熊野(ゆや)

【解題】

 山田流の曲中、葵上・小督・長恨歌とともに、四つ物の一つとされる大曲。歌詞は謡曲『熊野』の章句の後半をそのまま使ったもの。
 謡曲『熊野』は『平家物語』巻第十『海道下り』に取材したもの。平の宗盛の愛妾熊野が、故郷の遠江に残した老母の安否を案ずる歌を詠み、東国に下ることを許されたエピソードを語るものである。

【解析】

                                         ┌────────┐
○清水寺(せいすいじ)の鐘の声 、祇園精舎    |を表し、諸行無常   の|声 や|(あ)ら|ん|
 
清水寺       の鐘の音は、祇園精舎の鐘の音|を表し、諸行無常を教える|音で | あ ろ|う|か、

      |地主(ぢしゆ)権現の  花の色 、       |沙羅双樹(さらさうじゆ)   の|
 
清水寺境内の|地主     権現に咲く花の色は、釈迦入滅の際に|沙羅双樹の花が白く変わったという|

    理(ことわり)なり  。      生者必滅(しやうじやひつめつ)の |  世の|慣らひ 、
 
無常の原理   |を表している。そのように、生ある者は必ず滅びるという    |この世の|慣わしの、

○げ に| 例(ためし)ある|よそほひ|         。仏 も元は      |捨てし 世 の、
 
本当に|先例    のある| 有様 |と観じるべきである。仏陀も元は王子だったが|    世 を|
                                         |捨てて、生涯の|

○半(なか)ばは|雲に   上 見えぬ 、  | 鷲(わし)のお山   | の |名を   |残す寺は
 半分    は|
 中腹  からは|雲に隠れて上が見えない|  |霊鷲山(りょうじゅせん)|にこもった。
                    |その| 鷲    のお山   |という|名を日本に|残す寺は

                            ┌────────┐

桂の橋柱   。   |立ち出でて|峰の雲 、花  |や|あらぬ|        |初桜の  、
 桂 橋寺だが 、今は洪水で流され、                   |
   橋柱だけが|   |立っている、                  |
        |そこを|立ち出でて|見る  |             ↓
                  |峰の雲は、花では| | ない |だろうか、いや、  |初桜である。
                                         |その|初桜の咲く|

祇園林、下河原  、南を遥かに眺むれば、  大   悲    |擁護(おうご)の|薄霞     、
 祇園林や下河原から、南を遥かに眺めると、仏の大きな慈悲が衆生を| 護るように  |薄霞が立ち込め、

○熊野権現の    移り|ます 、み名も同じ|今熊野(いまぐまの)|  。   |稲荷の山の薄紅葉の、
 
熊野権現が紀州から遷座|された、御名も同じ|今熊野神社    が|ある。伏見の|稲荷 山の薄紅葉が、

○ 青かりし                                  |葉の   秋|
 
「青かりし|より思ひ初めてき」と歌を詠みかけられた和泉式部の逸話があるが、その|
葉の美しい秋|

○     |また|花の   春は|きよみず|の     、 ただ |  頼 め |

 も見事だが、また|花の美しい春は| 清水寺 |の千手観音が、ひたすら|仏に帰依せよ|と啓示されたように、

○  |     |頼もしき、  |春も|   |千々(ちぢ)の   |  |花盛り   。
 その|
仏の教えの|頼もしい、また、
   |花の色 の|見ごたえのある|春も|清水の|千手観音の手のように|  |
                        |千差万別  の   |花の|花盛りである。

○山の名の、音は      |あ ら し|の     |花の雪    、     |深き情を|
              |あ ら じ|        《雪》         《深き》
 
山の名が、音羽山といっても|
      音は      |ないだろう|が、
              
|  嵐  |のように散る|花が雪のように|     |深い  |
                                   |老母を思う|深い情を|


      ┌────────────┐
人   |知る     |   ↓
 
宗盛様は| |分かってくれる|だろうか。

熊野「わらは| |お酌(しゃく)に参り| 候ふ |べし。」
   
「 私 |は|お酌     に参り|ましょ| う 。」

宗盛「いかに熊野、ひとさし|舞ひ| 侯へ 。」
   
「どうだ熊野、 一 番 |舞い|なさい。」

          ┌────────────┐
○深き情を|人  |や|知る     |   ↓
 
深い情を|宗盛様|は|分かってくれる|だろうか。

熊野「なうなう|にわかに村雨の|し   て|花を散らし候ふ は|いかに|      。」
   
「もしもし| 急 に村雨が|降ってきて|花を散らしますのは|どう |お思いですか。」

宗盛「 げ  に|ただいまの|村雨に、花の散り|候ふ|よ 。」
   
「ほんとうに|ただいまの|村雨に、花が散り|ます|ねえ。」

熊野「あら|心なの村雨やな 。春雨の、降る は   涙|   か、降るは涙か
   
「ああ|心ない村雨だなあ。春雨が 降るのは人々の涙|だろうか、

                 ┌───────┐
○桜花 、散る を惜しまぬ人| |や|ある               。」
 
桜花が、散るのを惜しまぬ人|が| |いる|だろうか、いや、いないのだから。」

宗盛「由(よし)ありげなる言葉の種」          取り上げ 見れば、
                《種》         《取り》
   
「訳   のありそうな言葉の種」と宗盛が熊野の色紙を取り上げてみると、

     ┌───────┐
熊野「いかに|せ| ん|、都の春も|  惜しけれ|ど、
   「どう |し|よう|か、都の春も|名残惜しい |が、

                  ┌────────┐
○  馴れし|あづま|の| 花 | |や|散る| らん |
 
住み慣れた| 東国 |の|老母|が| |  | 今にも |↓
                   |死ぬ|のだろう|か。」

宗盛「 げ に|道理 な り、あはれ な り、はやはや|暇(いとま)取らするぞ、東(あづま)に|下り侯へ 」
   
「本当に|道理である、気の毒である、早々に |暇    を取らせるぞ、東国    に|下りなさい」

熊野「なに    、お暇|     |と|  候  ふ  |や。」
   
「なんですって、お暇|をくださる|と|おっしゃるのです|か。」

宗盛「なかなかのこと 、疾(と)く疾く |  |下り|給ふ|べし。」
   
「もちろんのことだ、 早    々 に|東に|  |お |
                        |下り| なさい 。」

熊野「あら|嬉し |  や|尊や  な。これ    観音 のご利生(りしょう)なり。
   
「ああ|嬉しい|ことよ|尊いことよ。これは清水の観音様のご利益(りやく)  だ 。

○これまで な り|や|嬉しや|な 、これまでなりや嬉しやな。かく て|都にお供せ|   ば、
 
これでお暇である|な|嬉しい|なあ、                      |もし  |
                              |このまま|都にお供し|たならば、


     ┌────────────┐
○またも|や|御意の変はる| べき |ただこのままにお暇   」と、ゆふ    つけの|鳥が鳴く、
 
またも| |お心が変わる|だろう|か、すぐこのままにお暇しよう」と、言うやいなや、
                                  |木綿(ゆう)付けの|鳥が鳴く、

○あづま路  さして行く 道 の、やがて| 休らふ 逢坂の、関の|戸  ざし|も      |心して、
 
 東の国を目指して行く途中の、やがて|一休みする逢坂の、関の|戸の戸締り|も熊野の孝心に|愛でて、

  あけ|行く  |   跡の    山 |見えて、
  |花を|見捨つる  |雁がね|の   、
   
開けてもらい 、
 夜が明け|行く中を|
     |行く  |熊野の後ろには|逢坂山が|見えて、都の|花を|見捨てて行く|雁  |の行く先、

熊野「それは|  |越 路、
   
「それは|北の|越の国、

○われはまた、東(あづま)に帰る名残り   |   |かな 、東に帰る名残りかな」
 
私 はまた、あずまの国 に帰る名残り惜しさ|である| なあ、         」

【背景】

 稲荷の山の薄紅葉

 和泉式部が伏見稲荷に参詣したとき、時雨が降ってきた。たまたま道で出会った牛飼い童が、襖(あお。綿入
れの衣で、庶民の冬着)を脱いで差し出したのを、式部が着て、うれしいことであると礼を言って別れたが、後
にこの牛飼い童が式部の所に来たので、どうしたのかと尋ねた所、童が次のように歌を詠んだ。


○時雨 |する|稲荷の山のもみぢ 葉は|      |あお  かり|し| |より
            《もみぢ》
 時雨が|降る|稲荷の山のもみじの葉は、    色が| 青   かっ|た|時|から
                   |あなたが私の| 襖 を|借り|た|時|から

○      |思ひ初め |   |  き
         染め
 私はあなたを|  初めて|
       |思い染め |てしまい|ました。
 (袋草子・上巻・希代歌・賎夫の歌)

 ただ頼め

 男との仲で悩み、こんなに頼れる相手が得られないなら自殺したいと訴えた女に、清水の
観音が啓示した歌として、

○ただ      |頼め  |しめぢが原の|させも草|
 
ただひたすら私に|帰依せよ|しめじが原の|させも草|よ
                     |一切衆生|よ


○わが  世の中に|あら  |   ん|かぎりは
 
私がこの世の中に|存在する(であろう)かぎりは。(袋草子・上巻・希代歌・清水寺観音様の御歌)

 
春雨の降るは涙か

○春雨のる は   涙   桜花 |散る を惜しま ぬ 人|し| なけれ|  ば
 
春雨が降るのは人々の涙だろうか桜花が|散るのを惜しまない人|は|いない |のだから。

                            
(古今集・巻第二・春下・88・大友黒主)

 逢坂の、関の戸ざしも心して

○夜     をこめて|鳥の 空音 |  は|はかるとも| に |    |  逢坂の関|     は
 
夜であることを隠して|鶏の鳴きまね|をして|だましても、決して|あなたと|  逢う  、
                                |    |その逢坂の関|を通ることを
許さ|    じ
 
許す|つもりはありません。(後拾遺集・巻第十六・雑二・939・清少納言)

 花を見捨つる雁がね

                                  ┌─────────────┐
○春霞 立つ を|見捨てて|  行く|雁は|花 |なき|里に|住み|や|ならへ|  る|    ↓
 
春霞が立つ都を|見捨てて|北へ行く|雁は|花の|ない|里に|住み| |慣わし|ている|のだろうか。

                             
 (古今集・巻第一・春上・31・伊勢)

作詞:不詳
作曲:山田検校






【語注】



清水寺
 京都のきよみず寺。御本尊は十一面千手観音(せんじゅかんのん)。脇侍(わきじ)に地蔵菩薩と毘沙門天を祀る。
清水寺の鐘の声…
 以下、平家物語の冒頭の文章を応用しながら、仏教的無常観に清水寺周辺の咲き誇る桜を対比させつつ、平宗盛に従って花見に出た熊野の、老母の生死を案ずる気持ちを描く。
声やらん 「声やあらん」の短縮形
地主権現 清水寺の鎮守社。清水の舞台を出て直ぐの左手にある。
上見えぬ 鷲は瞼が張り出していて上が見えないので、「上見えぬ」は「鷲」に掛かる枕詞。
鷲のお山の名を残す 鷲のお山は、正しくは桂橋寺ではなく、
東山の霊鷲山正法寺(京都府京都市東山区清閑寺霊山町35)
 ただし、下河原に桂橋寺という寺があったが、洪水で流されて橋柱が残っていたことは事実だったらしい。



熊野権現の移ります 後白河上皇が紀州の熊野神社を信仰し、京都の三十三間堂の南に移された。
青かりしより⇒背景

ただ頼め⇒背景







山の名の音は 音羽山。京から大津に抜ける東海道の南側の山。
花の雪 この場合は「花のような雪」ではなく、「雪のような花」。散る花を雪に喩えている。
深き
縁語。
人 宗盛のことを婉曲に言ったもの。











村雨のして 「し」は終止形「す」。「あり・す・ものす」は代動詞として使われるので、柔軟に訳せる。熊野は宗盛に、母のことが心配だと謎を掛けたが、宗盛は気づかないので、古歌を引き、更に自分で歌を詠む。
春雨の降るは涙か⇒背景




取り縁語。








花や散るらん 「らん」は現在推量の助動詞。老母の現在の様子を想像し、今にもこの世を旅立つのではないか、と心配している。


候ふ 「候ふ」は「あり」の丁寧語なので、「あり」と同じように、代動詞としても使われる。











木綿(ゆう)つけの鳥 白い布を付けた鶏のこと。清浄のしるしの白い布を鶏に付けて神に捧げたという。
鳥が鳴く 「東(あづま)」に掛かる枕詞。
逢坂の、関の戸ざしも心して 清少納言の歌「夜をこめて鳥の空音ははかるとも夜に逢坂の関は許さじ」や斉の孟嘗君の故事にあるように、関所の戸は一番鳥が鳴かないと開けないのだが、今は、熊野の孝心に愛でて、早く開けてくれた。⇒背景
花を見捨つる雁がね⇒背景
それは越路、われはまた 雁が目指す故郷は北の国、熊野が目指す故郷は東の国、と対照させている。







時雨する思ひそめてき 時雨がもみじを染める(紅葉させる)ので、「染め」は「もみぢ」の縁語。











ただ頼め 原文は「なほ頼め」となっているが、「ただ頼め」とも伝承された。
しめぢが原 下野の国の歌枕。
あらんかぎりは 「ん」は婉曲の助動詞。



人しなければ 「し」は強調の間投助詞。





関は許さじ 「じ」は打消意志の助動詞。

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