夕辺の雲
【解題】 かなわぬ恋の悩みを歌ったもの。揺れ動く心を、まず仏教の無常観で鎮めようとするが、抑えられない。恋人の面影、袖の香に執着する我が心に慨嘆する。時雨も紅葉も山風も、かなわぬ恋の恨みの種にしかならない。最後には夢が頼り。そして呪(まじな)いが頼り。 【解析】 ○憂(う)し|と見る も|月の影| 、嬉し と見る も月の影 、 辛 い |と思う気持ちも|月の光|の様に定めなく、嬉しいと思う気持ちも月の光の様に定めない、 ○ |うす雲 たなびきて、心の色ぞ |ほのめく 。ゆかり|うれしき |面影、 月の顔に|うす雲がたなびくと、恋の心 が|ほのかに湧いてくる。逢えて|うれしいあなたの|面影、 ○ |引き止めし |袖の香 |忘られ ぬ 、 情(なさけ)に| あはれを| 別れを惜しんであなたを|引き止めた|時の|袖の香が|忘れられない、 |忘れられない|恋の情 に|もののあわれを| ○知る も|ことわり 。 |逢ふごとに|時雨 |し て|深く 染むる | 紅葉、 《時雨》 《染むる》《紅葉》 知るのも|もっともだなあ。あなたと|逢う 度 に| 涙 を|流し | |時雨 が|降って|深い 色 に染める|紅葉のように| |深い恋心に染まる|が 、 ○ |吹き散らす山風 |こころ なき| も|うらめし 。夜もすがら、つくづくと| その二人の仲を|吹き散らす山風が|思いやりがない|のも| 恨 めしい。一晩中 、つくづくと| ○ありし世|のこと |思い 寝の、夢に見ゆる | 面影。如何にして|我(わ)が|ねやへ、 昔 |のことを|思って寝て、夢に見え た|あの人の面影。どう して|私 の|寝室に| ○来る ことの嬉しさ、 |はかなくも|夢 覚めて、かすかに残るともしび、 来たかと思った 時 の嬉しさ、しかし、はかなくも|夢が覚めて、かすかに残るともしび、 ○夢に見し|ふしど|も、 さめて|寝たる |ふしど|も、変はらぬぞ|悲しき 、 夢に見た| 寝室 |も、目覚めて|寝ている| 寝室 |も、同じなのは|悲しいことだ、 ○ 覚め て| |姿の|なけれ | ば 。まぼろしの姿も、夢路なら| で |は| 目覚めると|あの人の|姿が|見えない|ので。まぼろしの姿も、夢路で |なくて|は| ┌──────────────┐ ○いかで |見 ん|↓、 どうして|見ることができよう|か、いや、夢路でなくては見ることが出来ない、 ○ |絶えて |かはさ ぬ | 言葉も、 近頃は|まったく|交わすこともない|恋の言葉も、 ○ |あづさ |にかけて |かはさ む。 巫女(みこ)に| 梓 の弓|を鳴らさせて、あの人の霊を呼び出して|語り合おう。 【背景】 この曲の背景 幕末になると、本居宣長らが国学の世界で称えた復古主義が、箏曲界にも影響を与えるようになった。それは先ず、地歌三味線に従属した従来の箏のあり方を改め、八橋検校時代に立ちもどろうという純箏曲復興の動きとなって現れた。当時としては画期的な箏のみの二部合奏「五段砧」や、独特の調弦法で、前半に段物、後半に組歌の形式を用いた「秋風の曲」などを作曲した光崎検校はその先駆けである。光崎はまた、「箏曲秘譜」や「絃曲大榛抄」(葛野端山と共著・天保8年出版)などを著した。このような光崎の活動は、復古とは言っても実質は革新だったので、職屋敷から譴責され、京都を追われ越前の国に退くことになった。この曲はその頃の作品と言われるが、三味線の曲でありながら、純粋の箏の音楽である組歌の「菜蕗」と合奏されるように作られている点など、光崎の反骨がうかがえる。 うしと見るも ┌────────────────────┐ ○ 永らへ | ば |また |このごろ |や| | しのば|れ | ん|| |もし | ↓ 生き永らえた|ならば、また辛いことの多い| 現在 が| |かえって|恋しく偲 ば|れる|だろう|か。 ○ |うしと|見 し| 世ぞ |今は |恋しき なぜなら、辛いと|思っていた|昔の世 が、今はかえって|恋しく思われるのだから。 (新古今集・巻十八・雑下・1843・藤原清輔) この歌詞の冒頭は、下の箏組歌の『菜蕗』の歌詞の冒頭と重なるように作られている。 ○憂しと見るも月の影、嬉しと見るも月の影、 ○菜蕗と言ふも草の名、茗荷と言ふも草の名、 夢路ならではいかで見ん 古今集巻第十二、恋歌二の冒頭に、「題知らず」として小野小町の夢の歌が三首続いて収められている。それらはいづ れも、現実より夢のほうが頼りがいがあるという作者の思想が主題とされているのが注目される。この歌詞もその思想を 踏まえたものである。 ┌──────────────────┐ ○ |思ひつつ |ぬれ| ば |や| 人の| 見え|つ| らむ|↓ 恋しく|思いながら|寝た|ので、 |あの人が|夢に現れ|た|のだろう|か。 ○夢 と|知り |せ| ば| 覚め| ざら |まし | を 夢だと|知ってい|た|ならば、目覚め|ないで|いたかった|のに。(552) ○うたた寝 に|恋しき人を 見|て |し| |より |
作詞:清水某(京都) 作曲:光崎検校(?〜嘉永六(1853)年頃) 【語注】 憂しと見るも⇒背景 ゆかり 縁。つながり。 時雨・染むる・紅葉は縁語。 夢路ならでは⇒背景 あづさ 弓にはいろいろな種類があるが、梓の弓(梓弓)はもっとも古い素朴な構造のもので、梓の木を丸く削って弓にしただけのもの。古い形なので呪術に使われた。 覚めざらましを 「まし」は反実仮想の助動詞。実際は目覚めてしまったので、恋人は消えてしまったのである。 むばたまの 「夜」に掛かる枕詞。 |