藤原京よみがえる日本最初の都城 木下正史著
持統八年(694)十二月、都は飛鳥の地から、藤原の地へと遷る。中国の都に学んだ日本最初の都城・藤原京の誕生である。それは、和銅三年(710)三月の平城京遷都まで、持統・文武・元明の三代の天皇に引き継がれた16年足らずの短命な都だった。
藤原京は藤原宮を中心に置き、東西10坊、南北10条に区分する5.3キロ四方の京域を占めていた。 藤原宮は1辺1キロ四方の正方形の範囲。 宮城の周囲には大垣(掘立柱塀)がめぐらされていた。 宮城門は四周の各辺に各3ヶ所ずつ計12門が、大路に面して開いていた。 内裏 天皇が住むところ。発掘があまり進んでおらず、実態不明。 大極殿 朝堂の正殿で、国家の政治・儀式を執行する宮殿の正殿とのしての性格を確立していく。大極殿が即位壇場施設としての機能が定着した。 朝堂院 朝堂院は、本来その中央の広場である「朝庭」に意味があった。有位の官人たちは毎朝、日の出とともに朝参するのが原則で、宮城へ出仕すると、まず朝庭で天皇の前に列立して朝礼を行った後に、朝堂に入って政務を執った。天武十四年(685)、身分制の基となる冠位四十八階制が制定され、さらに持統四年(690)に飛鳥浄御原令が施行されると、古くからの氏族重視の秩序は後退して、代わって位階による新しい官僚制秩序を重視する方式へ転換する。それとともに従来のように口頭による命令指示、連絡でなく、文章を起草し、それによって命令を伝達し事務連絡を行うようになる。それに従って、朝堂院における政治儀式は形式化が進む。時代が下るに従って縮小化の一途をたどるのは、背景にこのような宮殿での政治・行政方式の変質があった。 官衙(かんが) 役所。藤原宮の官衙が建物数が少なく、長く均質的な建物群を直線的に連ねて大雑把な配置構成をとっている。官衙の建物構造や配置に、秩序を明確に示す意識がまだ不徹底であったためではないか。長い均質的な建物の中を適宜仕切って各階層の役人が執務にあたり、また複数の官司で使い分けする場合もあったのかもしれない。 |