破磐神社起源の「われ岩」  (姫路市西脇丸山)

 
破磐神社起源の「われ岩」


1.破磐神社起源の「われ岩」

 姫路市西脇とたつの市龍野町を結ぶ槻坂(けやきざか)峠の南東に、破磐神社の起源となった「われ岩」があります。(「われ岩」は、「破岩」とか「大磐石」とも表されています。)

 県道5号線槻坂トンネルの東、丸山交差点から南西に入ったところに「破磐神社起源のわれ岩」の標柱が立っていました。ここから入ったところに墓地がありますが、その手前の六地蔵から竹林の中の道を進みました。右手に階段があって、その上を見上げるといきなり「われ岩」が目に飛び込みました。

 高さ6m、幅5.5〜6m、奥行7.5m……。丘の上に立つ「われ岩」は、これらの数字より大きく見えます。
 その名の通り、縦にすっぱりと前後に2つに割れ、後ろの岩はさらに2つに割れています。割れ目には、数本の竹が生えていました。

 その威容は古くから磐座として崇められ、破磐神社のご神体ともなっています。岩の上部をぐるりと囲む注連縄が、神々しさを醸し出していました。

「われ岩」の上部 横から見る「われ岩」

2.「われ岩」を観察してみよう

 「われ岩」は角礫岩でできています。たくさんの凝灰岩のブロック(礫)が集まって固まった岩石です。岩の表面に、そのようすが観察できるところがありました。
 ブロックの大きさは、大きいもので1mに及ぶものがありますが、下の写真の部分では最大18cmでした。ブロックの角はとがっているもの(角礫)が多いのですが、角が砕けて少し丸みを帯びているもの(亜角礫)もあります。
 ブロックの間を埋める基質はブロックと同じ岩質の凝灰岩で、ブロックが砕けて細かくなったものです。隣り合うブロックが近いところは、ジグソーパズルのピースのようにブロック同士が連続しています。

「われ岩」の表面(角礫岩) 左の一部を拡大(黒いスケールは15cm)

 岩の表面を観察すると、一つのブロックは溶結凝灰岩であることがわかります。緑灰色の薄い溶結レンズが、ほぼ平行に見られますが、これは軽石が引き伸ばされたもので、溶結構造といいます。

 溶結凝灰岩とは、火砕流で流れ下った火山灰などが堆積するとき、火山灰自身が持つ熱と重さによってその一部が融けてお互い結合し(溶結)、圧縮されてできた岩石です。
 溶結凝灰岩は、火山灰の中の軽石が押しつぶされてできた溶結レンズを含むことが特徴のひとつです。
 
 「われ岩」にも、このレンズが観察できます。レンズは、厚さ1、2mm、長さ2、3cm程度のものが多いですが、中には長さが10cmに及ぶものもありました。
 岩石の表面には、白い斜長石の結晶片が目立ちます。
 大切なご神体をハンマーでたたくことはできないので、階段の下に転がっている岩のかけらで観察してみました。斜長石の他に、石英や角閃石がふくまれています。基質はガラス質で、風化の進んでいないところは硬い岩石です。

角礫の表面(引き伸ばされたレンズが見える)

2.岩屑なだれでできた地層が「われ岩」のもとに!

 この「われ岩」は、大地とつながっていない転石です。しかし、大きさや産状から、この地点の近くから供給されたものと考えられます。

 このあたりには、白亜紀の伊勢層が分布しています。伊勢層は、主に溶結凝灰岩などの火砕流堆積物でできていますが、その地層の中に岩屑なだれ堆積物がはさまれています。
 「われ岩」の角礫岩は、この岩屑なだれ堆積物にあたります。

 岩屑なだれは、火山噴火が引き金となって、すでに存在していた火山体を大規模に崩壊し、ばらばらになった岩石がなだれをうって流れ下る現象です。また、カルデラができるときに、その縁が斜面崩壊を起こして生じることもあります。

 ときは、日本がまだユーラシア大陸の東縁にあっって、恐竜が繁栄していた白亜紀の後期。このあたりで、大きな火山噴火が起こりました。
 何度も火砕流を発生させ、溶結凝灰岩などの火砕流堆積物が厚くたまりました。
 火山噴火は、それまでにできていた山体を吹きとばすこともあって、崩壊した岩石はばらばらになって流れ下ります。これが堆積し、再び固まった角礫岩の地層が「われ岩」のもとになりました。
 「われ岩」の話は、まだまだ続きます。
 「われ岩」のもととなった角礫岩の地層の上に、さらに厚く火山噴出物の地層がたまっていきます。「われ岩」のもととなった地層は地下深くにうずもれ、やがて激しかった火山活動も終わります。
 それから、長い時間が過ぎていきます。日本は大陸からひきはがされて日本列島となりました。
 日本列島は、太平洋プレートやフィリピン海プレートの動きによって海側から押され、隆起していきます。大地は、隆起すると地表からどんどん風化し削り取られていきます。そして、「われ岩」のもととなった地層が再び地表に現れました。
 その地層も、風化し、割れ目が入って砕けていきます。「われ岩」も近くの地層から、大きな岩として転がり落ちこの地でとどまりました。
 そして、この大岩に神功皇后の矢が当たって・・・。いや、そんなことはありません。この割れ目は、「われ岩」が地層から離れて落ちる前か落ちたときにひびが入り、ここで今のように開いたと考えられます。


3.「われ岩」の伝承

 この「われ岩」は、大きくて目立つ存在であったため古くから人々の信仰の対象となりました。岩の前に立てられた説明板には、神功皇后の試矢伝説が記されています(写真下)。

現地の説明板

 これは、神功皇后が遠征したとき、麻生山の山頂から矢を放ったとき、第三の矢がこの大岩にあたって三つに割れたというものです。

 「播磨鑑(1762)」には、「初矢」は的形にあだ矢となって落ち、「一矢」もまたあだ矢となって安室に落ち、「二ノ矢」は青山村に落ちた。そして、「三ノ矢」は『太市ノ郷大石を射貫き玉ふ故に破岩ノ明神と云』と記されています。
 出典によって、放った矢の数や矢の落ちたところに多少の違いがありますが、どれも最後の矢がこの岩を割ったということは一致しているようです。
 破磐神社は、この地の北東1.7km離れたところにあります。ここから山に入りましたが、下山後に破磐神社に参って帰りました。

山行記録は「大磐石(われ岩)から槻折山を越えて内山へ」を参考にしてください。


■岩石地質■ 角礫岩(岩屑なだれ堆積物) 伊勢層(白亜紀後期)
■ 場 所 ■ 姫路市西脇丸山 25000図=「龍野」
■探訪日時■ 2020年5月12日