平城京遷都 女帝・皇后と「ヤマトの時代」 千田実著
藤原京から平城京に遷都して、平成二十二年(2010)で千三百年になる。
「天皇」を最高主権者として律令による中央集権国家を構築したのもこの時代で、平安時代中ごろには、律令国家がゆるみはじめた。
聖治中枢の舞台である宮都という計画都市も平城京で完成する。その後の長岡京・平安京は平城京の形をコピーとして踏襲したにすぎない。
女帝も「ヤマトの時代に」が編み出した政治手法であった。江戸時代の二人の女帝を除いて、女帝は「ヤマトの時代」にしか即位していない。ただ、「ヤマトの時代の」の前半における推古・斉明(皇極)・持統の三女帝と、後半の元明・元正・称徳(孝謙)の三女帝はその位置づけが異なる。前半の三女帝は、もともと皇后の立場で、天皇の側にあって政治の情勢を知ることができた。であるから、皇后と、みずから天皇の位にあった時を含めると、かなり長期にわたって政治を直接・間接に関与した。後半の三女帝のうち、元明と元正は、聖武天皇を実現するための奉仕者のような立場であり、称徳は、聖武に男子の嫡子がいなかったために、即位したという事情がある。そして女帝の地位につかなかったが、光明皇后は聖武天皇をある点において先導し、聖武なき後は、天皇と同様の権力の座にあろうとした。これら六人の女帝と光明皇后に共通することは、政権の危機を回避するために即位し、あるいは積極的に天皇を
なぜ藤原京から平城京に遷都したか。遷都の理由に藤原京という都市の環境悪化をあげる説があるが、古代の遷都は、都市環境の変化といった非政治的条件でなされるものではない。この時の権力は藤原不比等の手中にあった。孫の
平城京は、藤原不比等が孫の
和辻哲郎はかつて『日本精神史研究』において万葉集の歌いぶりと仏像などの仏教美術の変化が相関すると述べた。前期万葉歌の純粋、熱烈な音調と緊張した心持ちが薬師寺聖観音や法隆寺壁画にも見られるという。そして天平時代に至っては、昇り切ろうする心の強烈な緊張は見られないが、その前半には、いかにも絶頂らしい感情の満潮、豊満な落ちつきと欠くるところのない調和とが見られると指摘した。それは、政治の振動とも共振している。聖武の退位に歩調を合わすように平城京の活力は衰退していく。聖武の時代をすぎると「ヤマトの時代」は、かげりをみせていく。