菊の薫(かをり)

【解題】

 今井慶松が、恩師の初世山勢松韻の追善曲として作曲した曲。歌詞からも七回忌の時のものと思われる。

【解析】


○桐 一葉、落ちて|まず|知る   |秋の色  、
 桐の一葉が落ちて、まず|     |秋の気配を、
            |知るように、     |わずかな変化から衰亡の兆しを感じ取るものだが、
              

○さ らぬ  も|  ものは悲しき に、松    の韻(ひびき)の 音 絶えし   、
 そうでなくても|秋はもの 悲しいのに、松に吹く風の韻(ひびき)の 音も絶え    、
                   |松     韻先生   のお声も絶えたことに、

○  恨みも|いとど |長 月        や、その九日ぞ偲ばるる、重陽の佳節、後朝(こうちょう)の宴、
 私の恨みも|いっそう|長く晴れぬことになった |
           |長 月        !|その九日が偲ばれる、重陽の佳節と翌日       の宴、

○酒は     薬と|   菊 の水 、                 千代の齢も延ぶ べき     に、
 酒は不老長寿の薬と|  聞く  が、
          |その 菊  水を飲んで不老長寿を得た菊慈童のように、千年も齢を重ねて頂きたかったのに、

○はかなく消えし      |露の玉    、    |飽かぬ別れを嘆きては、声の限りを|ふりいでて、
              |露の玉のように|
 はかなく消えられてしまった。       |先生との|飽かぬ別れを嘆いて 、声の限りを|振り絞って、

○鳴く    や|鈴虫、くつわ虫    、      |   七尺去りて  |影 踏ま   ぬ    、
 鳴く     |鈴虫、くつわ虫のように、先生を偲んで|
 泣くばかりです。                  |弟子は七尺去って師の|影を踏むべからずというが、

○それは   在りし世   、今ここに、    七年(ななとせ) 過ぎし   思ひをば、
 それは先生が在りし世のこと、今ここに、あれから七年      が過ぎた弟子の思いを!、

○糸の調べに   | 聞こえ んと、まがきに匂ふ白菊の、その一本(ひともと)を      手向くれば、
 糸の調べに託して|お伝えしようと、まがきに匂う白菊の、その一本      を先生の仏前に手向けると、

○花橘に あらね ども、昔の人の|袖の香  ぞ|する          。
 花橘ではないけれども、先 生の|袖の薫りが |匂うような気がいたします。

【背景】

 桐一葉、落ちて

 「一葉(いちよう)落ちて天下の秋を知る」という句が、北宋の詩話「文録」に唐詩の一句として引用されている。「梧桐(あおぎり)の葉が一枚落ちるのを見て、秋の来たことを知る」の意。この句は「准南子」説山訓の「一葉落つるを見て、歳の将(まさ)に暮れんとするを知る」のバリエーションだが、微細な現象に衰亡の兆しを見て取る比喩として、その後広く流布している。日本では同じ意味をあらわす「桐一葉(ひとは)」という表現もよく用いられ、俳句の歳時記では初秋の季語とされている。

 松の韻

 初世山勢松韻のこと。弘化2(1849)年〜明治41(1908)年。命日は九月九日で、たまたま重陽の節にあたる。墓は谷中の永称寺にある。山田流箏曲の演奏家・作曲家。山田流流祖直門三家の一つ山勢派の三代目。明治12年に設立された文部省音楽取調掛にその翌年から出仕、後に東京音楽学校となったさい教授に就任。西洋音楽理論を学ぶ一方、箏曲の改良、五線譜化にも尽くした。「都の春」「花の雲」「朧月」などの作品を残した。門下から初世萩岡松韻・今井慶松(1871(明治4)年〜1947(昭和22)年)・佐藤美代勢などが出ている。山勢派の会を、初代松韻の命日にちなんで『重陽会』と言った。二世松韻(大正5(1916)年〜)は、本名木原良子。三世松韻は、本名木原司都子。(吉川英史監修『邦楽百科事典』による)

 重陽の佳節

 重陽の節は九月九日で、菊の節句とも言う。中国に興った陰陽道では、すべてのものを陰と陽に分けて考え、その調和ある状態が最良であり、また、陰と陽が乖離した状態は悪い状態と考える。人間の男は陽、女は陰、また、上は陽、下は陰、表は陽、裏は陰。わが国では神社での祭りや祈祷に限らず、一般の風習にもその影響が色濃く遺っている。また、「風水(ふうすい)」も陰陽道を元としている。

 天は陽、地や海は陰、丸は陽、四角は陰。数字では奇数が陽、偶数が陰。一月一日(元旦)、三月三日(桃の節句)、五月五日(端午の節句)、七月七日(七夕)などは、陽数の重なった、陽気の強い日であり、技芸の向上や人生や生活の幸いを祈る祭りの日である。その中でも、九月九日は、最大の陽数(奇数)の九を重ねためでたい日で、「重陽(ちょうよう)」あるいは「重九(ちようく)」と言われ、中国の漢時代にはすでに始められていた。それがわが国に伝えられ、年中行事として行われるようになった。

 この頃咲く菊はその美しさと香(かおり)の高さから辟邪(へきじゃ)、辟病(へきびょう)に用いられた。中国の後漢末の『芸文類聚』の「菊」の条には、菊が滋液(じえき)であることが記述されている。それには南陽(河南省)の「れき県」の甘谷というところに住居する人々は皆が長命であり、それは菊の慈液を飲んでいたからであるとされている。そこの水源は菊で一面掩(おお)われており、その滋液を含んだ水を常飲している人々は、上は120〜30歳、普通でも百余歳は生き、70〜80歳で死ぬ者は大夭(たいよう=若死わかじに)といった、とある。

 わが国でも、菊花の宴には「菊酒(菊花酒)」を飲んだり、「菊綿(きくわた)」すなわち「菊の着せ綿」が古くから行われてきた。

○九月九日は、暁より雨すこし降りて|菊の   露もこちたく、  覆ひ た る|綿なども|いたく濡れ、
                 |菊に掛かる露も多く  、花を覆っている|綿なども|ひどく濡れ、

○  移しの香も、      |もてはやされて、つとめては  やみにたれ  ど、なほ、曇りて  、
 菊の移り 香も、湿気のために|ひきたてられて、 早朝 は雨が止んでいるけれど、まだ|曇っていて、

○やゝもせ ば、降り落ち ぬべく |見えたる     も、をかし  。
 ややもすれば、降り落ちてきそうに|見えているような時も、風情がある。(枕草子・七段)

 「菊綿」は、八日に菊の花の上に真綿(まわた)をかぶせ、その菊の露にぬれた綿で九日朝、肌をなでれば若返ることができるといい、平安時代の女房の間で多く行なわれていた。『源氏物語』や『紫式部日記』にもこれに関する記事がある。

 後朝の宴

 「後朝」は「きぬぎぬ」と読むこともある。これは、男女が衣と衣を重ねて共寝をした翌朝、めいめいの着物を着て、別れること、また、その朝を言う。本来の表記は「衣衣」で「後朝」は当て字である。しかしここでは「こうちょう」と読み、翌日の意味で使われている。平安時代、重陽の節の翌日の九月十日に「重陽後朝の宴」と称して宮中で宴が開かれたことが菅原道真の次の詩などから窺える。道真は延喜1(1901)年、右大臣から太宰権帥に左遷されたが、これは翌年の九月十日に作ったものである。

○九月十日

○去年の今夜  清涼 に     |待し

 去年の今夜は、清涼殿で醍醐天皇に|付き従い

○ 秋思 の  詩篇                 |獨り|斷腸
 「秋思」という詩篇を書いてお褒めに預かったが、今年は|独り|断腸の思いで悲しみに暮れている。

○恩   賜 の御衣 今| 此 に在り
 天皇から賜った御衣は今、ここにある。

○捧 持して|毎日|餘 香を|拝す
 捧げ持って、毎日、残り香を|拝している。

 酒は薬と菊の水

能の枕慈童(菊慈童)の要点を紹介する。

 昔、魏の文帝が、自分の領内に不老不死の湧き水が出るという噂を耳にし、家来に探しに行くように命じた。家来は、苦労を重ねて、山奥のある里にたどり着いた。すると、顔や姿は子供だが、髪がぼうぼうに伸びた少年が現れ、「実は自分は七百年前に周の王に仕えた侍童であるが、誤って王の枕を蹴ってしまい、死罪になるところを減刑されて、枕と共にこの山中に流された。そこは菊の花が咲き乱れる里であった。その時、王がその枕に二句の経文を書き付けて下さった。この枕をご覧なさい。」と言う。家来が見ると、確かにその通りだった。…

○此の妙文(めうもん)を菊の葉に置く、滴(したゞ)りや露の身の、不老不死の薬となつて七百歳を送りぬる。

○汲(く)む人も汲まざるも、延(の)ぶるや千年(ちとせ)なるらん。おもしろの遊舞(いうぶ)やな。

○ありがたの妙文やな、すなはち此の文菊(ぶんきく)の葉に、悉く現る。

○さればにや、雫(しづく)も・芳(かうば)しく、滴(したゞ)りも匂ひ、淵ともなるや。

○谷陰の水の、処は「れき県」の山の滴(したゞ)り、菊水の流れ。泉はもとより酒なれば、酌みては勧め、

○掬(すく)ひては施し。我が身も飲むなり、飲むなりや。


○月は宵の間(ま)、その身も酔(ゑ)ひに、引かれてよろよろよろよろと、たゞよひ寄りて、


○枕を取り上げ戴(いただ)き奉り、げにも有難き君の聖徳(せいとく)と、

○岩根(いはね)の菊を手折(たを)り伏せ手折り伏せ、敷妙(しきたへ)の袖枕、


○花を筵(むしろ)に臥(ふ)したりけり。


 七尺去りて

 『実語教 童子教』(文化十一年・江戸鶴屋〈仙鶴堂〉板)に、次のような一節がある。

○一日に一字を学べば  三百六十字
○一字千金に当り  一点他生を助く
○一日の師をも疎(おろそ)かにせざれば  況(いはん)や数年師をや
○師は三世(さんぜ)の契り  祖は一世(いつせ)の眤(むつみ)
○弟子七尺(しちしやく)を去つて  師の影を踏むべからず

一行目と二行目は、歌舞伎の『寺子屋』にも引用されている。

 花橘

皐月(さつき)待つ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする(古今集・巻第三・夏・139・読人知らず)

作詞:高野辰之
作曲:今井慶松


【語注】


桐一葉、落ちて⇒背景




松の韻⇒背景



長月 旧暦では文月(七月)・葉月(八月)・長月(九月)が秋。
重陽の佳節⇒背景
後朝の宴⇒背景







七尺去りて⇒背景









花橘⇒背景









































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