【解題】
日本で、景勝地を賞(め)でることは、古来、「歌枕」の名で行われていた。『枕草子』にも、「関は、逢坂。須磨の関。鈴鹿の関。岫田(くきた)の関。…」などとある通り、それは、多くの歌に詠まれ、いつの間にか人々に知られるようになった、自然発生的なものだった。一つの地域の中から代表的な景物を「八景」などと称して選定するということは、室町時代、中国の洞庭湖周辺の名勝を選んだ「瀟湘(しょうしょう)八景」などを模倣して始まったようである。「近江八景」は、その比較的早い時代のもので、また、もっとも有名になったものである。近江に滞在した公卿の近衛政家(1445〜1505)が八景を選び、それぞれの景観を和歌に詠んだと言われる。その後、戦国時代を経て江戸時代となり、庶民の間に文化が広まると共に、「金沢八景」、「富岳三十六景」「東海道五十三次」などと、多くの名勝が絵画、双六、浮世草子(小説)などで持て囃されるようになった。「近江八景」が有名になったのも、江戸時代に、歌川(安藤)広重(1797〜1858)によって版画に描かれ、天保から安政ごろにかけて何種類も出版されたことが大きく影響しているだろう。
【解析】
○春秋の、 眺め 尽きせ|ぬ |にほの海、霞の|ひ ま|に|見わたせ|ば、波の|粟津 の|雲 晴れて、
春秋の 美しい眺めが尽き |ない| 鳰 の海を霞の|晴れ間|に|見渡す |と、波の|泡が漂う |
|粟津 の|雲が晴れて、
○千船百船(ちふねももふね) |打ち出での、浜をあとなる 追風に、真帆 あげ 帰る|矢走潟。
沢山の船 が湖に|乗り出す |
|打ち出での|浜をあとにした追風に、真帆を揚げて帰る|矢走潟。
○はや夕日 射す| 浦 | 々 |の、景色を |見つつ 渡るには、瀬田の長橋 |長から|
ず 、
<ナガ><ナガ>
はや夕日が射す|入江|入江|の|景色を味わって|見ながら渡るには、瀬田の長橋も|長くは|ない。
| しばらく |
○ 眺 むるうちに|三井寺の、入相 告ぐる|鐘の声| 。
<ナガ>
眺 めるうちに|三井寺の、夕暮れを告げる|鐘の音|が湖面に響く。
○比良の高根 は白雪 の、やや肌寒き|浦風に、落つる堅田の| かりがね|も、
比良の高嶺には白雪が積もり 、やや肌寒い|浦風に、落ちる堅田の|落 雁
|も、
○ 数さへ| |見えて |照る 月の、影も|さやけき|石山 や。昔|
その数まで|はっきり|見えるほど|照らす月の、光も| 明るい |石山寺!。昔、
|紫式部がここで月を眺めながら源氏物語を書き始めたという伝説|
○の|跡の偲ばれて、夜半の時雨も|唐崎の松に は 千代の |声す| なり 。
の|跡が偲ばれて、夜半の時雨も|唐崎の松に降る音は、千年の歳月を|語る|ように聞こえる。
○ 君が|みいつの|明(あき)らけく | 治まる|御代に|あふみ路|や、
大君の|御威光が|明 らかになり、四海治まる|
|明 治 の|御代に|遭う |
|
近 江路|よ。
○ 名に| 聞こえたる|八つの名どころ| 。
その名も|天下に聞こえた |八つの名 所 |である。
【背景】
近江八景の和歌八首
近江八景の和歌八首は、近衛政家が詠んだとされているが、確たる原典も写本もない。しかし、江戸時代に出版された版画の浮世絵の賛として多く残っている。ここでは、取り敢えず、滋賀県広報課発行の『ガイドブック滋賀』の本文を基準とした。
粟津の晴嵐(せいらん)
粟津は勢田の唐橋の北西約1.5km地点の湖岸で、東海道本線石山駅の北に地名が残っており、木曽義仲が最期を遂げた所としても有名。晴嵐は琵琶湖の西方の比良山脈から吹き降ろす、強い山おろしの風。
○雲 払ふ | 嵐 |につれて|百船も千船も |浪の|粟津 に|寄する
雲を追い払って|比良の峰おろし|が吹くと、百艘も千艘もの船が|波の|粟が漂う |
|粟津の入り江に|退避することよ。
矢橋(やばせ)の帰帆(きはん)
粟津の北東の琵琶湖の対岸に矢走帰帆島という島があるが、昔は浅い入り江(潟)で、矢走潟と言った。矢橋は、矢走とも書く。
○真帆 ひきて 矢橋に帰る 船は 今 |打 出 の浜を|あとの 追風|
真帆を揚げて、矢橋に帰ろうとする船は、今、|打ち出での浜を|
後 に、追風|を受けて
|出発する。
勢田の夕照(せきしょう)
勢田の長橋から見た夕日の光景。瀬田は勢田とも書き、長橋は唐橋とも言う。唐橋は、欄干を設けた中国風の橋の意。琵琶湖から流れ出る勢田川の入り口に掛けられた橋。京都から東国に抜ける旧東海道の要所だった。
○露時雨 |もる山 遠く過ぎ | 来つつ|夕日の|わたる |勢田の長橋
露時雨が木の葉の間を|漏る
| 守 山を遠く過ぎて|ここまで来て 、夕日が|一面に照らす|頃、
|
渡 る | |勢田の長橋である事よ。
三井(みい)の晩鐘
三井寺は天台寺門宗の総本山。壬申の乱(672)で敗れた大友皇子の霊を弔うために創建された。東海道線大津駅の北西約1km。琵琶湖を見下ろす長等山の中腹に広大な敷地を持っている。
○思ふ | |その暁 | ちぎる | はじめ とぞ|
愛し合う|二人が一夜を過ごした|その暁に|行末を約束する、その始まりがこの鐘の音かと!|思って、
○まづ| 聞く |三井 の入あひの| 声 |
まず| |三井寺の入
相 の|鐘の音を|
|一緒に聞くのだろうなあ。
石山の秋月(しうげつ)
○石山 や 鳰(にお)の海 照る |月 影 は|
石山寺! 鳰 の海を照らす|月の光に |霊感を得て紫式部は源氏物語を書き始めたが
今もその|月の光 は|
○ |明石 も|須磨 も|ほかならぬ | かな
源氏物語の|明石の巻の月の光も、須磨の巻の月の光も|そのままに澄み切っている|ことだなあ
石山寺は、瀬田の唐橋から南に1.3km。天平19年(747)良弁僧正が聖武天皇の勅願により開基したと伝える名刹。「にほの海」は、鳰(にお)鳥のいる湖の意で、琵琶湖の古名。
比良の暮雪(ぼせつ)
比良山地は、琵琶湖の西岸を北東から西南に連なる山地。暮雪は、夕暮の雪。
○雪 |古(ふ)るる |比良の高嶺の夕暮れは 花の盛り|にすぐる |春 |かな
雪が|消え残る |比良の高嶺の夕暮れは、花の盛り|に勝 る素晴らしい|春景色|だなあ。
堅田の落雁
○峯 あまた越えて|こし ぢ| に |まづ近き|堅田に|なびき |落つる| 雁がね|
|来し |
峯を沢山 越えて|きた |
| 越 路|からの旅で、目的地の近江に|まず近い|堅田で、列を傾けて|落ちる|落雁 |
|であることよ。
堅田は大津市の北15kmほど、琵琶湖大橋の西岸の土地。
唐崎の夜雨
○夜の雨に|音 を |ゆづりて|夕 風を|よそ に|ぞ| 立て| る|唐崎の松|
|音を響かせること は|
夜の雨に| |任せ て、夕暮れの風を|知らぬげに|!|静かに立っ|ている|唐崎の松|
|であることよ。
志賀の唐崎は 古来から有名な歌枕で、大津市の北7kmほどの琵琶湖畔の土地。著名な文人たちが歌や句を残している。唐崎の松は、現在、唐崎神社の境内にある。
○唐崎の松は扇の要にて漕ぎゆく船は墨絵なりけり 伝紀貫之
○唐崎の松は花より朧にて 芭蕉
○短夜や一つあまりて志賀の松 蕪村
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作詞・福城可童
作曲・山登万和
【語注】
打ち出での浜 粟津の北西約3km、東海道本線膳所(ぜぜ)駅の北あたりの湖岸。
真帆 帆を船の進路と直角に大きく広げ、追い風を帆の全面に受けて走るときの帆の形。これに対して、横風を受けるために斜めに張った帆を、片帆と言う。
落つる…かりがね 雁は編隊を組んで飛ぶが、沼地や湖に降りる時は、編隊を解いて急降下する性質がある。これを落雁と言う。安藤広重が浮世絵のテーマに好んで取り上げている。
声すなり 「なり」は伝聞推定。
真帆 上記注参照。
守山 琵琶湖の東岸、草津の北東5kmほどの地名。
思ふその… 作者は、入相の鐘の音を聞きながら、愛し合う男女が、夕方から明け方まで一緒に過ごし、明け方に愛を誓い合って、悲しい別れをするというストーリーを想像している。
雪古るる 「古るる」は「古る」(上二段)の連体形。
落つる雁がね 「雁がね」は「雁」また「雁の鳴き声」。
よそにぞ立てる 『ガイドブック滋賀』では、「よそにそだてる」となっている。
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