石山源氏・下

【解題】
 
 歌詞は、謡曲『源氏供養』からの引用だが、謡曲のこの部分は、鎌倉中期の人、安居院法印聖覚の手になる「源氏物語表白」を引用して作られている。特に桐壷の巻から末摘花の巻まで「表白」をほぼそのまま引用している。源氏物語表白は源氏物語五十四帖の巻名を連ねた表白文で、表白とは、法会や修法を行う時、その趣旨を本尊と大衆に告白すること、また、その告白文である。

【解析】


○そもそも|      桐壺(きりつぼ)の|          、      夕(ゆうべ)の  煙 、
 そもそも|光源氏の母の桐壺の更衣   が|源氏三歳の時亡くなり、火葬にされた夕暮    のその煙は、

○すみやかに|法性(ほうしょう)の空にいたり 、
 すぐに  |真如の悟り    の空に昇ったが、そのように、人は最後は成仏するのである。

箒木(ははきぎ)の 夜の              |言の葉       は、
 帚木の巻    の雨夜の品定めの場面で、貴公子たちは|恋の体験談を交わしたが、そのような華やかな恋も、

○終に  |覚樹(かくじゆ)の花     |散り| ぬ         。
 やがては|菩提樹     の花 のように|散っ|てしまう   のである。
     |悟りを開いた人、 釈尊でさえも|死を逃れられなかったのである。

○                                   |空蝉(うつせみ)|の
 薄衣(うすごろも)一つを蝉の抜け殻のように残して、源氏の誘惑から逃げた|空蝉の女    |のように、

○         |空しき|この世を|厭(いと)ひては、
 蝉の脱け殻のような|空虚な|この世を|捨    てて 、

夕顔の  露の       命を      |観じ、若|紫の雲を 迎へ 、
 夕顔の女の露のようにはかない命を人生の真実と|悟り、 |紫の雲をお迎えし、それに乗せられて極楽に行って

末摘花(すえつむはな)  の台(うてな)に|座せ     ば、
 末摘花ならぬ    蓮の花の台     に|座ることになれば、

紅葉の賀      の|落葉       も、      よし  やただ、
 紅葉の賀の巻に描かれた|落葉となって散っても、それはそれでよいことよ ! |

○たまたま仏 意 に| 会ひ |ながら 、賢木葉の|   | さして|  往生を願ふ|べし  。
                    
《賢木》      《挿し》
                    
<サ>       <サ>
 たまたま仏の教えに|出会った|からには、    |一筋に|目指して、極楽往生を願う|のがよい。

○   花 散る 里 に住むと ても、    愛別離苦の|ことわり   、免れ難き道とかや|     。
 美しい花の散る現世に生きていても、人間は、愛別離苦の| 道 理 からは|免れ難い道とか |言うことだ。

○ただ|す べからくは、   生死   流浪の    |須磨の浦を  出でて、
 ただ|なすべき 事は、源氏も生死の境を流浪したような|須磨の浦を抜け出 て、

○四智円明(みやう)の明石の浦に|みを  つくし 、いつまでも       |あり| な |む    。
                
| 澪  標   |
 四智円明     の明石の浦に|身を捧げ尽くして、いつまでもそういう境地で|  |ぜひ|
                                      |い |  |たいものだ。

○ただ蓬 生(よもぎふ)の|宿        ながら、     |菩提の道    を|願ふべし   。
 ただ蓬の生い茂る荒れた |宿のようなこの世にいても、あの世では|悟りの道に入るのを|願うべきである。

○    松風の吹くとても、 業 障(ごうしよう)の  |薄雲は|晴るる事 |更に |なし。
 どんなに松風が吹い ても、悪業の障害      という|薄雲は|晴れる事が|決して|ない。

○          |秋の風  消えずして、紫磨    |     忍辱(にんにく)  の|
 仏の智恵のかがり火は、秋の風にも消えず  、紫磨の仏体に|何事も耐え忍ぶ      仏心の|

藤袴        。           上品 蓮 台(じょうぼんれんだい)に|心をかけて、
 法衣を着けておられる。極楽の最上の階級である上品の蓮の台(うてな)に座することを|心 がけて、

○誠  ある  |七宝 荘厳     の|真木柱    の下に|行か    む。
 真実のこもった|七宝で荘厳に飾られらた|  柱の御殿、極楽に|生まれ変わろう。

梅が枝の  匂ひに|    移る    我が心   。藤の裏葉に置く露の、その  玉葛(たまかずら)|
 梅の枝の花の匂いに|引かれて変わりやすい我が心である。藤の裏葉に置く露の、その露の玉       は|

○欠け|しばし   、   朝顔の    光           |   |たのまれず  。
   |しばしの間に|
 欠け|      、また、朝顔の花も日の光にたちまちしぼむように、人生は|頼りないものだ。

○朝には、   栴檀(せんだん)の   陰に宿木(やどりぎ)、名 も|高き  、つかさくらいを|   、
 一時は、芳しい栴檀      で作った家に住み      、名声も|高くても、
                                  |高い  | 官  位 を|捨てて、

東屋      の内に込めて、楽しみ 栄(さかえ)を|浮舟          に|喩ふべし とかや 。
 東屋のような粗末な家に暮らし、楽しみや栄華    を|浮舟のように沈みやすい物と|思うべきだとか言う。

○これも|             蜻蛉(かげろう)の  身  |なるべし 。
  私 も|朝に生まれ夕べを待たず死ぬ蜻蛉   と同じような身の上|なのだろう。

○狂言 |綺     語(きぎよ)を|振り捨てて、      助け|給へ と|     | 諸 共 に、
  嘘 や|美しく飾った言葉    を|振り捨てて、ただ来世をお救い|下さいと、法印と式部|二人一緒に、

○鐘 |打ち鳴らし |回向も既に|終わり|ぬ。
 鐘を|打ち鳴らして|回向も既に|終わっ|た。

○よくよく|         物 を|案ずるに、紫式部と     | 申し |し は、
 よくよく|源氏物語が書かれた意味を|考えると、紫式部と世間の人が|お呼びし|た人は、

○かの石山の観世音   、仮に       |この世に現れて、
 あの石山の観世音菩薩が、仮に人の姿を借りて|この世に現れて、

○ かかる | 源氏の物語        、これを思へ ば|夢の         |  世 と、
 このような|光源氏の物語をお書きになった、これを考えると、夢のようにはかないのが|人の世だと、

○人に知らせ|む    |御方便   、 げ に|         有難き   誓ひ   かな。
 人に知らせ|んがための|御方便であり、本当に|衆生を救おうという有難い御仏の誓いであるなあ。

【背景】

 桐壺の夕の煙

○限り  あれ   ば 、例の作法 に|  をさめ|たてまつるを、   母 北の方 、
 決まりのあることなので、作法どおりに|墓に 納 め|申し上げるが、更衣の母の北の方は、

○             |同じ煙に     のぼり|な|む|と|泣きこがれ|たまひて、…
 娘の更衣の亡骸を焼く煙りと|同じ煙になって空へのぼり|た い|と、泣き焦がれ|なさって、…
                                         (源氏物語・桐壺)

 「桐壺」は源氏物語の巻名。以下、下線部は源氏物語の中の巻名で、まとめると次のようになる。

 1、桐壺   2.帚木  3.空蝉  4.夕顔  5.若紫  6.末摘花 7.紅葉の賀 10.賢木
11.花散里 12.須磨 13.明石 14.澪標 15.蓬生 18.松風 19.薄雲   30.藤袴
31.真木柱 32.梅枝 33.藤の裏葉     22.玉葛 20.朝顔 49.宿木   50.東屋
51.浮舟  52.蜻蛉

 空蝉の空しき…

 「空蝉」は蝉の抜け殻、また、転じて蝉。中が中空であることから、空虚なこの世の喩えられる。

○空     蝉の|身を変へ   | て  ける|  木(こ)のもとに|
      《蝉》
       蝉が|
 抜け殻を残し  |姿を変えて去っ|てしまった |後の木   の 下 で、

○          |なほ |    |人がらの|なつかしき    |かな 
                     
《殻》
 もぬけの殻となっても|やはり|あの人の|人 柄 が|なつかしく偲ばれる|ことよ。(源氏)

○空蝉の羽に置く露の   |木(こ)隠れて|   忍び忍びに|  濡るる|  袖   かな
  蝉の羽に置く露のように、木陰に 隠れて|人目を忍びながら|涙に濡れる|私の袖であることよ。(空蝉)

 愛別離苦

 仏教では「生・老・病・死」の四苦に「愛別離苦(あいべつりく)」:愛する者と別れなければならない苦 「怨憎会苦(おんぞうえく)」:怨み憎む人と出会わなければならない苦 「求不得苦(ぐふとくく)」:求めても得られない故の苦、すなわち希望が達せられない事から起こる苦 「五陰盛苦(ごおんじょうく)」:視覚、認識などの心理作用が盛んなるゆえに湧き起こる苦悩
を加えて、人生の「八苦」としている。

 蜻蛉の身

○ 命 あるものを見るに、人ばかり|久しき   は|  なし。かげろふの|夕(ゆふべ)を待ち   、
 生命があるものを見ると、人間ほど|長生きなものは|他にない。 蜻蛉 が|夕方    を待たず死に、    

○夏の蝉の|春 秋を知らぬ     も|ある  ぞかし。
 夏の蝉が|春や秋を知らないなどの例も|あるほどだ ! 。(徒然草・第七段)

 観世音

 「観世音」とは、世の人の声を観取する意と言う。観世音菩薩は、人々の心の中の願い、祈り、声なき声までも聞き取り、救ってくれるというのが観音信仰である。

 有難き誓ひ

 釈尊も偈をもって「観世音菩薩は、その場その場に応じた方法で人々を救いたいという誓いは海のように深く、到底考え及ぶことは出来ない。観世音菩薩は多千億の佛に仕えて大清浄の願いを起こしたのある。」と述べ、多くの譬えをもって観世音菩薩の力を説く。(
観世音菩薩普門品第二十五・)

作詞:金春禅竹(一説)
作曲:千代田検校




【語注】


桐壺の夕の煙⇒背景


法性 一切の存在の真実の本姓。真如。実相。








空蝉の空しき…⇒背景





紫の雲 紫雲。念仏行者の臨終の時、仏が浄土から紫の雲に乗って来迎し、霊香が香り、虚空には音楽が聞こえると言う。





賢木挿しは縁語。
賢木葉のは、頭韻で「さして」を導く語。


愛別離苦⇒背景





四智円明 『明石』の背景参照。






業障 悪業を作って正道をじゃますること(広辞苑)

秋の風消えずして 表白には「智恵の篝火に引かへて野分の風に消ゆることなく…」とある。
紫磨 しま。紫磨金・紫金・紫磨黄金とも言う。紫に磨き上げた最上の黄金のこと。
藤袴 秋の七草の一つ。名前の通り、花弁が藤色で袴のような形をしている。
上品 極楽浄土には上品・中品・下品の三つの階級があり、それぞれが上生・中生・下生の三つに分かれている。これを九品と言う。
七宝 金・銀・瑠璃・玻璃・しゃこ・珊瑚・瑪瑙。
栴檀 センダン科の落葉高木。香気を持つ。







蜻蛉の身⇒背景











観世音⇒背景





有難き誓ひ⇒背景
























空蝉
は縁語。

































観世音菩薩普門品
 略して観音経と言う。妙法蓮華経の一品。

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