9月
9月4日(日)  時代の力

新宿・DUGの中平穂積さんの写真集『JAZZ GIANTS 1961-2002』(三一書房)を手にして、しばし感動する。圧倒的なリアリティと、これらの写真を撮った中平さんのジャズへの情熱や愛情を深く感じる。

1960年代。'61年にアート・ブレイキー率いるジャズ・メッセンジャーズが来日し、'67年にジョン・コルトレーンが天国に逝った'60年代。日本においては、主として外国のジャズ・ミュージシャンによる、いわゆる”モダン・ジャズ”(ファンキー・ブーム含む)が黄金期を迎えたと聞いている。

日本にだけしかないと言われている、いわゆる”ジャズ喫茶”なるものが出現したのもこの頃のことで、時代は学生運動華やかりし頃と重なる。

実際、中平さんが新宿にDIGを開店したのが'61年。その他、一ノ関・ベイシーのマスターや、亡くなったナルのマスターなどなどが、20歳代半ばで店を出している。団塊の世代に属し、その学生時代に”ダンモ”の影響を色濃く受けた人たちと話をすると、彼らは今でもその頃のことを目をキラキラさせながら語る。その辺りのことも含めて、『新宿DIGDUG物語 中平穂積読本』(三一書房)を読むと、当時の様子を知ることができる。

そんな、ジャズがまさに青春の、同時代の音楽であった頃を生きてきた人たちのことを、私はほんの少しだけ羨ましく感じる。ジャズに対して、私はそうしたリアリティを抱くことはないからだろう。ジャズとの出会いが、私の人生を決定づけた部分があることは否めないと思っているが、安田講堂が放水されている様子を、白黒画面のテレビ映像で、夕飯を食べながら眺めていた記憶しか持たない私には、ジャズもまたそんな風に目に映るところがある。そして、私は自分に問いかける。では、自分はいったい何なのだ?

コルトレーンが死んで、多くの人が「ジャズは死んだ」と言ったらしい。その後もマイルス・デイヴィスが電気楽器を使った、ロックのリズムを導入した云々で、同じようにジャズは多くの人に殺された。いったい何度死ねば気が済むのかは知らないが。

8月末、何年ぶりかに、金井英人(b)さんのグループで演奏した。かなり大掛かりな催しだったが、74歳、現役の大先輩は気合充分だった。”ぴあ”からジャズのライヴハウス情報が消えたこと(って、本当?)に怒り狂い、再び出現させるのだっ、僕にはまだまだやりたいことがたくさんあるのだっ、という姿勢には脱帽する。金井さんの中には、厳然としてジャズは生きている、と感じる。

そのお酒の席でのこと。

南極基地で働いている人たちに届いた手紙の話の中で、家族から生活や子供のことなど、あれこれと様子を書き送ってくるのが普通だけれど、中に一通。

 あなた

とだけ、書かれた手紙があったそうな。

「ジャズ、だろ?」と御大。

わっかるかなあ、わっかんねえだろうなあ。って、古いですねえ。
非常に日本的だと思う部分もあるけれど、私にはなんだかわかる。


9月6日(火)  奏でる

先週、某音楽大学で代講をつとめ、約1時間半枠の授業を立て続けに3クラス受け持った。実践を伴った即興演奏の授業で、ともあれ特別講義あるいはワークショップという感じでやってみた。大学生だけを相手に、このようなことをしたのは初めてのことだった。

集中力だけは失わないように心がけたが、クラシック音楽を学んでいる学生たちと、もう少しきちんと深い話もしたかった。

「あなたたちは何故音を奏でているのか? 何を奏でたいのか?」

この質問は、そのまま私自身にもかえってくる。「聴くことが音楽家の仕事だ」と今でも私は思ってはいるが、このことは上記の問いに対する直接的な答えにはならない。

で、『奏でることの力』(若尾裕 著/春秋社)を読んでみた。示唆を得るところも多々あったが、どうも何かが足りないという感触が残る。いわゆるクラシック音楽、芸術音楽に携わっている人は、そのフィールドから音楽全体を眺めようとしている感じがするからだろうか。それでも若尾氏はクリエイティヴ・ミュージック・フェスティバルを主催したり、音楽療法やサウンド・スケープの分野では第一人者だし、最近は自らも即興演奏をしたりしている方で、相当幅広い音楽の視野は持っている方のようなのだが。というより、私が想像している以上に、クラシック音楽の世界は袋小路に入っているのかもしれない?

演奏者には演奏者の生理がある。やむにやまれぬ、何かがある。
動機、は何?自分をかりたてるものは何?
自己実現、あるいは若尾氏の著書のあとがきから引用すれば、「一種の実存的な欲求」か?

他者に伝えたい。
何故?そこに何の意味があるのだ?いや、そもそも意味などというものを考えることは傲慢にすぎないのではないか?

自由でありたい。自由になりたい。
では、自由とは?

このやっかいな自分とは?
所詮、自分というものから逃れることはできない。

音楽は単なる自己表現の道具でいいのか?
そうではないだろうと言いながら、君は立派に自分を主張していると言われた自分が抱えている矛盾は何なのだろう?否、これは矛盾、なのか?

ぶつぶつぶつぶつぶつ・・・。


9月18日(日)  意外性

演奏というものは、常に、その日の天候、自分の体調や気分、受けてや会場の雰囲気などなど、様々な要因によって、その都度、日々異なる。

そして、即興演奏においては、同じことは繰り返せないというような強迫観念のようなものが何故かつきまとう。そこでちょいと仲間を裏切ってみたり、運転しているハンドルを急に回転してみたり、普段あまりやらないような技法を使ってみたり、などなど、新鮮味や意外性を持ち込もうとする意識が働く。

これは事前に一切何事も決めない即興演奏だろうが、ごく簡単なモティーフが提示されただけのものや、美しくアレンジされた音符が書かれた譜面といった、何か”曲”を用いた即興演奏にせよ、同じようなことが言える。

先週、9日は太黒山という完全即興演奏ユニットで、10日と11日、及び16日は黒田京子トリオという、きわめて即興性に富んだユニットで演奏した。太黒山とトリオの即興演奏はその質が異なるが、いずれもそこに自分で自分を立たせる強い精神性と緊張感、やわらかい身体感覚(臨機応変に対応できる耳と身体)のようなものが求められる。あるいは音を出す動機が問われる。
少なくともいつもと同じようにカウントを出して、「枯葉」をやりましょ、という風にはいかない。その枯葉だって、無論、アドリブの内容は昨日と今日とでは違うわけだけれど、この両ユニットでの演奏は今のところそうしたものと比較することはできない。

こうした状態を継続していくのは実はなかなかたいへんなことで、'80年代後半に立ち上げたORT(オルト)は結局約2年半弱('87年秋頃から'90年末)しか続かなかった。クリスマスの時にかぶるような三角帽子を任意に回して即興演奏をするといったようなことを、以前の新宿・ピットイン朝の部でやったりしていたことを、今でも楽しく思い出すけれど。もちろん、メンバーの音楽性や即興性は上記のユニットとは大きく異なるのだが。

13日からは11月のトランクシアター公演の稽古が始まる。今回は21人も出演する大掛かりなもので、私が書いた譜面もものすごい枚数になった。
楽器を手にして間もない人もいるのだが、彼らはどうしても人前で楽器を演奏してみたいらしいからたいへんだ。カスタネットやトライアングルを叩くよりも、管楽器を吹く方が格好良いと感じているようで、それは自身の顕示欲を満たすだけだろうと話してしまう。パーカッションというものがどれくらい大切で、一音で音楽を壊すこともあることがわからないらしい。
ともかく、私は”質”を問うから、と最初に言う。そして歌については、どう歌いたいか、どう表現したいかを、自分で考えるように話す。

かつて、この劇団においても、私は積極的に即興性を求め、それを持ち込む仕掛けをたくさん提案していた。初めて関わった頃、段取りやきっかけ、台本、演出などによってがんじがらめにされている状態にまったくなじめなかった。
そのうち、役者にも即興性を具えている人とそうでない人がいること、演劇に即興性を生かすことはきわめて不安定な要素を持ち込むことになり、役者はひどく不安になったり舞い上がったりするらしいことがわかってきた。
また、一つのセリフを言う場合、イントネーションやニュアンス、気持ちの在り様などで、様々な表現が生まれることを学んだのは、音楽に携わっている私の表現の幅を広げたところがあると思っている。

そして演劇において、いわゆるアドリブが許されているような箇所で起きる意外性(昨日とセリフが違うじゃん等)というものは、時としてその公演のノリやテンションをちょっと変えたりすることもある。それはほんのちょっとしたことだったりするのだけれど。

しかしながら、音楽でも演劇でも、この意外性がハズれることもままある。当然、その場はシラケる。「およびでない、こりゃまた失礼いたしました〜」状態である。意図し過ぎるとこのような事態に陥るから、そのサジ加減やタイミングがちと難しいし、こういうところに即興のセンスのようなものが現れる。

かくのごとく、非常にトリビアルなことでも、意外性はその時、その場の流れを変えることがあるのは音楽も同じかと。でも身体や心が疲れていると、指も動かないが、想像力や機転はもっと働かない。かくて、体調を整える、というところに話は落ち着いていく。加齢と闘っている自分に言い聞かせる言葉なり。それにしても眼に出たのはなかなかつらい。


9月19日(月)〜9月30日(金)  北海道ツアー・その1

19日(月)

私はバン・マスのお許しを得て、渋谷・文化村オーチャードホールでのコンサートで演奏。でも、バカボン鈴木(b)さんが運転する”バカボン号”は、坂田明(as,cl)さんと共に既に東京を出発して、陸路をひたすら青森・五所川原に向かっている。

ということで、坂田明mii(みい)結成以来、北海道を巡るのは3回目、最長期間、約3週間の長いツアーの始まり、始まり〜。

20日(火)

午前中の飛行機で青森空港に向かい、そこからバスで五所川原へ向かう。もうそろそろ冷えているかなあと想っていたけれど、半袖でいられる気候。午後1時過ぎにホテルに着いて連絡を入れると、既に五所川原入りしている2人は午前中から”ねぶた”博物館を見学したところとのこと。無事合流。

夜、ライヴハウス・ラブポーションで演奏。終演後、店のオーナーが”スコップ三味線”なるものを披露してくださる。某演歌歌手の歌とその三味線演奏に合わせて、裏返しにしたスコップを叩くというもの。珍芸なり。

21日(水)

東京都の排ガス規制でガソリン・エンジンに載せ替えることになって、生まれ変わるはずだったバカボン号は、英国の夏休みにひっかかったためか、リニューアルの姿で現れることなく、今回のツアーはほぼ同型の代車で、と相成り候。その色は白く、運転席側のサイドミラーの辺りに”煙突”が付いている。なんでも水の中にもぐっても酸素を供給できる設備ということらしい。恐るべし、バカボン号。をっ、それによく見ればカーナビが付いているではないの。と言うと、「そんなもんは使わん」とお二人。

ということで、いよいよ北海道入り。まずは福島町へ。

青森港から青函フェリーに乗って、函館までゆらりゆらり。函館山が見えてきて、「をを、北海道じゃのう」と感嘆。みんなでラーメンを食べてから、晴れていれば対岸の青森県が見えるという、北海道の最南端に近い福島町へ向かう。ここでの演奏は最初の北海道ツアーの時に訪れているので2回目になる。

夕刻より、地元の中高生ブラスバンドとリハーサル。前回も同じように彼らと共演したが、今回は3曲演奏することになっている。「イン・ザムード」「Aトレイン」「追憶」の3曲だ。坂田さんが吹く「追憶」はまず普段聞くことはできないだろう。

リハーサル終了後、夕飯の前にひとっ風呂。宿となるペンションの近くにある温泉に入りに行く。東京の銭湯と同じ値段で温泉に入れるのだから羨ましい。捕り立てをさばいてきたというイカ・ソーメンがすこぶる美味。甘い。

22日(木)

夜のコンサート会場は体育館。そこにはこの福島町出身の横綱、千代の富士の大きな写真が掲げられている。その下に見えるのは、”坂田明miiとSwing Girls”と題された看板だ。ををっ、と思い、思わず写真に収める。

中高生のみんなは幾分緊張気味の様子。リハーサルで鼻血を出した子もいたようだったけれど、それもこれもみんないい思い出になってくれればいいなあと思う。プロになる、ならないなどはどうでもいい。音楽に関わることで、彼らの人生や考え方がより豊かになっていくことを願うのみ。

それにしても女性が多い。ここ何年か、町の鼓笛隊や、演劇で公募をして集まってくる子供たちなども、圧倒的に女の子の方が多い。

ただ、聞くところによると、今回参加した3校のうち、1校は3学年合わせても40名足らずだそうで、男子は全員野球部、女子は全員ブラバンの部活に参加しているそうだ。過疎化の進む町で、それでも子供たちが元気に楽器を鳴らしているのを聞くと、よーし、がんばれ〜と思う。私の横に配置された主としてトランペットの人たちに向かって、演奏中高らかにトランペットが鳴り響く箇所で、思わず握りこぶしを挙げてしまった手に力が入る。

別に大上段に構えて音楽の社会的意義などを言うつもりは毛頭ない。けれど、こうしていわゆるプロのミュージシャンと子供たちが関わる時間を持つことは、かつ、こうした地域で地元の文化を作っていこう、支えていこうと努力している人たちと何かをいっしょにやるということは、大切なことだと感じた。

23日(金)

福島町を離れて、函館、国縫を経て室蘭へ移動。

地図で見ると、海を渡れれば近いのに、ぐる〜っと陸路を廻らなければならないから、かなり時間がかかる。今晩は現地に着いて、そのまま室蘭にあるヤマハ系列の楽器店にある小さなホールで演奏。

ピアノはフルコンだったが、CDを入れる器械が付けられていた。ピアノの響板の方から見ると配線だらけで、私にはなんだかむごい姿のように感じられた。今年納品されたばかりのもののようで、黒鍵の手前方が異様に深く削られていて、指先が違和感を覚える。

主催者の方は約30年前くらいから様々なコンサートを手掛けて来ている方と聞いた。このコンサートで101回目になるそうだ。すごい。

24日(土)

室蘭から札幌への移動日。

泊まった所が登別に近かったので、登別温泉にある”くま牧場”を見学。ケーブルカーに乗って山頂へ行く眺めは抜群。されど、どうもまだあまり紅葉は始まっていない気配。たくさんいた熊たちはなにせでっかい。そしてその熊たちは見物客が投げ入れるお菓子を手で要求している。また、そこにはアイヌの人たちと熊の関わりを展示した建物があり、アイヌ文化を紹介するエリアも併設されていた。心中、少し複雑になる。

結局、バカボン号は高速道路は使わず、下道を行く。らば、途中の”道の駅”で、なんとヤヒロトモヒロ(per)さんたち一行とばったり出会う。彼らもまた北海道をツアー中ということで、偶然の出会いに笑顔で挨拶。「なんか見たことがあるような車と頭の形、がいる」がきっかけ。

かくてバカボン号は支笏湖の東側を走り、湖で美しく沈んでいく夕陽を浴びてから札幌入り。なんて都会なんじゃ〜。夕飯はススキノのど真ん中で。

25日(日)

朝食をゆっくりとり、遅い昼食時にアールグレイを飲みながら、ホテル最上階で読書。『魔女とカルトのドイツ史』(浜本隆志 著/講談社現代新書)。いわゆるカルト、あるいは集団心理のことが書かれた本で、20世紀のヒットラーは言うまでもないが、それ以前にもドイツには様々なカルト集団などがあったことが、歴史的に知ることができる本。

かくて、夕方までホテルから一歩も出ず。出発時、ピカピカに剃ってハゲ頭になっていたバカボン君の頭を思わずなでさせてもらう。

夜はライヴハウス・くう、で演奏。この店には開店してまもなくの頃から来ているのだが、とにかく続いていることをうれしく思う。マスター夫妻との久しぶりの再会に握手。

主催してくださったのは、焼き鳥屋さんを営んでいる店のオーナー。故川端民雄(b)さんは高校時代の同級生だったそうだ。小さな店で、少々床が傾き加減の所もあるが、壁などの至る所にジャズ・ミュージシャンのサインが書かれている。ほうれん草の入った緑色の胡椒がよく効いたつくねが看板商品らしい。料理はどれも美味。そして、オーナーはとてもよく気のつく、温かい方だ。

26日(月)

札幌から旭川へ移動。

グランドホテルでの演奏。ビュッフェ形式だが、ディナー付きで1万円のコンサートなり。このホテルではこれまでもジャズのライヴを頻繁にやって来ているらしいが、満員御礼、売り切れ御免、になったのは初めてのことらしい。

ここのピアノには消音機が付いていたが、機能してはいなかった。ピアノ・メーカーの思惑もあるのだろうが、自動演奏とか、CDを入れる器械とか、どうしてなんやかんやとピアノに付けて売りたがるのだろう。

終演後、坂田さんとバカボン君は町へ飲みにでかけたが、私はリタイア。ホテル内にあるスパとやらで身体を温めて早めに就寝。

27日(火)

旭川から深川へ移動。晴天。暑い。

今やその集客力で全国1〜2位を争うという”旭山動物園”へ行く。平日にもかかわらず、ものすごい人出だ。噂にたがわず、その動物の見せ方が素晴らしい。筒の中を泳ぐ大きなあざらし。水槽を見ている感じで、その動きを目の前に見ることができるでーっかい白熊。よちよち歩く可愛いペンギン。などなど、堪能する。

深川ではやはり以前泊まったことがあるコテージに宿泊。洗濯機があることが判明し、全員洗濯モードに突入。ゆっくりお風呂にも入り、夕飯時には明日誕生日を迎えるバカボン君に祝杯を挙げる。当然、ケーキに蝋燭で、バカボン君がふーっ。パチパチパチ。

28日(水)

今日も晴天。外に干した洗濯物の群れに、赤とんぼがとまっている。

今日は生きがいセンターの中にあるホールで演奏。音響さんが入ってくれていたが、私たちはほとんどPAを使わず。このドラム・レスのトリオだと、先の体育館だろうがなんだろうが、よっぽどの状態でない限り、モニターは撤去と相成る。聴衆へのスピーカーも極力押さえた感じで、ほとんど生音で演奏している。これまでのツアーなどでもずっとそんな感じだ。

今晩は前座として地元のユニットが演奏。彼らはまだ20歳代前半で若く、打ち上げでは3人ともあれこれ多少説教臭い話をしてしまう。何も言われないより、言われた方が脈はあると考えるべきだろう。

ここ、深川でのコンサートを主催してくださった方たちは、地元の町起こしを積極的にやっている人たちの集まりだそうだ。みんなとても温かい。

29日(木)

深川から、とうとう稚内へ移動。日本最北端の地での演奏になる。今日も素晴らしい晴天。

途中、音威子府にある”砂澤ビッキ記念館”に立ち寄る。彼はアイヌ人で、木彫りなどの彫刻で有名な人だ。廃校になった小学校を使った建物に展示されていた作品は、どれも非常に素晴らしかった。何か不思議な力を感じる。

一通り見て、喫茶店になっている所でコーヒーを飲む。そこはかつて札幌にあったという”いないないばあ”というバーを再現したもので、その店にあったビッキさんの様々な彫刻がそのまま置かれている。それがまた抜群にイカしている。

あとでパンフレットなどを読んで知ったことだが、音威子府に移住してきたビッキさんは、それはそれは相当な苦労をしたようだ。彼がアイヌ人だったからだ。また、野外に大きな木のトーテムポールなどを残しているのだが、それがやがて時代と共に朽ちてしまっても、彼はそれでいいのだ、そのまま放っておいていいのだ、と言い残しているそうだ。

ビッキ記念館をあとにして、しばらく川沿いを走っていると、異臭がする。原因はしかとわからなかったけれど、おそらく川を上ってきている鮭の屍骸だろうと想像される。それともなんだったのだろう。

かくて、寄り道はしたものの、ほぼ半日かけて稚内に到着。わあーい。道路の道案内の看板は日本語とロシア語と併記されている。なんとなく空気が違うと感じる。そして、ほんとにさいはての地にたどり着いたような気分になる。

夜は蟹、雲丹など、新鮮な海の幸を満喫。その後、ライヴをやっているという店に行き、たまたま映っていたイーグルスのDVDに見入ってしまう。なんだかめちゃくちゃ格好いい。夜は少ししょっぱい温泉に入って、早めに就寝。

30日(金)

いい天気。会場は稚内海員会館にある大ホール。あまりに暑くて窓を開けっ放しにしてもらってリハーサルをする。本番も半袖で演奏したが、こんなに暑いとは想像だにしていなかった。

今夜もご馳走。ホッケのつみれ汁を初めていただいた。他に毛蟹や、宗谷岬の漁師さんが持ってきてくださったという3cmはあろうかという肉厚の帆立などなど。美味〜。初めてコンサートを主催するという方が精一杯もてなしてくださった。この辺りから私たちは太り始めたかあ?二次会では当地でライヴをやっているというもう一件の方の店で。深夜から雨。




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