初音の曲
【解題】 源氏物語初音の巻(光源氏36歳の正月)の色々な場面を、六つの章句に分けて歌詞としたもの。舞台はこの前年に完成した六条院で、物語の内容を正確に再現しているわけではなく、印象的な場面を自由な詩の形式にまとめ、読者が物語の世界を想像し、また思い出すように仕向けている。六条院は四つの町を占める広大な土地を源氏にゆかりのある女性たちを住み分けさせた住まいで、物語の中のものとは言え、空前絶後の豪華な邸宅である。南東の町は源氏と紫の上と明石の姫君、北東の町は花散里(その西の対は玉鬘)、北西の町は明石の君(源氏31歳の時、上京して大堰に住む。源氏35歳の十月、大堰から六条院に移住)、南西の秋の町には秋好中宮(六条御息所の遺児、源氏の養女となって冷泉帝に入内)であった。 【解析】 第一歌 ○梅が香 も、御簾(みす) の匂ひに| 吹き|まがひ 、春の|おとどに、春 立てる | 梅の香りも、御簾に香る薫物の匂いに| |相和して、 |風に乗り、 |春の|御殿 に、春が訪れた、その| ○ |御前(おまえ)のさま 、言ふ言の葉も|及ばじ 。 紫の上の|御前 の様子は、言う言 葉も|及ばないほど素晴らしい。 第二歌 ○近江 野や、近江 野や、 名高き 山も|よそならぬ、 春 の 近江の野よ、近江の野よ、そこにある名高い鏡山も|他ではない、この六条院の春の御殿の庭の ○鏡 に|向かひ |ゐて 、 |変はらぬ 影を|映さむ。 鏡のような池に|向かって|たたずんで、末永く|変わらない栄華の姿を|映そう。 第三歌 ○今日(けふ)は|子の日なり けり、千歳の 春 を|祝(いは)ふと て、園生(そのふ)の小松 | 今日 は|子の日なのであった。千年の栄華を|祝お うとして、庭園 の小松を| ○引き 遊ぶ、人 の心ぞ|のどけき 。 引き抜いて遊ぶ、人々の心は|長閑である。 第四歌 ○めづらし や、 |かげ高き|花 を|ねぐら の|鶯(うぐひす)、 奇特なことであるよ、 |高嶺 の|花 を|ねぐらにしている|鶯 が| 今は|高貴な |紫の上の御殿で|養育されている |明石の姫君 が、 ○巣立ち し|松の根に立て て、谷の古巣を|言 問ふ は。 巣立っ た|松の根に止まって、谷の古巣を|訪れる とは。 生み育ててくれた|実母を思いやって|明石の君に|歌を贈るとは。 第五歌 ○花の香 |誘ふ 夕(ゆふ)風 、のどやかに|吹き たる に、梅も|やうやう|紐 解きて、 花の香りを|誘ってくる夕 風が、のど かに|吹いている頃に、梅も|だんだん|蕾を開いて、 ○ 「この殿」 |遊ぶ ぞ|おもしろき。 楽士たちが催馬楽の「この殿」を|演奏するのも|面白い 。 第六歌 ○男踏歌(だうか) の|明け方、 |水うまやにも|あらじな | 、 男踏歌の集団が宮中や諸院を廻った夜の|明け方、六条院は|水 駅 とも|思えないほど|一行をもてなし、 ○綿を|かつぎ |渡して、 万歳楽を歌へり。 綿を|褒美として|渡して、翌日の私的な宴会では、万歳楽を歌った。 【背景】 梅が香も、御簾の匂ひに(第一歌) 『源氏物語・初音の巻』の冒頭、六条院の元日の朝の風景として、次のような記事がある。 ○年たちかへる朝(あした)の空のけしき、 名残り なく|曇らぬ |うららけさには、 |冬空の名残りもなく、曇らぬ空の|うららかさには、 ○数ならぬ垣根の内だに、雪間の草若やかに色づきはじめ、 ○いつしかと| けしき だつ 霞に|木(こ)の芽もうちけぶり、おのづから人の心ものびらかにぞ見ゆるかし。 早くも |その兆し を見せる霞に| ○ましていとど玉を敷ける御前(おまへ)は、庭よりはじめ見どころ多く、磨きましたまへる御方々のありさま、 ○まねびたてむも言の葉足るまじくなむ。 ○ 春の 殿(おとど)の御前 、とりわき て、梅の香も御簾の内の 匂ひに吹き紛ひて、 紫の上の春の御殿 の御前は、格別であって、梅の香も御簾の中の薫物(たきもの)の匂いに相和し て、 ○風に匂い、生ける仏の御国 と|おぼゆ 。 |生きた仏の御国(極楽浄土)と|感じられるほどであった。 近江野や、名高き山も(第二歌)・今日は子の日なりけり(第三歌) 『古今集・巻第二十・神遊びの歌・1086』に、次の歌がある。 ○近江 野や| | |鏡の山を立てた れば | 近江の野よ|そこには| |鏡の山が立っているので | |全てを映す|鏡 を立てているように、 ○かねて |ぞ | 見ゆる | 君が千年 は| |大君の末永いご治世の繁栄は| あらかじめ|ちゃんと|映って見えるのです。 ○これは、今上 の御嘗 の、 近江 の歌 これは、今上陛下(醍醐天皇)の御嘗祭の時に、近江の国から献上された歌である。 『源氏物語・初音の巻』にも、元日の夕方のこととして、次の記事がある。 ○朝(あした)のほどは人々参りこみて、もの騒がしかりけるを、夕つ方、 ○御方々 の |参座したまはむと て、心ことに引きつくろひ、 化粧(けさう)じ|たまふ|御影こそ、 女君たちへの年賀に|参上 なさろうとして、念入りに身づくろいし、お化粧 |なさる|お姿 は 、 ○げ に|見るかひあ|めれ 。(源氏)「今朝この人々 の|戯れ かはしつる 、 まことに|ご立派に |見える。 「今朝この女房たちが|冗談を言い合っ ていたのが、 ○いと |うらやましく見えつるを、上には我 見せ|たてまつらん」と て、 たいそう|うらやましく見えたので、上には私が鏡餅をお見せ|申し上げよう」と言って、 ○乱れたることども少しうち混ぜつつ、 祝い|きこえ |たまふ。 |お祝い|申し上げ|なさる。 ○うす氷 とけ| ぬる|池の|鏡 には| 世に|たぐひなき | 薄 氷が融け|てしまった|池の|鏡のような水面には、この世に|二つとない幸せな| ○ かげぞ|並べ る 私たちの 姿 が|並んで映っています。(源氏) ○げ に|めでたき |御あはひどもなり 。 まことに|すばらしい|御夫婦仲 である。 ○ 曇りなき |池の|鏡 に|よろづ世を|住む | べき | |かげ ぞ| 《曇り》 《鏡》 《澄む》 《 影 》 曇りなく澄んだ|池の|鏡のような水面に|幾久しく |暮らして行く|にちがいない|私たちの| 姿 が 、 ○しるく |見え |ける はっきりと|見える|ことです。(紫の上) ○何ごとにつけても、末遠き 御契りを、あらまほしく |聞こえ交はし |たまふ 。 何ごとにつけても、末永いご夫婦の御仲 を、申し分のないご様子で|詠み 交かわして|いらっしゃる。 ○今日は子の日なり けり 。げに |千歳の春を|かけて| |祝はん に、ことわりなる|日なり 。 今日は子の日なのであった。なるほど|千年の春を|託して|長寿を|祝う のに|ふさわしい |日である。 めづらしや…(第四歌) 同じく、次の記事がある。 ○姫君の御方に渡りたまへれば、童(わらは)、下(しも)仕へなど御前(おまへ)の山の小松引き遊ぶ。 ○若き|人々 の心地ども 、 |おき所なく |見ゆ 。 若い|女房たちの気持ち は、自分たちも小松を引きたくて|じっとしていられないように|見える。 ○北 の 殿(おとど)より、 |わざとがましく|し集めたる髭籠(ひげこ)ども 、 北西の明石の君の御殿 から、今日のために|わざわざ |用意した 髭籠 などや、 ○破子(わりご)など |奉れ |たまへ|り。えなら ぬ |五葉 の枝に|うつる 鶯も、 破子 などを|さしあげ|なさっ|た。言いようもなく見事な|五葉の松の枝に|移してある鶯も、 ○ 思ふ心 |あら ん|かし 。 |きっと| 何か思う所が|あるのであろう 。 ○ 年月を|まつ に| 引かれて |経(ふ)る | 人|に| 《 松 》 《引かれ》 |古 | 長い年月を|あなたに|心引かれながら| |待って | |過ごしている| |昔の |母の私|に、 ○けふ |鶯の| 初音 |聞かせよ 音せぬ里の 。 | 初子の日の| 今日は|鶯が| 初音を |聞かせるように| |私に初便りを |聞かせて下さい。「音せぬ里の」の古歌の気持ちです。(明石の君) ○今日|だにも |初音 |聞かせ よ|鶯の音 |せ ぬ 里は|ある |かひもなし |せめて |初子の日の| 今日|だけでも|初音 を|聞かせてくれよ。鶯の声の|聞こえない里は|住んでいる|かいもない。(古歌) ○ 引き 別れ |年は経(ふ)れども| 《引き》 お別れしたまま|年は経ました が 、 ○鶯の| 巣立ち し|松の根を |忘れ |め |や | 《松の根》 鶯が| 巣立っ た|松の根 を|忘れる|でしょう|か、 私が|私を生み育ててくれた|実母のあなたを|忘れる|でしょう|か、いえ、決して忘れません。(明石の姫君) 同じく、暮れ方、源氏が明石の上の御殿を訪ねた時、今朝の姫君との歌の贈答に対する明石の上の感慨を記した次の歌を源氏が偶然読んで、ほほ笑んだという記事がある。 ○ めづらし や| 花の |ねぐらに| なんと奇特でうれしいことか、紫の上の花のような| 御殿 に|住んでいながら、 ○木(こ)伝ひて|谷の古巣 を|問へ る鶯 木の間を伝って、谷の古巣 を| | 実母の私を|訪ねてくれた鶯よ。 花の香誘ふ夕風(第五歌) 同じく、一月二日の記事に次の一節がある。 ○花の香さそふ夕風のどかにうち吹きたるに、御前の梅やうやう紐ときて、 ○あれは誰時なるに、物の調べどもおもしろく、「この殿」うち出でたる拍子いとはなやかなり。 をとこ踏歌の明け方(第六歌) 同じく、一月十四日の男踏歌が六条院を訪れた記事として次の一節がある。 ○今年は男踏歌あり。内裏より朱雀院に参りて、次にこの院に参る。道のほど遠くて、夜明け方になりにけり。(中略)朱雀院の后の宮の御方などをめぐりけるほどに、夜もやうやう明けゆけば、水駅(みずむまや)にて事そがせたまふべきを、例あることよりほかに、さま殊に事加へていみじくもてはやさせたまふ。影すさまじき暁月夜に、雪はやうやう降り積む。松風木高く吹き下ろし、ものすさまじくもありぬべきほどに、青色の萎えばめるに、白襲(しろがさね)の色あひ、何の飾りかは見ゆる。(中略)例の綿かづきわたりてまかでぬ。 |
作詞:不詳。 作曲:山田検校 【語注】 町 平安京の約120m四方の区画。面積は約1322坪。 梅が香も、御簾の匂ひに⇒背景 春のおとど 六条院の南東の一角を占める紫の上の御殿。 近江野や、名高き山も⇒背景 今日は子の日なりけり⇒背景 めづらしや⇒背景 花の香誘ふ夕風⇒背景 この殿 催馬楽の曲名。「この殿は むべも むべも富みけり 三枝(さきぐさ)の 三枝の 三つば四つばの中に 殿づくりせりや 殿づくりせりや」(古今集・仮名序) 男踏歌の明け方⇒背景 踏歌 中国から伝わった集団歌舞。 水うまや 水駅。踏歌の芸人たちに水や湯漬けを出すことを担当した御殿。 御方々 六条院の女君たち 鏡の山 東海道本線篠原駅の南方約4キロほどの所にある鏡山。 人々参りこみて 年賀に参上する人々で混雑して 御方々の参座したまはんとて、 源氏の動作に謙譲語を使っている。 この人々 紫の上づきの女房たち。 上 源氏は紫の上を「上」と呼んでいる。 曇り・鏡・澄む・影が縁語。 姫君 明石の姫君。明石の君の娘。この時八歳。三歳の時、紫の上の養女になった。明石の君は出自が卑しいので、姫君と消息・対面出来なかった。 髭籠 果物などを入れる竹で編んだ籠。竹の端を長く残しておき、それが髭のように見えるのでこう言う。 破子 薄い檜の板で作った箱。中に仕切りがあり、食べ物を入れる。 五葉の枝にうつる鶯 五葉の枝も鶯も作り物。普通は梅の枝に止まる鶯を松の枝に止まらせ、養女として紫の上の御殿にいる姫君への母の思いを暗示した。 松・引かれは縁語。 引き・松の根は縁語。 今年は男踏歌あり 男踏歌は隔年に行われた。 |