高麗(こま)の春

【解題】

 作詞者の石橋令邑は、都山流尺八家で、朝鮮に住んでいた人。
 朝鮮の田舎の冬から春へ移り変わる風情を描いた曲である。三曲合奏形態で作曲されているが、内容には新しさが盛り込まれている。曲の構成は、これも古典的な手事物形式によっていて、「前奏(前弾)−前歌−手事−後歌」となっている。
 前奏は、高麗(即ち朝鮮)の冬の風を象徴し、前歌では、冬から春への移り変わりを歌詞にそって表現し、手事の部分では、朝鮮の砧(朝鮮の婦人が川端で衣類を洗う折に用いる水砧)、朝鮮の民謡などを取り入れて変化に富ませ、後歌では、歌詞にそって漸くうららかになる朝鮮の春の様子を表現している。(レコード『宮城道雄作品大全集』(1994年刊行・ビクター社)の吉川英史氏の解説による)


析】

○冬ごもり|春 さり 来れば 高麗の山    装ひ 凝らす。 白妙の雪も|いつ   しか|
     |春になって来ると、高麗の山々が春の装いを凝らす。真っ白な雪も|いつの間に か、

○むら  消えて| 末は  逢はんと、雪解水(ゆきげみず)|流れてやまぬ 山の峡(かひ)。
 まだらに消えて|行末は海で逢おうと、雪解水となって   |流れてやまない山の狭間である。

○儒              臣  の夢も|滅びては 草 萌え |しるき 墓どころ|    。
 儒学をもって李氏朝鮮に仕えた廷臣たちの夢も|滅びて!、草の繁茂が|著しい|墓 所 |も見える。

○ 里に出づれば|いささ川   、えにしも知らず |     往き通ふ|石橋(いわばし)渡る|
 人里に出る と、浅い小川が流れ、見知らぬ者同士が|譲り合って往き通う|石橋     を渡る|

○鄙  人(ひなびと)に  |  隔てもおかぬ|   御恵み や 。
 田舎の人      にまで、分け隔てもしない|大君の御恵みである。

○うららか さ  、ひねもす| 岸に衣(きぬ)洗ふ|高麗 乙女ら が水砧(みずぎぬた)   。
 うららかなことよ、一日中 |川岸で衣類 を 洗う|朝鮮の婦人たちの水砧       の風景。

○城外の春|風 光り     、     続く芝山 |そちこちに、干す白衣(しらぎぬ)の|
 郊外の春、風は光るように吹き、なだらかに続く芝山の|そちこちに、干す白衣      の|

○ひま 縫うて   行く水 |早 も|ぬるみ     けり 。
 間 を縫って、流れ行く水は|早くも|温かくなり始めたことだ。

【背景】

 冬ごもり 春去り暮れば

 
近江大津宮に天の下知らしめしし天皇の代 天命開別天皇(あめみことひらかすわけのすめらみこと)、諡(おくりな)して天智天皇と言ふ。

 天皇、内大臣藤原朝臣に詔(みことのり)して、春山の萬花の艶(にほひ)と秋山の千葉(せんえふ)の彩(いろどり)とを競憐(きほ)はしめたまふ時、額田王(ぬかたのおほきみ)、歌を以ちて判(ことわ)る歌。

○冬ごもり|春 さり 來れば|   鳴かざり し鳥も來 鳴きぬ|   咲かざり し花も咲け  れど
     |春になって来ると、冬の間鳴かなかった鳥も来て鳴くし、今まで咲かなかった花も咲いているが、

○山を    茂み     |入りても取ら    ず|草 深 み    取りても見     ず
 山には木々が茂っているので、入って 取る事も出来ず、草が深いので、手に取って 見る事も出来ない。

秋山の木の葉を見 て は|黄葉(もみぢ) をば|  取りてぞ|しのふ   
 秋山の木の葉を見るときは|黄葉した木の葉をを!|手に取って!|美しいと思う。

○青き をば     置きてそ嘆く   そこ し   恨めし     秋山      われは
 青い葉 は そのまま置いて!嘆息する。そこがちょっと残念 、けれど、秋山を選びます、私 は。

                               (万葉集・巻第一・16・額田王)

 末は逢はん


○ 瀬   を速 み |岩にせか   るる|滝川の|
 川瀬の流れが速いので、岩に堰き止められる|急流が、

○       |われても|         |末(すゑ)に |  |逢は   んとぞ|思ふ
 一時は    |別れても|また合流するように、
  今 はあなたと|別れても、         |将来    は|必ず|一緒になろうと!|思います。

                              (詞花集・巻第七・恋上・229・宗徳院)

 儒臣の夢

 一般に、朝鮮は儒教の国だったと常識のように言われているが、実は朝鮮で儒教が国教となったのは李氏朝鮮の時代で、それ以前の朝鮮に現れた国家、古くは日本の聖徳太子などの時代の高句麗・任那・百済、668年に半島を統一して 935年まで続いた新羅、平安時代から鎌倉時代にあたる高麗(936〜1392)などでは、民衆はむしろ仏教やシャーマニズム、風水などを信じて暮らしていた。

 李氏朝鮮は太祖李成桂が朝鮮半島から蒙古軍を追放して 1392年に建国、1910年に日本に併合されるまで、五世紀以上続いた。この王朝の二代王、太宗(在位 1418〜1450)の時代に、儒教が国教に制定された。その後、歴代の朝鮮王はこの政策をとり続けたので、儒教の時代は五世紀近く続き、朝鮮の社会に深く根付いたのである。

 この間、朝鮮における儒教教化は、上からの政策として、徹底的に推し進められ、仏教は弾圧され、仏寺は破壊された。朝鮮における儒教は、日本人や中国人が一番親しんでいる孔子や孟子の儒教ではなく、朱子学である。朱子学は人間の自然な感情を重視するより、儒教の経典どおりに行動することを求める。王と儒臣たちは、儒教の経典に書かれた徳目を徹底的に実践することによって、自国を中国以上の儒教国家、つまり理想の文明国にすることを目指した。これが「儒臣の夢」である。

 
水砧

 昔は、衣類を洗濯するとき、一旦反物の状態に戻し、艶を出すために棒に巻き付けるなどして叩いたが、「砧」は、そのための台や棒のこと。この風習は日本では明治時代には廃れたが、朝鮮には残っていた。「高麗の春」の作曲者宮城道雄の砧を題材にした名曲『唐砧』も、その音を聞いた印象を作曲したものである。画像は、戦前の写真で、水砧を打つ朝鮮人の親子。
            


作詞:石橋令邑
作曲:宮城道雄
作曲年代:昭和六年








【語注】


冬ごもり
 「春」に掛かる枕詞。
春さり来れば サルは移動する意。去るにも来るにも用いた。⇒背景
末は逢はん⇒背景
儒臣の夢⇒背景








水砧⇒背景


城外 城とは、中国では本来城壁のことを意味し、外敵の侵入を防ぐために都市や村などの全周を囲む防御施設を指すことが多い。中国語では都市のことを城市と言う。簡単に言うと、城とは町ということである。日本は島国で、遊牧民などが侵入する可能性がなかったので、市街を囲む城壁は普及しなかった。朝鮮でも事情は中国に似通っていた。「城外」は、「町を囲む城壁の外」つまり郊外である。
内大臣藤原朝臣 藤原鎌足のこと。
額田王 万葉集を代表する女流歌人。鏡王女の妹。大海人皇子(後の天武天皇)の妃となり、十市皇女をもうけるが、後に天智天皇の妃となった。












せかるる 「せか」は「堰く・塞く」(水などを塞き止める)の未然形。「るる」は受身の助動詞「る」の連体形。
滝川 古語における「滝」とは急流のことで、必ずしも現代の「滝」とは限らない。現代の「滝」に相当する語としては「垂水(たるみ)」が使われた。ここでは滝川は、男女の恋の激情の比喩としても使われている。


































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