西行桜

【解題】

 西行の庵で、桜の老木の精が西行と桜の美しさについて問答をする、謡曲「西行桜」の一節を、そのまま歌詞にしたもの。


析】

                       ┌─────────────────-┐
○ 九 重 |に、咲けども|花の八重桜  |いく代の春を|重ぬ   |   らん|
 ここの辺 |                                  |
 
《九 重》         《八重》         《重ぬ》         |
  こちらの|                                  |
  宮 中 |に 咲いても|  八重桜の |                   ↓
             |花     は、 幾 代の春を|重ねて咲く|のであろう|か。

○しかるに、花の名高き  は、  まづ |初花    を急ぐ|なる 、近衛殿の糸桜。
 ところで、花が名高い名所は、都で最初に|初花が開くのを急ぐ|と言う|近衛殿の糸桜。

○見渡せば 柳 桜を|こきまぜ て、都は春の錦 |燦爛(さんらん)たり。千本(ちもと)の桜を植え 置き、
 見渡すと、柳と桜を|混ぜ合わせて、都は春の錦が|きらめき輝いている。千本     の桜を植えて置き、

○その|色  |を    | 所の名に見する、千本(せんぼん)  の花盛り 、
 その|美しさ|をそのまま|場所の名に表した、千本      通りの花盛りは、

○  雲   路   の        |雪に   |残る   |  らん。
 桜の雲の中の道を行くようで、その落花が|雪のように|残っている|のだろう。

○毘沙門堂の花盛り 、                 四王天|の栄華も、
 毘沙門堂の花盛りは、毘沙門天王が住むと言われる須弥山の四王天|の栄華も、

       ┌────────────┐
○これには|いかに |勝る|べき    |↓      
 これには|どうして|勝る|はずがあろう|か、いや、ない。

○   上なる黒谷 下河原、昔遍昭僧正の、浮世を|厭ひ    し|華頂山。
 東山の上の 黒谷、下の |
         |下河原、昔遍照僧正が、浮世を|嫌って隠棲した|華頂山。

○   | 鷲の御山(みやま)|の花の色 、
 東山の|霊鷲  山  双林寺|の花の色は、釈迦が亡くなった時、

○        枯れにし鶴の       林      まで 、思ひ知られて|あはれなり。
 沙羅双樹の木々が枯れて 鶴の羽のように白い林になったことまでが、思い出されて|感慨を呼ぶ。

○清水寺(せいすいじ)の    地主  の花、   松 吹く風の|音     羽山。
 清水寺       の鎮守社の地主権現の花、また、松を吹く風の|音が聞こえる  |
                                |音     羽山。

○ここはまた嵐山、戸無瀬(となせ)に落つる|滝つ波|までも、花        は大堰川(おおいがは)、
 ここはまた嵐山、戸無瀬    に落ちる|滝の波|までも、花が一面に浮かぶのは大堰川      、

                  ┌─────────────┐
○井堰(いぜき)に       雪 |や|かかる|     らん|
 井堰    に時ならぬ落花の雪が| |掛かっ|ているのだろう|か。

【背景】

 西行桜・西行庵

 京都市右京区大原野、勝持寺に西行桜がある。勝持寺は「花の寺」とも呼ばれ、白鳳8年(680)天武天皇の勅によって役
行者(えんのぎょうじゃ)が創建したのが始まりで、延暦10年(791)最澄により再建された。承和5年(838)には仁明天皇の
勅によって塔頭四十九院を建立されたが、応仁の乱の時、仁王門を除きすべて焼失した。現在の建物は乱後に再建された
もの。
 平安末期の僧・西行はこの寺で出家し、庵を結び、桜をめでたので、西行桜・西行庵と称されている。京都市西京区大
原野南春日町1194。阪急バス南春日町から徒歩20分。

 九重に、咲けども花の八重桜

○ いにしへの|ならの都     の|八重桜         |けふ    |九  重 に|
       〈奈良〉                     〈京〉
 ≪いにしへ≫                        ≪今日≫   |ここの辺  |
                  《八重》
                《九  重》
   旧都 の|奈良の都に咲いていた|八重桜を京の都に移植して、今日   は|こち らの |
                               | 京 の都の |宮 中  で|

   匂ひ  | ぬる |かな
 美しく照り映え|ている|ことよ。 (詞花集・巻第一・春・27・伊勢大輔)

 近衛殿の糸桜 

 室町時代に摂関家の近衛家の本邸内の糸桜は有名だった。その様は洛中洛外図屏風にも描かれている。応仁の乱(1467)の際に焼失したが再建され,のち天正年中(1573〜92)の公家町整備にともない、京都御所の西北に移転した。上京区新町通今出川上る。(同志社大学新町校舎内)

 見渡せば

○見渡せば|柳   桜   を|こき混ぜ  て 都ぞ  春の錦    なり|ける
 見渡すと、柳の緑と桜の薄紅を|混ぜこぜにして、都は今、春の錦となっている|ことよ。

                          (古今集・巻第一・春上・56・素性法師)

 黒谷

 
左京区黒谷町121。平安末期に比叡山西塔の黒谷で修行した法然が、この地の草庵を結んだため、新黒谷と呼ばれ、それが黒谷となった。金戒光明寺がその跡。

 遍昭僧正

 平安初期の歌人。僧正遍照、花山の僧正とも呼ばれる。桓武天皇の孫。俗名良岑宗貞。
京都市山科区北花山河原町の華頂山元慶寺に隠棲した。元慶寺は、京阪京津線、御陵(みささぎ)駅下車南へ徒歩約15分。多くの優れた歌を残したが、百人一首にも次の歌が採られている。

○天津風(あまつかぜ)雲の通ひ路吹き閉ぢよをとめの姿しばしとどめむ(古今集・巻第十七・雑上・872)

 鷲のお山・枯れにし鶴の林 

 釈迦が沙羅双樹の林で入滅した時、樹の色が鶴の羽のように白くなったという故事が、涅槃経序品などにある。鶴の林(鶴林。鶴の羽のように白くなった林)は、双林(沙羅双樹の林)とも言う。「鷲のお山」は、双林寺(京都市東山区下河原鷲尾町527。正式名称は「霊鷲山沙羅双樹林寺法華三昧無量壽院」を指すと考えられる。また、霊鷲山正法寺(京都府京都市東山区清閑寺霊山町35)を指すとも考えられる。いづれにしても、「鷲のお山」の花は、鶴の林を思い起こさせるのである。

 戸無瀬

 大堰川の上流、嵐山近くの地名。戸無瀬の滝は、櫟(くぬぎ)谷神社から100m余り上流に行ったところに、小さな沢となって残っている。岩にせかれて三段になって流れ落ちたと言うが、平安時代後期にはすでに、下の歌のように紅葉に埋もれて見えなくなるような小さな滝になっていたのだろう。

○大井川散るもみぢ葉に埋もれて戸無瀬の滝は音のみぞする (金葉集・巻第三・秋・253・大中臣公長)

作詞:世阿弥(一説に金春禅竹)
作曲:菊崎検校



【語注】



九重
 九層に分けられた天の一番高いところにあるという意味で、宮中を指す。
九重八重重ぬが縁語。⇒背景
花の八重桜 「八重桜の花」を倒置した詩的表現。
近衛殿の糸桜⇒背景


見渡せば
⇒背景
千本
 京都を南北に走る千本大通のこと。






毘沙門堂 京都東山の永観堂附近にあり、中世には桜の名所だったが、今は廃絶された。
四王天 須弥山(世界の中心にある高山で、頂上が帝釈天の居所)の中腹にある四種の天界。持国天・増長天・広目天・多聞天。その多聞天が毘沙王天王の居所。
黒谷
⇒背景
遍昭僧正⇒背景
鷲の御山
⇒背景

枯れにし鶴の林⇒背景
地主 清水寺の鎮守社、地主権現。清水の舞台を出て直ぐ左手にある。
音羽山 清水寺の背後の山。
嵐山 京都の嵯峨野の西にある山。紅葉の名所。
戸無瀬⇒背景 
大堰川 嵐山の麓を流れる川。上流は保津川、下流は桂川と呼ぶ。


井堰 せき。川の流れをせき止めた所。














いにしへの奈良の都の八重桜 奈良の八重桜が宮中に献上されたとき、作者が一条天皇の御前で即興で詠んだ歌。「青丹よし奈良の都は咲く花の匂ふがごとく今さかりなり」(万葉集・小野の老)を意識した表現。また、「いにしへ」と「今日」、「奈良」と「京」、「八重」と「九重」が対照された、理知的・技巧的な歌である。
匂ひぬるかな 完了の「ぬる」を「ている」と訳したのは意訳。




見渡せば 別出『青柳』
春の錦 都を取り巻く山の紅葉は、秋の錦と言い古されているが、それを踏まえ、柳と桜に春の錦を発見した感動。

















目次へ