新松尽くし
【解題】 『松尽くし』(歌ひ囃せや大黒…)の替え歌としてこの歌詞が作られた。松島、志賀の松、三保の松、末の松山、天橋立の松、阿古屋の松など、松の名所を並べたもの。 【解析】 ○松は| 常磐(ときは) の|深緑 、 恵み の風を| まつ島に、 松は|一年中葉の色を変えず、深緑を保ち、豊漁の恵みをもたらす風を| 待つ | |千賀の浦の 松 島に、 ○浪の花 咲く|磯の松、のどかに春 も 霞みつつ、 さざ波 薫る|志賀 の松、 浪の花が咲く|磯の松、のどかに春の景色も一面に霞んで 、琵琶湖のさざ波が薫る|志賀の唐崎の松、 ○つちも |さけ ぬる |夏の日に、見るも涼し や| 白雪 の、富士 のに続く| 地面も炎暑のために|ひび割れてしまう|夏の日に、見るも涼しいことよ、峯に白雪が残る|富士の裾野に続く| ○三保の 松。葉づきも|いつか| 初 瀬山、雲 井に|冴ゆる月影も、夜すがら|宿れ や|峯の松 。 <ハツ> <ハツ> | 果つ | 三保の松原の松。八 月 も|いつか|終わって、高い空に|冴える月影も、 一晩中|留まれよ。峯の松の枝に。 ○末の松山 |行末までも、色 |変へぬ |みさを の|松。 末の松山波越さじと歌にあるように、行末までも、心を|変えない| 節操 を守る |松。 ○あられ みぞれの浪 越え て、 空 に も |通へ、 橋立の松。 浪を越え て|対岸 まで 延びる砂嘴のように、 あられやみぞれの中を突き抜けて、 空 にまでも |届け、天橋立の松。 ○ まだ |色々の|ことほぎ や。 老 松、 若 松、姫 小松。 松には、もっと|様々の|目出度いことがある!。長寿の松、いつまでも若い松、愛くるしい小松。 ○阿古屋の松の|み 蔭をたのみ、 |千代万代もいき の| 松。 阿古屋の松の|ご庇護を頼り 、長寿にあやかって、千代万代も生きる |目出度い松。 【背景】 志賀の松 志賀の唐崎は 古来から有名な歌枕で、大津市の北7kmほどの琵琶湖畔の土地。著名な文人たちが歌や句を残している。唐崎の松は、現在、唐崎神社の境内にある。 近江の坂本(大津市)に築城した明智光秀が、当時消滅していた唐崎の松を復興再現させたときに自ら詠んだ歌。 ┌───────────┐ ○ われ|ならで|誰かは| 植ゑ む↓ 坂本城の城主である 私 |以外の|誰 |が植えられるだろうか、いや、私以外に植えられる人はいない。 ○ 一つ松 |心し て| 吹け 、志賀の浦風 そんな大切な一本松だから、気を付けて|やさしく吹けよ、志賀の浦風よ。 三条西実隆がこの松が枯れかかっていたのを見て、歌を書いて松に掛けると、まもなく青々とした葉を付けるやうになったという。 ○ |花の咲く |ためしもある | を| 「十返りの花」と言って、松には百年に一回、千年に十回|花が咲くという| 伝説 もあるほど生命力がある|ので、 ○この松の|ふたたび|青き 緑 と |もが な この松が|ふたたび|青々とした緑の樹となって|ほしいものだなあ。 ○唐崎の松は扇の要にて漕ぎゆく船は墨絵なりけり 伝紀貫之 ○唐崎の松は花より朧にて 芭蕉 ○短夜や一つあまりて志賀の松 蕪村 三大松原(参考) 一説に、三保の松原(静岡県静岡市清水区)、虹ノ松原(佐賀県唐津市)、気比松原(福井県敦賀市) 一説に、三保の松原(静岡県清水市清水区)、天橋立(京都府宮津市)、箱崎(福岡県福岡市東区) 羽衣伝説(参考) 昔、三保の村に白竜(はくりょう)という漁師がいた。ある日のこと、白竜が三保の浜の松の枝にかかっている美しい衣を見つけて持ち帰ろうとすると、天女が現れて、「それは天人の羽衣です。どうかお返しください。」と言った。ところが白竜は、家に持ち帰って国の宝にしたいなどと言って、応じなかった。すると天女は「その羽衣がないと天に帰ることができません」と言って泣き出してしまった。白竜はこれを見て、気の毒に思い、天上の舞を見せてもらうことを条件に羽衣を天人に返した。天女は喜んで三保の春景色の中、羽衣をまとって舞を披露。やがて天高く昇って消えていった ○「序の舞」あるひは、天つみ空の、緑の衣、または春立つ霞の衣、色香も妙なり、少女(おとめ)の裳裾、左右左(さゆうさ)、左右颯々(さつさつ)の、花を挿頭(かざし)の天の羽袖、靡(なび)くも返すも、舞の袖。 「破の舞」東遊びの数々に、東遊びの数々に、その名も月の宮人は、三五夜中の、空にまた、満願真如の、影となり、ご願円満、国土成就、七宝充満の、宝を降らし、国土にこれを、施し給ふ、さるほどに、時移って、天の羽衣、浦風に、棚引き棚引く、三保の松原、浮島が雲の、愛鷹(あしたか)山や、富士の高峰、幽かになりて、天つみ空の、霞に紛れて、失せにけり。 末の松山 ○ |契り |き|な かたみに|袖 を|しぼり つつ | 二人で固く|約束しまし|た|ね、お 互い に|袖の涙を| 絞 りながら。 ○ | | 末の松山 |波 越さ | | じ とは あの| | 末の松山を|波が越す |ことが決して|ないように 、 |私たちが|行末も |別れる |ことが決して|ないようにと!。 (後拾遺集・巻十四・恋四・770・清原元輔) 「末の松山」は宮城県多賀城市近くの海岸にあった丘で、どんな高波も決して越すことができないと言われていた。後拾遺集の詞書(ことばがき・歌の詠まれた事情を書いた前書き)によると、この歌は、心変わりした恋人をなじった歌である。この歌には更に次のような元歌がある。 ○ 君 を おきて|あだし心を| わが持た ば|末の松山 |波 も|越え|な | む あなたを差し置いて|浮気 心を|もし私が持ったならば、末の松山を|波が |越え|てしまう|でしょう。 そんなことは絶対に起きないので、私が浮気心を持つことも決してありません。(古今集) 橋立の松 「天橋立」は日本三景の一つで、京都府宮津市字鶴賀にある。奈良時代に既に「風土記」に記載されている有史以来の名勝と言える。大江山の麓を流れる野田川から運ばれた砂を、与謝の海の海流が押し返して作られた砂嘴で全長3.6Km、幅は20〜170mで、細長い堤状の砂浜となっている。砂浜には、大小8,000本もの黒松が生い茂っており、「日本の松・百選」、「日本の道・百選」、「白砂青松の百選」などにも選ばれている。天橋立の端から端(文珠〜府中)までは、徒歩で約1時間。天橋立の松の中には、大正天皇お手植えの松や昭和天皇お手植えの松も植わっている。その他にも約18本の松には、土地や様々な楽しい形状にちなんだ名前を持つ名松もある。 また、『磯清水』も有名で、周囲は海にかこまれた清水に清らかな真水がこんこんとわき出ており、古来より「長寿の水」として知られ、日本の名水百選に選ばれている。 天の橋立(参考) 小式部内侍の母の和泉式部が夫とともに丹後に下った留守に京で歌合せがあり、小式部内侍が歌詠みに選ばれたが、藤原定頼がからかって、「歌はどうなさいましたか。もう丹後の母上のもとへ使いは出しましたか」と話し掛けたところ、内侍は即座にこの歌を返したという。当時、内侍の歌は、母が代作したという噂があったので、定頼はこうからかったのだが、内侍は絶妙の機知で反駁したのである。 ○大江山 |生野|の道の遠ければ| まだ|ふみも|み ず|天の橋立 大江山を越えて|行く| |生野|の道が遠いので、私はまだ| |天の橋立を |踏んで|みたこともありません。 もちろん、母の|手紙も|見たこともありません。 (金葉集・巻第九・雑上・550・子式部内侍) 磯清水(参考) ○ 橋立の|松の 下 な る|磯清水 都なり せ ば 君 も汲ま |まし 天橋立の|松の木の下にある|磯清水が、もし都にあったならば、あなたも汲むことができた|でしょうに。 この長寿の水をあなたに飲んでいただけなくて、とても残念です。 (和泉式部・衆妙集) 阿古屋の松 又、あづまに聞こゆる出羽・陸奥(みちのく)両国も、昔は六十六郡が一国にてありけるを、その時十二郡を裂き分かって、出羽の国とは立てられたり。されば実方中将、奥州へ流されたりける時、この国の名所に阿古屋の松と云う所を見ばやとて、国のうちを尋ねありきけるが、尋ねかねて帰りける道に、老翁の一人逢ひたりければ、「やや、御辺は古い人とこそ見奉れ。当国の名所に阿古屋の松と云ふ所や知りたる。」と問ふに、「まったく当国のうちには候はず。出羽の国にや候らん。」「さては御辺知らざりけり。世は末になって、名所をもはや呼び失ひたるにこそ。」とて、むなしく過ぎんとしければ、老翁、中将の袖を控へて、「あはれ君は、 ○みちのくの|阿古屋の松に|木 がくれて|出づべき 月の出で も|やらぬ か みちのくの|阿古屋の松の|木陰に隠れ て、出るはずの月が出ることが|出来ないのかなあ といふ歌の心をもって、当国の名所阿古屋の松とは仰せられ候か、それは両国が一国なりし時詠み侍るなり。十二郡を裂き分かって後は、出羽の国にや候らん。」と申しければ、さらばとて、実方の中将も出羽の国に越えてこそ、阿古屋の松をば見たりけれ。(平家物語・巻第二・阿古屋之松) 河東碧梧桐著「三千里」より「山形〜峨々温泉〜仙台(明治39年)」 十月二十九日。天気不定。 午後千歳山の麓にある万松寺に行く。阿古屋の松の古蹟と、中将実方の墓碑というものがある。 ここに阿古屋という美人があった。伝記には藤原豊充の女とある。 ある男と私した。その男は松の精であった。一夕その事を女にあかして行方知らずになった。名取川の橋を架る時その松を伐った。大勢の官人がこれを運ぼうとしても、更に動かぬ。阿古屋が来て木と共に慟哭した。女一人の手で安々と名取川まで運んだ。途中阿古屋は絶えず木と囁(ささや)いた。今の仙台の方に越える笹谷峠は、ささやき峠と云うのが本来であるという。 阿古屋はその松の跡に庵を結んで一本の松苗を植えた。その松の生茂ったのがいわゆる阿古屋の松である。この阿古屋の姫を豊成の女中将姫にした説もある。実方が歌枕を尋ねた時、ここに葬れと遺言したという事も伝えられておる。 実方の墓というのは、自然石で、表の方に経文に似たものが彫ってある。阿古屋の松はすでに久しい以前朽ち果てて、今はその跡をも止めぬ。寺も大破に及んで、坐敷の掛物の裏から、蝙蝠(こうもり)が飛んで出るほどになっておる。 阿古屋の松のみかげをたのみ 謡曲『阿古屋松』に次の一節がある。 ○ 千年まで 限れる 松 も|けふよりは、君 に|引かれて、 一千年までと一応限りがあると言われる松の寿命も、今日からは、君の威徳に|あやかって、 ○萬代までの春秋を、送り迎へて |御蔭山、高砂住吉辛崎や、都の富士も東ぞと、 萬代までの春秋を|送り迎えるだろう。 |
作詞:不詳 作曲:藤永検校 【語注】 常磐 「常盤」とも書く。「トコ(常)イハ(磐)」の約。永遠にしっかりと同じ性質と形質を保つ岩。ここは松の葉が一年中色を変えないこと、常緑。 松島 万葉の昔から歌枕として詠まれた名勝。松島が「宮島」「天橋立」 と並び日本三景の一つとされたのは1714年(正徳四)ごろ、江戸幕府の儒学者林羅山の三男であった林春斎がその著書 「日本国事跡考」に「日本三処奇観」と記したのに始まる。松尾芭蕉も『奥の細道』の冒頭近くに「松嶋の月まず心にかかりて」 と書いてあるように、この旅の目的の一つは、松島の景色を自分の目で見ることであった。その地を訪れた感慨として、「扶桑(日本)第一の好風なり」と記している。 志賀の松⇒背景 三保の松 三保の松原は静岡県清水市にあり、約7kmの海岸線に5万4千本の松が茂り、三大松原のひとつに数えられている。波打ち際から望む富士山は圧巻で、大正5年に日本新三景の名勝地に選ばれている。謡曲『羽衣』の素材となった『羽衣伝説』の舞台であり、『羽衣の松』の古跡もある。交通は、JR清水駅からバス三保ランド行き24分・三保松原入口下車、徒歩10分 初瀬山 「はせやま」とも言う。奈良県桜井市大字白河にある。大阪市堺区で大阪湾に注ぐ大和川の支流である初瀬川の上流にあり、中腹に、紫式部や清少納言も参詣した長谷寺がある。 末の松山⇒背景 橋立の松⇒背景 阿古屋の松⇒背景 |