長谷山観音堂(瀬戸市長谷口町) 瀬戸MENU

@舟形高48cm 一面二臂 立像
A舟形高42cm 一面二臂 立像
B舟形高45cm 一面二臂 立像
C舟形高46cm 一面二臂 立像

      
  馬頭観音@        馬頭観音A        馬頭観音B        馬頭観音C

   旧三州街道にそって
陶器の里,赤津町の信号交差点から県道33号(瀬戸設楽線=旧三州街道)を東に,つまり雲興寺の方に向かって500mほど進むと,道路の左側に「長谷山観音堂」と記した石標が立っています。近くには「東海自然歩道迂回路」の標識もありました。ここから100mほど北へ入ったところで右手をみると,1mを超える地蔵が立ち,「十一面観音菩薩」と書いたのぼりがずらりと並んでいます。そう,観音堂への登り口です。

   石段の両側に
丸太で補強された坂道をあがってゆくと,左側に山門があります。この山門には頭でっかちで派手に彩色された,ユーモラスな仁王像が納められていました。山門をくぐると,十一面観世音菩薩像を安置した観音堂に至る急な石段が正面にあります。この石段の両側には右の図のように6体の石仏が並んでいました。馬頭観音が4体,聖観音と地蔵菩薩が1体ずつです。
種類も年代もばらばらなのは,旧三州街道沿いにあったものを移してきたからでしょう。観音堂の境内にあるありがたさか,すべての石仏に花が手向けられていました。

   嘉永から昭和まで
それでは馬頭観音を1体ずつ見ていきましょう。石段の左側の一番上にある@はとがった船形光背が特徴です。像の向かって右側には「明治四十二年正月」,左側には「村中安全」の記銘が見えます。簡素な造作で,衣のひだなども簡単に表現されています。眠たげな表情をしているのがわかるでしょうか。
Aは右側に「村中安全」,左側に「嘉永九年申年」の記銘が彫られています。嘉永9年は1856年。幕末のころですが,瀬戸や尾張旭の石仏の中では比較的古い部類に属します。残念なことに,舟形の頂部と像の頭部が破損してしまっています。馬頭もほとんど失われ,かろうじて膨らみのあとが確認できるだけです。
Bは新しいもので右側に「昭和九年」,左側に「十月廿八日」と彫られています。典型的な菩薩面です。新しいだけに保存もよく,また非常にバランスの取れた姿かたちをしています。技術や道具の発達のせいか,細かな部分まできちんと作りこまれているのが見て取れます。記銘の文字の書体を他と比べると,違いは一目瞭然でしょう。
Cの記銘は右側が「明治年二月」左側が「村中安全」ですが,風化が激しく,特に年号の部分ははっきり読み取れませんでした。これも舟形の頂部が欠けてしまっています。顔がとても大きく,ユーモラスな感じがする馬頭観音です。これらの馬頭観音はすべて一面二臂の立像です。尾張旭と長久手には三面八臂の坐像が多く見られるのですが,瀬戸では飯田街道,三州街道ともに立像が多いようです。

   文政年間の聖観音
馬頭観音ではありませんが,右側の一番上にあるのは聖観音でしょう。底部が損傷して自立できないのか,コンクリートブロックで左右から支えられるという痛々しい姿です。頭部の宝髻(ほうけい)や両手の施無畏印,与願印から聖観音であることがわかります。この像も風化が激しいのですが,向かって右側に「文政」の文字が見られます。文政年間は1818年から1830年までの江戸時代後期にあたります。痛んでいるとはいえ,馬頭観音とは違ったいちだんと穏やかな顔がいかにも観音菩薩らしく印象的です。街道沿いの石仏の年代を知る上で参考になるかと,掲載してみました。


聖観音立像 舟形高41cm