吉祥寺(瀬戸市上半田川町) 瀬戸MENU

@ 舟形高51p 一 面ニ臂 立像
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舟形高70p 一 面ニ臂 立像

      
   【左】@丸顔の馬頭観音          【右】A馬頭観音だと…

   ワインディングの先に
国道248号線を上半田川口の信号交差点で東に折れると県道208号線。最初こそ下りがあるものの,後はほぼフラットなワインディングが蛇ヶ洞川と交差しながら続きます。とはいえここは生活道路。先行車(“ISEKI”のロゴが入った軽トラックがのんびりと…)や対向車はけっこうあるし,集落に入れば歩行者も…気持ち良く走れそうな屈曲路ですが,ここはぐっと我慢して2qほど先の吉祥寺を探すことにしました。蛇ヶ洞川にかかる橋の手前,飲料水の自動販売機が並んだ店の向こうを左折すると,「吉祥寺」と刻まれた石碑が直ぐに目にとまります。本堂と庫裏だけの簡素な寺院でした。

   墓石・地蔵尊に混ざって
本堂の前を通り,その西側にある屋外便所との間を抜け,水路にかかる橋…といっても丸太やトラックの荷台のあおり板を並べた粗末なものですが…を渡ると,古い墓石や石像を山肌におおむね三角形に並べたところの前に出ます(下の写真)。多くは墓碑ですが,地蔵菩薩の石像も少なからず混ざり,道祖神や釈迦三尊像もありました。その中に,明らかに馬頭観音と分るものが1体ありました。前から2列目の右の方で,道祖神や三尊像の近くになります。

   明治二十四年
上左の写真のように,地蔵尊と墓石のむこうにかろうじて見えています。舟形の中に比較的大きめに刻まれた尊像は,全体に浅い造り出しです。馬頭は宝冠のない丸い頭に直に張り付いたように,薄く表されていますが,鼻筋や耳ははっきりと見分けられます。逆に仏様の顔は菌類に覆われていて,表情は全くといっていいほど分りません。もともと浅めの彫りの上,転倒したのか鼻が欠けてしまっているためもあるのでしょう。雰囲気としては優しげにも思えるのですが…。両側の耳はかろうじて見分けることができます。合掌した手はやや大きめで,短めの腕(二の腕を水平にしてしまうせいでしょう)がなで肩の身体に続いています。衣の造形にはこれたいった特徴は見られません。舟形の向かって右には「右 あかず道」,左には「左 半田川道」と刻まれています。赤津と半田川への分岐点,いったいどこなのでしょう。

  これも…馬頭観音でしょうか?
もう一体,最前列の中央やや右の石仏も,なにやら頭上に頂いています。宝冠から立方体の角が飛び出しているように見えるこの石仏も,馬頭観音かもしれません。そう思って見ると,舟形の表面に耳が刻まれているように見えてきてしまいます(笑)。最初はこちらこそ馬頭観音!と思ったのですが,見れば見るほど判断に迷います…(^-^; 70pというやや大きめな舟形の中に小さめに尊像が表されています。非常に立体的な造形で,細部まではっきりと分ります。切れ長の目が釣りあがり,唇はぐっと硬く結ばれています。ややうつむき加減ですが,厳しさがひしひしと伝わってきます。残念ながら,こちらも鼻は欠損してしまっています。優しいお顔の多い一 面ニ臂立像で,これだけ厳しい表情は珍しいですね。上の馬頭観音に較べて合掌した手は小さめで,どちらかといえばいかり肩です。衣の彫り方はやや簡素ですが,裾が大きく広がり,非常に安定感のある造形です。

  天保三年の建立
こちらの像も,銘ははっきりと読み取れました。向って右側には「天保三年六月六日」,左には「上半田川村喜■■」とあります。天保3年は1832年にあたります。すわ,この厳しい表情は飢饉を退散させるようにとの願いを込めたものか…と思ったのですが,飢饉が始まったのはその翌年の天保4年(1833)からで,飢饉のピークが同7年とか。う〜ん,早とちりでした。難にあった村の馬借従事者,旅人や馬を供養したものかもしれませんね。(2004/10/17取材)

    
【左】本堂西側の墓石,石仏等の集積