夜々の星
【解題】 片思いの恋に悩む女心を手紙を書く筆に託す気持ちを歌ったもの。海女が海の底に潜り、海松布(みるめ)を取ろうとしても届かない、叶わぬ恋のイメージが、暗く、辛く、孤独なものとして描かれる。手紙を書くための筆にさえ見捨てられるかのような絶望、忍草に置く露に感じられる死の連想も、叶わぬ恋の表象として的を得ている。眠られぬ夜、夜通し眺めてすがろうとする星のわずかな光にさえ見放され、ただ硯を見つめ、祈るばかり。次々と浮かぶ哀切なイメージを具象化し、片思いの恋を詩的に表現した名作と言えよう。作詞者皆川淇園は、当時京都で、一説に門弟三千人と言われ、私立大学の先駆と言われる弘道館を設立した大儒学者だった。 【解析】 ○玉櫛笥 、ふたたび |三度 |思ふ事 思ふがままに |書きつけて、 見すれど|海女の| 玉櫛笥の|蓋(ふた)!| | 二 度 も |三度も|思う事を思うがままに手紙に|書き付けて、あなたに送る が、海女が| ○ かづきして|刈る| て ふ| | そこ の|みるめ |にも|ふれ |ぬ | | を|いたみ、 水に潜っ て|刈る|という|海の| 底 の|海松布 |にも|届か |ない|ように、 |あなたに|逢う機会| も|得られ|ない| |のを|嘆き 、 ○ |頼み に |し|筆に| さへ | |だに|恥ずかしの| あなたに冷たくされる| |のに加えて| |頼りにしてい|た|筆に| まで |見捨てられるかと、それ|さえ|恥ずかしく、 ○軒の忍(しのぶ)に |消えやすき|露の身にし も|なら |まほし。 <ナラ マホシ> 軒の忍草 に置いた|消えやすい|露の身に!でも|なって消えてしまい| たい 。 ○ |ならまく |ほしの|光すら、絶えて| |あや なく|なるまでも、 <ナラマ ホシ> 夜が明けて、その|なって 消えてしまい|たい | | 星 の|光さえ、絶えて、 |見え なく|なり 、 |心も|分別がなく|なるまで!、 ○八夜九夜(やよここのよ)と|思ひ 明かし、雲 居を|ながめ、すべ|をなみ、 八夜九夜 と|思い悩んで夜を明かし、高い空を| 眺 め、手段|もなく、ただただ筆にすがって、 ┌─────────┐ ○袖 のしづくに|せき入るる|硯の海 に|玉 | |や|沈め | ん|↓ 袖に流れる涙の 雫 を|堰き入れる|硯の窪みに|魂 |を| |落ち着け|よう|か。 【背景】 みるめにもふれぬをいたみ 「海松布(みるめ)」は磯海の底の岩石に着生する濃緑の海藻。食用になるので、海女が海に潜って刈る。「海松布」を「見る目」と掛けた歌としては、次の歌がよく知られている。 ○ |見る 目 | なき| |我が身を|憂(う)ら と|知ら|ね |ば | や| | 海松布 | |浦 | あなたと|逢う機会|を作る気もない|私が|我が身を|いやだと思っていると|知ら|ない|から|だろうか、 | 海松布 |の 採れない| |入江だ と|知ら|ない|から|だろうか、 ○ |離(か)れ|な | で| 海人 の|足 |たゆく | 来る 私を|あきらめ |切れ|ないで|あなたは|足を|だるそうにして|通って来ることよ。 浦を|離 れ|切れ|ないで|漁師 は|足を|だるそうにして|通って来ることよ。 (古今集・巻第十三・恋三・623・小野小町) |
作詞:皆川淇園(享保十九年1734〜1807文化四年) 作曲:光崎検校 【語注】 玉櫛笥 たまくしげ。 蓋(ふた)に掛かる枕詞。「玉」は美称、「櫛笥」は櫛を入れる笥(け)、「笥」は器・箱。 ならまほし 「まほし」は希望を表す助動詞。次に同じ意味の言葉「ならまくほし」と言い換え、「星」の意を掛けた。 雲居 「雲の居る所・高い空」の意。「雲井」とも書くが、本来は当て字。 硯の海 「海」は硯の水を入れる窪みの部分。墨を磨る部分は「陸(おか)」または「揚(あ)げ」と言う。海と陸の間の緩く傾斜した部分を「波止(はと)」と言う。 うら 浦と憂の掛詞。 我が身を憂ら 「う」は形容詞「憂し」の語幹。我が身をつらい、いやだと思い、人に逢いたくないの意。 離れなで 「かれ」はラ行下二段活用「離(か)る」の連用形。「な」は完了「ぬ」の未然形。「で」は打消順接の接続助詞。 |