菜蕗

【解題】

 この曲は長く八橋検校の作曲と伝えられていたが、近年、筑紫流箏曲を補正したものであることが分かった。一名「越天楽」と呼ばれるのは雅楽の越天楽の旋律を箏曲化したからである。

【解析】


 
第一歌

○ 菜蕗(ふき)と言ふ も|草の名、茗荷(めうが)と言ふ も|草の名、
 |富貴|            |冥加|
  菜蕗    というのも|草の名、茗荷     というのも|草の名、

○ 富   貴  |自在    、   徳  ありて、 冥加(みやうが)あら |せ|給へ|や。
 
財貨と地位が|自在に備わり、神仏の恵みがあって、御加護    が|ございますように|!

 
第二歌

○春の花の     琴曲(きんきよく)、和風楽(くわふうらく)に柳花苑(りうくわゑん)   、
 春の花にふさわしい琴曲      は、和風楽        に柳花苑        であり、

○柳花苑     の|鴬は     同じ   |    曲を|囀(さへづ)る。
 柳花苑で囀っている|鶯は、囀る鶯と同じ趣向の|春鶯囀の曲を|囀っているのだ。

 第三歌

○月の前の  調 は 夜寒を告ぐる|秋風   、

 月 夜の琴の調べは、夜寒を告げる|秋風 の音で、
                 |秋風楽の調であり、

○雲井   の|雁が音(ね)は|琴柱(ことじ)に|落つる     |声々      。
 高い空を飛ぶ|雁の声   は、琴柱の上   に|落ちてくる落雁の|声々のように響く。

 
第四歌

○        |長生殿の裡には|   春秋に富めり。

 唐の長安城の中の|長生殿の中では、前途の春秋が豊かで、人も長生きである。

○      |不老門の前には 月の影  遅し。
 漢の洛陽城の|不老門の前では、月の歩みも遅く、人も不老長寿である。

 
第五歌

○弘徴殿(こきでん)の|細殿  に|たヽずむ は|誰 々     、

 弘徽殿      の|渡り廊下に|たたずむのは|誰と誰でしょうか、

○   朧月夜の内侍(ないし)の督(かみ) 、光源氏の大将(だいしょう)
 それは朧月夜の内侍     の督    と|光源氏の大将       でした。

 
第六歌

○誰そ |や この夜中に、鎖(さ) いたる|門(かど)を|敲(たた)く は。

 誰です|か、この夜中に、鎖(とざ)した |門    を|敲く    のは。

○たヽくとも| よも |あけ| じ |宵の約束 |なけれ  | ば 。
 敲い ても|けして|開け|ません。宵の約束が|ありません|ので。

 
第七歌

                             ┌───────────―──┐
○七尺(しちせき)の屏風(へいふう)も、躍ら   ば|などか |越え  |ざら|  ん|↓。
 七尺      の屏風      も、飛び上がれば|どうして|越えられ|ない|だろう|か、
                                      いや、越えることが出来る。

                            ┌────────―───┐
○羅  綾(らりよう)の袂(たもと)も、引か  ば|などか |切れ|ざら|  ん|
 薄物の綾錦     の袂     も、引っ張れば|どうして|切れ|ない|だろう|か、
                                       いや、切ることが出来る。

【背景】

 冥加あらせ給へや

 延暦七(788)年に、僧最澄(伝教大師)が比叡山延暦寺を建立した時詠んだ次の歌から引いた。「あのくたらさんみやくさんぼだい」はサンスクリット語で、漢字では「阿耨多羅三藐三菩提」と書く。

○あのくたら さんみやくさんぼだいの |仏たち
 煩悩を去り、真理を明らかに悟っている|仏たちよ、

○わが  立つ  |杣(そま)     に|  冥加 |あら |せ|給へ|や
 私が入り立つこの|杣   山(比叡山)に|仏の加護が|ございますように|!

 長生殿の裡には

 第四歌全体が、『和漢朗詠集・巻下・祝』からそのまま引用したもの。

 弘徴殿の細殿に…

 『源氏物語』花の宴の巻での、源氏と朧月夜の内侍の督との出会いを歌っている。光源氏二十歳の春、二月二十日過ぎ、宮中の南殿(紫宸殿)で花の宴が開かれた。ほろ酔い心地の源氏が会場を離れ、弘徽殿の細殿に立ち寄ると、「
朧月夜に似るものぞなき」と口ずさみながらこちらに歩いてくる女がいた。源氏は急にその女の袖を掴んで、

○    |深き夜の|  あはれを|知る                   も
 あなたが|深い夜の|月の 風情 に|引かれてここを通りかかり、私がお会いしたのも、

○入る  月の|おぼろけ      ならぬ|      契り     とぞ|思ふ
    
《月》《おぼろけ》
 入り方の月の|おぼろの光のようではなく |
       |並一通りで     ない |二人の前世の契りによるのだと!|思います。

と詠みかけ、強引に契りを結んでしまった。夜が明けて、源氏が執拗に名を尋ねると、女は、

○うき 身     |  世に |やがて |消え| な   |  ば
 つらい身の上の私が|この世から|このまま|消え|てしまった|ならば、

                            ┌──────────────┐
○    |  尋ねても|草 の原をば問は|じ   と|や|思ふ      |    ↓
 あなたは|私を尋ねて 、草葉の陰を!捜す|気もないと| |思っているのでは|ないですか。

と歌を詠んだ。源氏は、

○いづれ  ぞと|露の           |宿りを|わか   む|まに
 どこだろうかと、露のようにはかないあなたの|住処を|捜している |間に、

○小篠(こざさ)が原に|風| |も|こそ|吹け
 小笹     の原に|風|が|    |吹くように
 世間       に|噂|が|    |立って、二人が会えなくなってしまうのが
               |心配です。

と応じ、女の名を尋ねたが、答は聞けなかった。二人は再会のしるしに、扇を取り替えて別れた。後に源氏は、その女が、政治的ライバルである右大臣の六の君(六番目の姫君)であることを知る。

 誰そやこの夜中に、…

 『紫式部日記』寛弘六年夏の記事に、夜中に藤原道長が紫式部の局の戸を叩いたが、式部が応じなかった話がある。

○  |渡 殿       に|寝たる夜、   戸を叩く人ありと聞けど、恐ろしさに、音 も|せ|  で
 私が|渡り廊下の戸口の部屋に|寝た 夜、誰かが戸を叩く音が  したが、恐ろしくて、返事も|し|ないで

○  明かしたる|つとめて、
 夜を明かした |その翌朝、道長から歌が贈られて来た。

○夜もすがら水鶏(くひな)より|け   に|泣く泣くぞ|槇の戸口に叩きわびつる |
     《水鶏》            《鳴く》       《叩き》
 夜もすがら 水鶏が           |鳴く声  |
             より|大きな音で|泣く泣く!|槇の戸口で戸を叩きあぐねたのに、あなたは答えて
                                           くれませんでしたね。

○  返し、
 私の返歌、

○    |ただなら  | じ とばかり |  叩く |水鶏        |ゆゑ
                      
《叩く》《水鶏》
 このまま|ただではおく|まいというほど|     |水鶏のように|一心に|
                    |戸を叩く |あなた|      |ですから、

                   ┌────────────────────────―┐
○     |開けて| は |  |いか に|悔(くや)しから|まし           ↓
 あの時戸を|開けて|いたら、今頃|どんなに|後悔する    |ことになっていたでしょう|か。

 七尺の屏風も…

 『平家物語・巻第五・咸陽宮』にある、秦の始皇帝を刺客の荊軻(けいか)が襲ったときの伝説を歌ったもの。荊軻が始皇帝の宮殿に侵入し、皇帝の袖を掴み、胸に剣を突きつけた時、皇帝が、最愛の后、花陽夫人の琴の音を死ぬ前にもう一度聞きたいと願ったので、荊軻は聞き入れた。荊軻の始皇帝暗殺の経緯を記した原典である『史記』には、この話はない。

○およそこの后の琴の音を聞いては、猛(たけ)き|もののふの|怒れ  る も|やはらぎ、飛ぶ鳥も落ち、
                |荒々しい  |武士  の|怒っている心も|和 らぎ、

○草木も揺るぐ程なり。況(いはん)や、今を限りの|叡   聞に供へ  んと、
           まして   や、今を限りの|皇帝にお聞きいただこうと、夫人が
                                         
○泣く泣く|弾き|たまひ|けん  |    、さ|こそ| は |面白かり |けめ   、
 泣く泣く|  | お |
     |弾き|になっ|たという|琴の調は、さ| ぞ |かし|趣き深かっ|たであろう、

○荊軻も頭(かうべ)をうなだれ、耳をそばだて、殆ど| 謀 臣の|思ひも|弛(たゆ)み|に| けり。
                         |暗殺者の|気力も|ゆるん   |でしまった。

○后はじめて更に一曲を奏す。

                     ┌───────────―──┐
○七尺の屏風は高くとも、躍ら   ば|などか |越え  |ざら|  ん|
 七尺の屏風は高くても、飛び上がれば|どうして|越えられ|ない|だろう|か、いや、越えることが出来る。

                       ┌─────────―──┐
○一條の|羅  コクは|強くとも、引かば|などかは|絶え|ざら|  ん|
 一筋の|薄物の 絹 は|強くても、引けば|どうして|切れ|ない|だろう|か、いや、切ることが出来る。

○荊軻はこれを聞き知らず、始皇は聞き知りて、御袖を引っ切り、七尺の屏風を飛び越えて、銅(あかがね)の柱の陰に逃げ隠れさせたまひぬ。…

作詞:不詳
作曲:八橋検校



【語注】








冥加あらせ給へや 「せ」は尊敬で、使役ではない。「給へ」は尊敬の補助動詞。「冥加」という尊いものに対して、二重尊敬を使っている。⇒背景
和風楽柳花苑春鶯囀 雅楽の曲名。






秋風 雅楽の「秋風楽」に意を通わせている。


琴柱に落つる声々 雁の列を琴柱の配列に見立てるのは、『岡康砧』参照。ここは更に雁の声を連想し、琴の音と結びつけた。
長生殿の裡には⇒背景







弘徽殿 後宮の殿舎の一つ。身分の高い后が住む所とされる。⇒背景
内侍の督 内侍の司(後宮で天皇に仕える女官たち)の長官。尚侍(ないしのかみ)。
大将 近衛府の長官で、普通は三位。
誰そやこの夜中に⇒背景








七尺の屏風も⇒背景


















 杣山のこと。植樹して材木を切り出す山。








朧月夜に似るものぞなき 照りもせず曇りもはてぬ春の夜の朧月夜にしくものぞなき(新古今集・巻第一・春上・55・大江千里)

入る月の 二十日過ぎの月は、深夜を過ぎると西に傾く。
おぼろけは縁語。
















もこそ 係助詞「も」と「こそ」を重ねたもので、危惧を表す。















水鶏 ツル目クイナ科の鳥の総称。ここはヒクイナのことで、夏鳥。鳴き声が戸を叩く音に似ているので、この鳥が鳴くことを「叩く」と言う。水鶏鳴く叩きは縁語。



叩く水鶏は縁語。





悔しからまし 「まし」は反実仮想の助動詞。実際にはそうならなかったことを仮想する意味。























コク 「穀」の字の禾の代わりに系。
荊軻はこれを聞き知らず… 夫人は恋の歌にかこつけて皇帝に袖を引き切り、屏風を越えて逃げろと合図を送ったのだが、荊軻はそれを悟らなかったのである。

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