそれぞれの楽器のことを良く知っていなければならないだろう。知らないということを恥とは思わないが、私はそうしたことを自ら学んで来なかった自分を非常に恥ずかしいと思う。いったい何をやってきたのか。

「こうすればもっと良くなった」ということが具体的に見えているので、もし次回があったら、子供たちの歌の稽古にしても、バンド演奏の稽古にしても、もっと善処していきたいと思う。

って、この子供ミュージカルの企画に興味を持たれた方がいらっしゃいましたら、ぜひ自治体、芸術文化振興財団などに働きかけてくださいませ〜。

★ 子供ミュージカルの主旨文はこちらへ


12月26日(月)  意識

人間といふものは意識が変わるだけで、あるいは意識を変えるだけで、ずいぶん変わるものではないかと思うことがいろいろあった一週間だった。

先の子供ミュージカルにおける、舞台に立って変わっていった子供たちもそうだったが、19日に久しぶりに川嶋哲郎(ts)さんとデュオで演奏した時も、彼の姿勢や考え方が変わったことを強く感じた。25日に喜多直毅(vl)さんとデュオで演奏した時も、初めて出会った4年前を顧みると、なんだかそんな風に感じられた。って、私の方も変わったのかもしれないのだけれど、まだ自分のことはよく見えていない気がする。

年末で買い物に出る機会も多かったが、そこで対応に当たったアルバイト店員らしき人たちは、みんなちといただけなかった。

友人やお世話になった人たちから贈られてきた地元のおいしい食べ物や果物などのお礼に、私もできる限り地元のものを贈りたいと思っている。そんな時、私は幼い頃からお世話になっている和菓子を贈ることにしている。甲州街道に信号機ができた!というできごとで、紅白饅頭の注文をたくさん受けたような、この町では老舗の和菓子屋さんだ。

その店のアルバイト店員らしき人たちの対応が非常によろしくなかった。宅急便で3件ほど送ってもらうのに、何故あんなに時間がかかるのか?このお店では私のようなお客さんに、ちょっとしたお茶とお菓子をサービスしてくれるのだけれど、それを三人の人たちがそれぞれ一回、計三回も出してくれた。さすがに三回目は断ったが、要するに客をきちんと見ている人が誰もいない。店内はそれほど混んではいなかったと思うのだけれど。

大型量販店で蛍光灯を買おうとして、いろいろ種類があるので、そこに立っていたお兄ちゃんに質問したら、何ひとつ答えられない。聞くと、彼はここの店員ではなく、某電気メーカーの蛍光灯だけを担当しているらしい。にしても、蛍光灯のスタータ形とそうでないものの違いについてくらい、知っていてもいいだろうに。

大型電気店でオイルヒーターを購入した。私が欲しいと思ったのはドイツ製で、その製品の説明を求めたのに、同じものだからと別のイタリア製のもので商品の説明をするおじさん。この製品のここがちょっと問題ではないかと思う点について質問しても、きちんと説明してくれない。

プロの植木屋さん。細かい所までなかなか気が廻らない様子。こちらがあれこれこうして欲しいと言わないとならない。ここが汚れていたら嫌だろうなと思う所を、最後までちゃんと掃除しないで帰ってしまう。昔はそんなことはなかった気がするんだけどなあ。

アルバイトで働く人の意識をなんとかしろっ、とここで怒ってみてもどうにもならないのだけれど、もうちょっとなんとかならないものかと思う。アルバイトとはいえ、仕事というものに対する意識の低さは、ひいては経営者の意識が問われることになるだろう。

少子高齢化社会ということがよく言われる世の中になってきているが、日本の労働力の低下は、こうした意識の面から見ても、既に下降線をたどり始めているようにさえ感じられる。勝ち組でも下流社会でも株価上昇でもなんでもいいが、何が大切なのかを見極めなければ、この国の体力は衰えていくように思う。要は、人、ではないのか。

そういえば、先の子供ミュージカルを観に来てくれた小学校の教員をやっている友人が言っていたっけ。今年は小学生など、幼い子供たちが殺される事件が起きて、その子供たちをどう守るかということは無論大切。けれど、ニートのことも含めて、将来犯罪を犯さない子供をいかに育てるかも私たちの課題だと。現場の事態は想像よりはるかに深刻らしい。




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