さらし

【解題】

 宇治川に宇治の里人が布を晒す風景を、里謡風の歌詞で絵巻のように生き生きと描写したもの。宇治川と近辺の名勝の名と風景が美しく折り込まれている。

【解析】


○槇の島には、晒す麻布(あさぬの)    、 賤(しづ)が|仕業(しわざ)@にAは、   |宇治川の、
 槇の島では、晒す麻布      が風物詩、下賤の者どもの|仕事     @でAは、それが|宇治川の、

○浪か雪かと     |白妙 に    、いざ  |立ちいでて|布を晒さう。
 波か雪かと見紛うほど|真っ白になるまで、さあ川に|出かけ て、布を晒そう。

○鵲(かささぎ)の    |渡せる橋    の|霜よりも、晒せる 布に |白 味  |あり 候 。
 鵲      が天の川に|渡した橋に置いた |霜よりも、晒した麻布には|白いつやが|あります。

○のうのう|山が見え 候  。朝日山に、霞 棚引く景色は、
 ねえねえ、山が見えますよ。朝日山に、霞が棚引く景色は、

○たとへ駿河の富士も|   もの   かは、           。富士もものかは。
 たとえ駿河の富士も|かなうものだろうか!、いや、かなうはずがない。

○小島が崎に寄る   波@のAに、寄る波@のAに、月の光を映さ | ばや   、映さ |ばや    。
 小島が崎に寄せてくる波@のAに、        月の光を映して|みたいものだ、映して|みたいものだ。

○見わたせば、見わたせば、伏見、竹田に淀、鳥羽も|いづれ|劣ら     ぬ |名所      かな。
                        |どれが|劣るという事もない|名所であることだなあ。

○立つ波は、立つ波は、 瀬 々(ぜぜ)の網代(あじろ)に遮(さ)へられて、
 立つ浪は、立つ波は、川瀬川瀬    の網代     に堰き止め られて、

○流るる水を|堰き止めよ、流るる水を|堰き止めよ。
 流れる水を|堰き止めろ、流れる水を|堰き止めろ。

○   所   柄 とて       な、所がらとてな。布を手ごとに   、槇の  里人 うち連れ  て、
 この土地の風習とでも言うのだろうね、      。布を手に手に持って、槇の島の里人がうち連れ立って、

○戻らう や れ、賤 が家へ。
 戻り なされ、粗末な家へ。

【背景】
 

 槇の島

 明治時代までの宇治川は、現在の宇治橋と平等院のあるあたりから15キロも下流で桂川・木津川と合流して淀川になる大山崎あたりまでは、巨大な遊水池となって広がっており、『巨椋池(おぐらいけ)』と呼ばれていた。『槇の島』は、その池の中にある島(河の中洲)である。宇治橋から3キロメーターほど下流の宇治川左岸に、現在でも、宇治市槙島町という地名が残っている。

○宇治川の|川 瀬 も|見えぬ   夕霧  に|槇の島  人 舟 |呼ばふ  |  なり
 宇治川の|川の流れも|見えない深い夕霧の中に、槇の島の住人が舟を|呼び続ける|声が聞こえる。
                                 (金葉集・巻第三・秋・240・藤原基光)

○槇の島 |さらし かけ たる|手作り  に|見えまがふまで|鷺 ぞ|    むれ   |ゐる 
 槇の島は|さらして乾してある|手織りの布に|見間違えるほど|鷺が |真っ白に群らがって|いることよ。
                                          (素覚法師.夫木抄)

 この巨椋池に初めに大規模な改修を加えたのは豊臣秀吉で、資料によれば、代表的なものは以下の三つである。

1.槇島堤の造築
2.淀堤(文禄堤)の造築
3.小倉堤(巨椋堤、太閤堤)の造築と豊後橋(現在の『観月橋』)の架橋

 これらの工事は、端的に言えば堤防と橋を作ったということで、その結果、巨椋池は、大池、二の丸池、大内池、中内池に分割されたが、なくなったわけではなかった。江戸時代には、巨椋池は存在したのである。

 明治になって、淀川改良工事の一環として宇治川の付け替えが行われ、1910年(明治43年)に完成した。この工事によっても、巨椋池の姿が大きく変貌したわけではない。

 巨椋池がその姿を消したのは、昭和時代である。1933年(昭和8年)から1941年(昭和16年)にかけて、国の食糧増産事業として国営第1号の干拓事業が実施されることになり、巨椋池は干拓され農地になった。干拓後の農地における用水利用を考慮し、池の底部を小倉堤や池に点在した島で埋めた程度で、ほとんどがポンプを用いた排水によって干拓された。 なお、干拓前の巨椋池は東西4km、南北3km、周囲約16km(水域面積約800ha)であり、平均水深は90cmであり、当時京都府で最大の面積を持つ淡水湖であった。

 鵲の渡せる橋

○    |かささぎの       |渡せる橋にをく 霜の|
 天の川に|かささぎが羽を並び連ねて|渡した橋に置いた霜が、

○白き      を見れば|夜ぞ    |更けにける
 白く冴えているのを見ると、夜もすっかり|更けたことだ。(新古今集・巻第六・冬・620・大伴家持)

○天の川に鵲(かささぎ)といふ鳥の羽をちがへて並び連なりて橋となることのあるなり。(奥義抄・中)

○天の川なり。(八雲御抄五)

 朝日山

 京都府宇治市、宇治川東方に位置する山。標高124m。

○ふもとをば宇治の川霧たちこめて雲居に見ゆる朝日山かな  (新古今集・巻第五・秋下・494・藤原公実)

 小島が崎

 「橘の小島の崎(さき)・橘の小島」などとも呼ばれる。「八雲御抄(やくもみしょう)」に載る歌枕。「古今集」に

           ┌───────────────────┐
○      今 も|かも|咲き|にほふ   |らむ    || 橘の小島のさきの山吹の花
 以前と同じく今頃も|  |  |美しい色艶で|      |↓
             |咲い|      |ているだろう|か。橘の小島の 崎 の山吹の花は。

                              (古今集・巻第二・春下・121・読人知らず)

があり、山吹と詠みあわせることが多い。「源氏物語」浮舟の巻に

○有明の月 澄み    のぼりて、水の面(おもて)も曇りなき   に 、「これ なむ橘の小島      」
 有明の月が澄んで空高くのぼって、水の表面    も曇りなく明るいので、「これが ! 橘の小島でございます」

○と      |申し  て|御舟 しばし   差し |とどめたる を|見給へ  ば、
 と船頭が匂宮に|申し上げて|御舟をしばらく棹を差して|止め た のを|ご覧になると、

○大きやかなる岩の   さま し  て、ざれたる   常磐木の|影  |しげれ り。「かれ 見給ヘ  。
 大きな   岩のような 形 をした島で、しゃれた風情の常磐木が、影深く|茂っている。「あれを御覧なさい。

○いと  |はかなけれ   ど|千年も経 べき 緑の深さ  を  」と      |宣ひて、
 たいそう|か弱いようだけれど、千年も続きそうな緑の深さではないか」と匂宮は女君に|仰って、

○  年  経(ふ)とも|変はらむもの   か|  橘の小島の崎に|       契る    心は
 長い年月を経   ても、変わる ものだろうか、この橘の小島の崎で、あなたに行末を約束する私の心は


○女も、めづらしからむ|  道  のやうに|おぼえて、

 女も、経験のない  |恋の道行きのように|感じ て、 


○橘の小島の   色 は|変はら  じ を|この  |浮き    舟ぞ|ゆくへ      |知られ  ぬ
 橘の小島の緑の 色 は|変わりますまいが、この水に|浮かび漂う小舟は、どこに流れてゆくか|分かりません。
 あなたの私への約束は|変わりますまいが、この  |浮き    舟  のような
                         |      私は、これからどうなるか|不安です  。

などと描いている。「増鏡」にも後嵯峨上皇がこの島付近で遊んだことを記す。

 位置は、謡曲「頼政」に

ツレ「名に橘の小島が崎」ワキ「向かひに見えたる寺は、いかさま恵心の僧都の、み法を説きし寺侯ふな」

とあり、寺とは平等院対岸の恵心院をさす。「平家物話」の宇治川先陣争いの場面では

○平等院の丑寅(北東)、橘の小島が崎より武者二騎ひつかけひつかけ出で来たり。

とある。これらにより宇治川西岸と察せられるが、詳しくは不明。現在、宇治橋の上流に橘島があるが、研究家によれば、これとは別の島で、宇治橋の下流にあった中洲と考えられる。

作詞:不詳
作曲:深草検校(元禄・宝暦頃)


【語注】


槇の島⇒背景
晒す麻布 夏の日に麻布を川の水で洗い、日に当てて白くする。宇治川や多摩川などの風物詩だった。
 卑しい者。身分の低い者。
校異 
@博信堂 A
鵲の渡せる橋⇒背景

朝日山⇒背景





小島が崎⇒背景 
校異 
@博信堂 A




網代 アミシロの約。川の流れを横切って竹や細かい木の枝などを編んで魚の通過を遮り、一部分に置いた簀(す)にかかった魚を捕らえる。
















呼ばふなり 「なり」は伝聞推定の助動詞。視覚を閉ざされた世界の中で、聴覚だけでその場の情景を推定しているところに歌の面白さがある。































八雲御抄 鎌倉初期の歌学書。順徳(じゅんとく)天皇の著作。1221年(承久3)より前から執筆、承久(じょうきゅう)の乱(1221)後、佐渡の配所で手を加えてまとめられた。六巻。草稿本と再撰(さいせん)本とがあり、内容も若干の相違がある。巻一は正義部(六義や歌体、歌病(かへい)などの解説)、巻二は作法部(歌合、歌会や撰集などの作法に関する知識、記録を集めたもの)、巻三は枝葉部(天象、地儀以下17部についてことばをあげ、解説を加えたりしたもの)、巻四は言語部(世俗言=普通のことば、由緒言=由緒あることば、料簡言=難解なことばの三つをたてて多くのことばを解説)、巻五は名所部(名所の場所や出典を示したもの)、巻六は用意部(著者の歌論の披瀝(ひれき))。古代歌学の集大成であるとともに中世歌論の基盤となった名著で、いまでは散逸した書からの引用も多く、資料的価値も絶大である。

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