菊の露
【解題】 地歌のなかでも、歌を主とした「端歌」ものとして有名な曲。秋の夜、去っていった恋人を思い、男と女の間を隔てる深く暗い川を思う。また、櫓楫を失って広い海に漂い、生きる甲斐さえもなくした人生を思う。秋風の音に恋人の訪れを予感した昔を偲び、今、同じ秋風の音に、捨てられたわが身の悲しさをしみじみと実感する。 文楽に、お里と沢市の夫婦愛の話として人々に親しまれている「壷坂霊験記」という話があるが、その中で盲目の沢市が一人さびしく爪弾く曲がこの「菊の露」である。 【解析】 ○ |鳥の声、鐘の音| さへ |身に泌みて、 |思ひ出すほど |涙が先へ 、 秋風が身に沁みる、 |その上| |鳥の声や鐘の音| まで |身に沁みて、去って行った人を|思い出すうちに、涙が先に立って| ○ |落ちて流るる|妹 背(いもせ)の川|を| 戸 |渡る舟の|かぢ|だに|絶えて、 |落ちて流れる。 その|落ちて流れる|女と男の間を隔てる川|を、瀬戸を|渡る舟が| 楫 |さえ|失って、 ○ |かひもなき| 世| と| |恨みて| |過ぐる 。 | 櫂 もない、 また、生きる|甲斐もない|この世|だなあと|あの人を|恨んで|月日が|過ぎるばかり。 ○ |思は | じ |な、逢ふは別れ と言へども |愚痴に 、 あの人を|思うのは|やめよう|! 逢うは別れの始めだから、と言っても所詮は|愚痴になってしまう。 ○庭の小菊のその 名に|愛(め)でて、晝は |眺め |て暮らしもし | よう が、 庭の小菊のそのかわいい名に| 魅かれ て、昼はそれを|眺め 、 |思いにふけっ|て暮らしもする|だろうが、 ○夜(よる)々ごとに|置く 露の、露の 命の| つれ な| や、憎 | や。 夜ごと 夜ごとに|置く、その菊の露の、露のような私の命の|ままならぬ|ことよ、憎い|ことよ。 ○今は|この身に | |あき |の風 。 今は、 |あの人には|飽きられて| |この身にはただ| | 秋 |の風が訪れるばかり。 【背景】 と渡る舟の楫だに絶えて ○由良の| 戸|を 渡る 舟人 |楫を絶え 由良の|瀬戸|を漕ぎ渡って行く舟人が|楫を失って、海に漂うように、 ○ ゆくへも|知ら |ぬ | 恋の道| かな これからのゆくえも|わから|ない|私の恋の道|であるなあ。(新古今集・巻第十一・恋一・1071・曽根好忠) 夜々ごとに置く露の ○ 音に|のみ | きくの|しら露| あなたのことを噂に| | 聞く | |だけで、 |逢うことが出来ない私は、 |その 菊 の| 白 露|のように、 ○夜(よる)は| おきて |昼は 思ひに|あへ ず|消(け)| ぬ |べし 《火》 《消》 夜 は|花に 置くように、 |寝られずに起きていて、昼は恋しい思いに|耐えきれず、消え |てしまい|そうです。 (古今集・巻第十一・恋一・470・素性法師) 秋の風 「秋風」に「飽き」を掛けた例として、次の歌がある。 ○荻原(をぎはら)や|余所(よそ)に |聞き |こ|し| |あき|の風| 荻原に吹く !| | 秋 |の風!それが| |あの人に|飽き|られる前兆だなんて| |余所ごとだと思って|聞いて|い|た、しかし、今はそれが現実になり、 ○もの思ふ| 暮れ|は我が身一つに| もの思う|夕暮れ|は 自分 一人に|すべての秋の辛さ、悲しさがが押し寄せることよ。 (水無瀬恋十五首歌合・藤原良経) |
作詞・ふくしん 作曲・廣橋勾当 【語注】 さへ 添加の副助詞。同種の物を付け加える意味を表す。 妹背の川 男女の間の隔たりを川にたとえた言い方。 と渡る舟の楫だに絶えて⇒背景 楫(かぢ) 水を掻いて舟を進める道具一般。櫓(ろ)や櫂(かい)など。 櫂(かひ) 棒の半ばから下を平たく削り、水を掻いて舟を進める道具。オール。 逢ふは別れ 仏教の「会者定離」を典拠とする語。この世は無常で、会った者は必ず(定)離れる運命にあること。 夜々ごとに置く露の⇒背景 あきの風⇒背景 由良のと 「由良」は京都府の由良川が若狭湾に流れ込むあたり。「と」は「瀬戸」「門(と)」で、海峡・川口。 火と消は縁語。 わが身一つに 「月見れば千々にものこそ悲しけれわが身一つの秋にはあらねど」(古今集・193・大江千里)を踏まえる。 |