福崎町「古宮」のチャート岩体
 国道312号線を福崎町役場から500mほど北に進むと、右手(東)の田んぼの中に大きな岩体が突き出ている。長さ15m、高さ5m程度の赤茶色い岩体である。ここは、「古宮」と呼ばれ、このすぐ南東にある「鈴の森神社」の旧の宮があった所とされている。この岩石を調べてみると、縞状に成層したチャートであった。この地域は、ジュラ紀に付加した丹波帯に属している。このチャートは、頁岩中にブロック状に取り込まれたものであろうか。風化に耐えて突出するこの岩に、いにしえの人々は何か神々しいものを感じ、ここに神を祀ったのかも知れない。また、この岩は、南西のある「駒ケ岩」より神馬に召されて飛んできたという伝説も残っている。
 鈴が森神社があるのが「辻川山(標高128.9m)」。この辻川山の東には、神積寺のある「妙徳山」、岩尾神社や大歳神社のある「大門宮山」がある。この三つの山を「ふくさき三獅子山」と呼び、これらの山にある神社や寺、それに柳田國男生家や大塚古墳をつないで、遊歩道が整備されている。いつか、植物図鑑を片手に、このコースをのんびりと訪ね歩きたいと思う。

「古宮」のチャート岩体
 「古宮」の岩体は、白、茶、赤(オレンジ)、緑などと多様な色を呈するチャートである。塊状の部分もあるが、数cmの厚さで縞状に成層している部分が多い。この岩石は、ジュラ紀に付加した丹波帯の若井コンプレックスに属している(「5万分の1図幅 北条地域の地質」  地質調査所 1995年)。若井コンプレックスは、頁岩を主とするが、このチャートは頁岩中にブロック状に取り込まれたものと考えられる。
 岩体には、所々に狭い割れ目が走っていて、その割れ目に水晶が見られた。結晶は大きくはないが、無色透明できれいな結晶形をしていた。
古宮のチャート
チャートの構造
 赤い(オレンジ)部分と白い部分が縞状に成層している。この部分は、南に60度と大きく傾斜している。
 チャートは、放散虫の遺骸が積み重なってできた岩石(下欄参照)。放散虫は死ぬと、その珪質の殻はゆっくりと海の底に沈んでいく。その様子が、舞い落ちる雪のように見えるためにマリンスノーと呼ばれている。現在の赤道付近の深海には放散虫軟泥と呼ばれる堆積物があり、1000年に数ミリずつ、ゆっくりと積もっていることが知られている。これが、長い時間をへて硬くなり、チャートがつくられる。写真の厚さのチャートができるだけでも、莫大な年月がかかっているのである。
縞状に成層したチャート
チャートのでき方
 チャートは、ほとんどがシリカ(Si0)からなる(鉱物としては石英)、硬い岩石である。偏光顕微鏡による観察では、どのようにしてできたのか、長い間分からなかった。しかし、フッ酸処理し走査電子顕微鏡で見ることによって、放散虫という珪質プランクトンの遺骸が集まってできた岩石であることが分かった。
 チャートが、放散虫の遺骸のからできた岩石であり、砂とか泥を含んでいないということは、陸から遠く離れた海底でできたということを物語っている。チャートが、陸源の砕屑岩(頁岩・砂岩など)にブロックとして入っていることは、海洋プレートの沈み込みによる付加作用によってできたことを表している。

 ※写真は、『日本列島の生い立ち 新版地学教育講座8巻 (地学団体研究会編 1995年 東海大学出版会)』から複写したものです。
ジュラ紀の放散虫化石
鈴の森神社
 「古宮」の南東、辻川山の裾に「鈴の森神社」は建っている。「すず」とは聖地の意味で、「播磨鑑」によると、大己貴命(おおなむちのみこと)が峯相山より宍粟郡へ遷座したとき、播磨の神々がここに集まったとされている。
 神社は、スギ・ヒノキ・カエデ・モミ・ヤマモモなどの木に囲まれ、それらの木々の間から差し込む陽光をたっぷりと受けていた。神社の右手にある樹齢約千年のヤマモモの古木は特に印象的である。柳田國男は、「故郷七十年」に、子供の頃この木に登ってヤマモモの実を食べようと思ったがガキ大将連に採られてしまって口に入らなかったと書いている。

       うぶすなの森の山ももこま狗は
          なつかしきかなもの言わねども   柳田國男
鈴の森神社とヤマモモの木(神社の手前右)

■岩石地質■ ジュラ紀 若井コンプレックス チャート
■ 場 所 ■ 神崎郡福崎町西田原 25000図=「北条」
■ 交 通 ■ 国道312号線福崎町井口の交差点を東に 井口の集落を南に進む 福崎町保健所の裏手の田んぼの中の岩体
■探訪日時■ 1999年5月2日 (2001年8月27日に鈴の森神社を中心に再度訪れ、このページを更新しました)

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