椿尽し

【解題】

 椿は日本原産の植物で、園芸花木としても長い歴史を持ち、桃山時代から江戸時代にかけて、多くの品種が作られた。江戸時代の元和(1615〜1623)・寛永(1624〜1643)頃には、庶民の生活水準が上がったことから、椿の栽培と鑑賞がブームになった。花の色が、紅と白とピンクと、その斑(まだら)、形が一重、八重など多種多様で、趣味の対象として奥行きが深いことが魅力であろう。この曲は当時の有名な品種を並べたもので、椿にゆかりの名所の風景などを織り込んである。

【解析】


○つらつら 椿 |春秋      の、名  は|千里(ちさと)まで|鷹が峰。
 沢山並んだ椿が|春秋に美しいことで|名声が |千里の遠く まで|高い |
                                |鷹が峰。

○そ の本阿弥(ほんあみ)の          |花の色    |白き |を 後の  |写し絵    も、
 そこの本阿弥光悦の住居跡に建てられた光悦寺の|
    本阿弥               の|花の色は   |白  、
                     その|花の美しさには|白い色|を最後に塗る|絵 画の美しさも|

  ┌──────────┐
○いかで |及ば|  ん|↓        妙       蓮寺、  |薄くれなゐに、濃き紅  は|
 どうして|及ぶ|だろう|か、いや、及ばない|妙なる美しさだ。
                      |妙       蓮寺の色は|薄 紅  で、濃い紅の椿は|

○同じ花形(くわぎやう)の因幡堂。まだき |絞り    の秋の山嵯峨 初   嵐 |身に沁みて、
 同じ花形(かけい)  の因幡堂。不完全な|絞り染め模様の秋の山。嵯峨の初秋の強風が|身に沁みて、

○      露 時雨    降る頃よりも、好き もて遊び埋火(うづみび)の      、
 木々の枝から露が時雨のように降る頃から 、好んでもて遊ぶ埋火     の季節が終わり、

○春にうつれば天(あめ)が下 、賑はう   |民の     |    煙 立つ、それは塩釜 千賀の浦、
 春になれ ば国     中が|賑わい、
               |豊かになった|民のかまどから|炊事 の煙が立つ、
                      |  かまどから|塩焼きの煙が立つ|それは塩釜の千賀の浦|

○汐  汲む海人(あま)の腰蓑の、 |あづま |からげ や|吾妻路や、清洲の里の散る椿。
 海水を汲む海人   が腰蓑の裾を|東国風に|絡げた姿の|
                 |あづま 。     |東海道の|清洲の里の散る椿。

○咲きも残さぬ角(すみ)の倉。藪の中なる     |香の物       、朴(ぼくあん)庵佗助唐椿
       隅々まで   |
 咲き残さない角    の倉。藪の中で 香っている|香の物の沢庵ではなく|朴庵      、詫助、唐椿。

八千代 |尽せ   ぬ     |花の数 。
 八千代も|尽きることない、美しい|花の数々。
 
【背景】

 つらつら椿

○大宝元年辛丑(かのとうし)秋九月、太上天皇(おほきすめらみこと)の紀伊国に|幸(いでま)せる|時の歌。
                                      |行幸なさっ た|

○巨勢(こせ)山の|つらつら      |  椿|
 巨勢   山の|沢山並んで咲いている|秋の椿、

○つらつらに|見つつ |偲(しの)は  |     な |巨勢の春 野を|
 よくよく |見ながら、               |巨勢の春の野を|
           |想像して楽しみ|たいものだなあ。(坂門人足(さかとのひとたり)・万葉集・巻一・54)

 白きを後の

○絵事(かいじ)は        |素(しろ)きを 後(のち)に   |す。
 絵画     は        |白色    を最後    に加えて|完成させるように、
 人格     も生来の美質の上に|礼     を最後    に学んで|完成させる。(論語・八
イツ第三)


 煙立つ


○みつぎ物|    |ゆるされ   て、国 富め   る を|御覧じ  て、
  租税 |の徴収を|免除なさったので|国が豊かになったのを|ご覧になって、お詠みになった歌

○高き屋にのぼりて見れば煙(けぶり)立つ民のかまどはにぎはひにけり

                   (新古今集・巻第七・賀・707・仁徳天皇)

 延喜六年(906)の「日本紀竟宴和歌」(日本紀進講が終わった後に竟宴を行なった時に詠まれた和歌)で、藤原時平が仁徳天皇を題に詠んだ「高殿に登りて見れば天の下四方に煙りて今ぞ富みぬる」が誤って伝わり、平安末期には仁徳天皇の御製とされるようになった。仁徳天皇四年、天皇が高台に登り、家々から煙が立たないのを見て、民の疲弊を救うために課役をとどめ、七年夏四月、煙の多いのを見て、后に、「朕、既に富めり」と述べた故事(日本書紀)による。『水鏡』にも、同主旨の記事がある。

 塩釜・千賀の浦

 千賀の塩釜は宮城県の歌枕で、松島湾のことを千賀の浦と言った。


○陸奥(みちのく)の千賀の塩釜         | 近     |ながら、
                        |千賀    |

 陸奥      の千賀の塩釜のように、こんなに| 近 くにいる|のに 、

○辛(つら)き は| 人 に|逢はぬ   | な り|けり

 辛    いのは|あなたに|逢えないこと|である|なあ。 (続後撰集・恋二・読人知らず)

○       |思ひ |かね   |  心は空  に|みちのく|の
 あなたを恋する|思いに|耐えられず、私の心は空一杯に|満ちて 、
                           | 陸 奥 |の 

○千賀の塩釜         | 近 き       |甲斐 |なし
               |千賀        |
 千賀の塩釜のように|あなたの| 近 くにいても、その|甲斐も|ありません。(平家物語・小督)

など、多くの歌が詠まれている。

 散る椿

○赤い椿白い椿と落ちにけり     (河東碧梧桐)

○一つ落ちて二つ落ちたる椿かな   (正岡子規)

 
      加茂本阿弥              紅妙蓮寺                  秋の山

                                          
        初嵐               天が下                  紺詫助

作詞:洲 浜
作曲:松島検校






【語注】


つらつら椿⇒背景
春秋の 春咲き椿と秋咲き椿がある。
鷹が峰 京都の北山の大文字山の北の山地一帯を言う。天神川(紙屋川)の上流に当たる。
本阿弥 本阿弥光悦(1558〜1637)画家・工芸家。本阿弥光悦が家康から鷹が峰の土地を拝領し、一族や弟子たちと共に住み着いたが、光悦没後、そこに日蓮宗光悦寺が建てられた。ここはその光悦寺を指すとともに、白椿の『加茂本阿弥』を指す。
白きを後の⇒背景
妙蓮寺 紅(べに)妙蓮寺。妙蓮寺という寺は今もなお椿の名所で、住所は、上京区寺ノ内通大宮東入ル。
因幡 現代の品種に「因幡百合」があるが、関係は不明。
因幡堂 京都市下京区松原通烏丸東入因幡堂町728。椿との関係は不明。
秋の山 多くは白地に紅色が縦に絞り染めのような模様が入っている。
嵯峨初嵐 色は白。
埋火 名前通り小型で薄紅の品種。
天が下 紅と白が大柄な模様に入り混じった品種。
煙立つ⇒背景
塩釜 現代には見当たらない品種。
塩釜・千賀の浦⇒背景
あづま 不明。
散る椿 椿は花弁が一枚ずつひらひらと散るのではなく、花全体がぽとりと落ちるので、普通は「散る」とは言わず、「落ちる」と言う。⇒背景
角の倉 真ん丸で真っ赤で花弁が多い品種。
朴庵 不明。
詫助 千利休が愛したと言われ、茶花として好まれる品種。花は小型で筒状。白、紅の両方がある。
太上天皇 譲位した天皇。ここは持統天皇。持統十一(697)年に譲位して、大宝二(702)年の崩御まで太上天皇。
つらつら椿 「つら」は「連なる」「連れ立つ」などの「つら」で、列のこと。
巨勢 奈良県御所市古瀬。椿の名所。
イツの字は人偏に「八」の下に「月」。




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