初鶯(はつうぐひす)

【解題】

 この曲は、宮城道雄が二十歳の時の作品である。鶯の鳴き声のさまざまな描写や鶯の谷渡りを描く部分など、洋楽の標題音楽の性格を取り入れている。箏や尺八の技巧が難しいのでも有名である。歌詞は大和田建樹の詩集「雪月花」に所収されたもので、当時最も愛誦された詩で五七調で、鶯の初音を歌っている。

【解析】


○うぐひすの|初音 |   めづらし、梅 一樹(ひとき)訪ねて来 鳴く|鶯の、初音 |めづらし
  鶯  の|初音が|聞けて嬉しい 。梅の一樹    を訪ねて来て鳴く|鶯の、初音に|心引かれる。

○今日よりは|  つぎて|鳴か なん 、明日よりは|   なれて|鳴か なん
 今日からは|毎日続けて|鳴いてほしい、明日からは|もっと上手に|鳴いてほしい。

○散る   花の|  深さも知ら  で    |  |  残る   |夜の|
 散るはずの花が、夜の深さも知らないで寝入って、  |散り残っている|
                       |その|まだ残っている|夜の、

○夢      の枕  を    |     鳴き  |  覚ます  |声もこの声
 夢を見ている花の枕もとを驚かせて、朝を告げる鳴き声で|目を覚めさせる|声もこの声である。

○月 霞む|夕  山かげに|柴   人の|かへさ | 送りて|鳴き残る声もこの声
 月が霞む|夕暮の山かげに|柴を刈る人の| 帰 りを|見送って|鳴き残る声もこの声である。

○今日よりは、  つぎて|鳴か なん 、   なれて|鳴か なん
 今日からは|毎日続けて|鳴いてほしい、もっと上手に|鳴いてほしい。

【背景】

 大和田建樹(おおわだ・たけき)

 この歌詞の作者大和田建樹は1857(安政4)年宇和島藩士・大和田水雲の長男として生まれた。本名は晴太郎。その生家は宇和島城の南、城山登山口の前に残されていたが、後に大和田家菩提寺の龍華山等覚寺境内に移築保存され、更にその後平成13年に解体保存された。幼少の頃から神童として知られ、弱冠十四歳で藩主に召されて四書を請進したといわれている。
 広島外国語学校で英語を学び、1879(明治12)年に22歳で上京し、東京大学古典講習科の講師、1886(明治19)年に高等師範学校(後の東京教育大学・現筑波大学)教授に就任するが、後に退職して、多彩な作家活動を始め、数々の国文学に関する著作の他、作歌、作詞、紀行文、謡曲の註釈、辞典の編集まで幅広く手がけた。この間、明治女学校、青山女学院や跡見女学校などの女学校や、早稲田中学校などの講師を歴任した。
 多くの作詞の中でも「汽笛一声 新橋を はやわが汽車は 離れたり」で始まる鉄道唱歌(東海道編・関西・参宮・南海編他)はあまりにも有名であるが、他に、「散歩唱歌」「故郷の空」「青葉の笛」などの小学唱歌があり、歌詞作詩は実に1,300を超える。
 主要著作に、『歌まなび』(1901)、『日本大辞典』(1896)・『大和田建樹歌集』(1912)などがある。
 1910(明治43)年10月1日、作詞のため病床を移していた東京新宿・牛込の法身寺で死去。享年54歳。東京新橋駅構内に「鉄道唱歌の碑」が、宇和島駅前に「大和田建樹詩碑」が建立されている。墓所は、東京・青山墓地。
作詞:大和田建樹
作曲:宮城道雄




【語注】





鳴かなん 「鳴か」は四段動詞「鳴く」の未然形、「なん」は願望の終助詞。この未然形の後に付く「なん」は、他者に対して「こうして欲しい」という願望を表す。
なれて鳴かなん 鶯は、初めのうちは鳴き方が下手で、「ケキョケキョ」だけだったりするが、慣れるにつれて「ホーホケキョ」と鳴けるようになり、節回しも綺麗になってゆく。






















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