日本人として初めてのエベレスト登頂、世界初の5大陸最高峰登頂、単独犬ゾリ行による北極点到達など数々の冒険を成し遂げた植村直己は、豊岡市日高町に生まれた。 植村直己冒険館は、彼の偉業をたたえ、彼の「人と心」を後世に語り伝えるための拠点として、故郷の日高町につくられた。 植村直己年譜
植村の著書を読み直したのを機会に、秋も深まった一日、植村直己冒険館を訪れた。ユリノキの大きな葉が褐色や黄色に染まり、その下で植村が変わらぬ笑顔で迎えてくれた。 クレバスをイメージした細長い通路を歩くと、冒険館の入口だ。館内の通路も、細くて深いクレバスの底。まず、映像ホールに通された。
上映されていたのは、「素顔の植村直己」。植村の生い立ち、山と冒険に明け暮れた若いころから始まり、エベレスト登頂、5大陸最高峰登頂と続く。植村の冒険は、山から極地へと変わり、北極点単独犬ゾリ行を成し遂げる。 北極点に到達し、「やったぞー」と喜びの声をあげたあと、「あー、厳しかったのう。こんな厳しいことをやらないと、自分の満足を得られないのかな。おれの人生ってなんだろうな。」とつぶやくところは、植村のそのときの気持ちをよく表している。しかし、すぐにまた、植村は次の極限を追い続けるのである。 植村は、挫折も繰り返した。隊長として参加したエベレスト冬期隊の、登頂断念の決断では、「アタックなりませんでした。申し訳ありません。申し訳ありません。」と無線連絡している。 南極大陸横断とビンソンマシフ登頂が、植村の大きな夢だった。南極アルゼンチン基地で、その計画をあきらめなければならなかったとき、走ることのなかったソリを一人で解体するシーンは印象的。 そして、厳冬期のマッキンリーに挑んでいく。マッキンリーで、地元の人が植村のために作曲した「ウエムラサン」のギター演奏の中、映像は終わった。
展示室には、植村が山や極地で使った装備品が壁一面に展示されている。 山や極地で身につけた服や帽子や靴、使用したシュラフ。「北極点単独犬橇旅行の成功を祈る」と書かれた日の丸には、多くの人たちの署名がされていた。周囲の千切れたその旗を、植村は実際に北極点で広げたのであろう。 登山用具としては、アイスハンマーやピッケルやザイル。コンロとして使ったラジウスや点火用に使用したメタは、私が学生時代北海道の山で使ったものと同じものだった。 南極で使用した六分儀や、北極点やグリーンラントで使用した風車型風速計、トランシーバーなどの通信機器も展示されていた。 右上には、実際に北極点で使用した犬ゾリが掛けられていた。植村と共に、北極の乱氷群を越えてきた犬ゾリである。滑走面には、厚さが3〜4mmの鉄板がランナーとして敷かれていた。氷の上を少しでもよく滑るように、ランナーに氷を張ってエスキモー犬に引かせた。 装備品展示の反対側の壁は、植村の冒険を支えた知恵と方法がパネル展示されている。極限の行動の中では、休むことも大切なことだった。 テントの中の荷物はよく整理されていて、必要なものにすぐ手が届くように配置されていた。 極地や厳冬期の山で防寒服に包まれた植村の写真があった。極地のもっとも寒いときには、カリブーの上着が体温を守ってくれた。 展示室の真ん中に、「のぞいてみよう」の箱が3つ。丸い穴からのぞいてみると、植村自身が撮った犬ゾリでの走行やテントの中でカリブーの肉を食べる姿が、箱の中に浮かび上がった。
屋外の通路を通って別棟に入ると、特別メモリアル企画展「マッキンリーに眠る植村直己 〜見果てぬ夢を残して〜」のが開かれていた。1984年、マッキンリーに登頂後消息を絶ったときの記録である。 4200mの雪洞から発見されたフィルムから現像された3枚の写真、セスナ機との最後の交信、そして植村が雪洞で書いた登頂前の日記・・・。
展示ギャラリーでは、「植村直己の残したもの」というテーマで展示が行われ、植村の心を伝えている。 植村が、世界各地でもとめた面や首飾りなどの民芸品は、カラフルで暖かみのあるものが多い。 日本と世界の山で拾い集めた頂上石は、自ら記し続けた、冒険の小さな記録だ。小さな石が4つのボードに張り付けられている。一つ一つの石の鑑定を試みた。ただ、ガラス越しの観察なので、まちがっているものがあるかもしれないが・・・とりあえず。 五大陸最高峰の頂上石(9個) エベレストの山頂は、淡灰色の砂質石灰岩。(エベレストの8600m以上は、チョモランマ層からできていて、オルドビス紀の三葉虫やウミユリが見つかっている。) エベレスト南壁は、薄く板状に割れた黒色頁岩。 エベレストイエローバンドは、板状の変成作用を受けた石灰岩で表面は褐色だが内部は白い。 マッキンリーは、花崗岩。これは分かりやすい。 アコンカグアは、小石が2つ。1つは赤色チャートで、もう一つは砂岩だろうか。石が丸いので、礫岩中の礫と思われる。 モンブランは、砂岩のように見える。 キリマンジャロは、尖った角がごつごつした黒い小さな石。キリマンジャロは火山なので、火山岩塊なのかもしれない。 極地の石(6個) 南極ESPERANZA BASEは、薄くはがれた板状の粘板岩。 南極オルカダス基地は、濃い灰色の頁岩。不規則な割れ目が入っている。 グリーンランドMONT MANITSOQは、粗粒の花崗岩か片麻岩。 放浪時代に集めた世界の頂上石(11個) エギュールドノアールは、花崗岩ペグマタイトで1cmもある蛍石がついている。 Les Fortsは、薄く割れたつやのある千枚岩。 フランスTOUR NOILは3.4cmもある水晶と花崗岩。 マッターホルンは、小さな石。結晶片岩かもしれない。 植村直己最後の石(1個) 明治大学捜索隊によってマッキンリーから持ち帰られた石。花崗岩で、白いボードの真ん中に一つポツンと留められていた。
植村は、花も愛した。厳しい登山のあとで、ふもとで植物を採集し、押し花にして日本に持ち帰った。
植村は、山にいるときも極地にいるときも、お世話になった人によくはがきを書いた。隊員の妻にもはがきを送り、帰国後そのはがきを見た隊員が植村の心遣いに驚いたという。 1枚、犬ぞりで走る絵があった。父に宛てたもので、その絵の横に「エスキモーの10才の子が書いてくれました」とあった。 学生時代に読んだ本も展示されていた。植村の本棚をそのまま持ってきたように、古くなった本が並べられていた。 「登頂ゴジュンバ・カン(明治大学ヒマラヤ登山隊の記録)」は、自ら頂上を踏んだときの記録である。 極限を求めて夢を追い続けた植村直己。彼の残した数々の冒険は、いつまでも色あせない。 植村直己冒険館のHPへ
|