坊勢島 弁天島と島の地層 (姫路市家島町) 坊勢島は、およそ2億年前の丹波帯の地層と、およそ9000万年前の火山岩類からできています。 山歩きの記録『かしわの山 夏の坊勢島をぐるりと一回り』へ 1.弁天島の地層 弁天島は船着き場のすぐ近くにあります。朱塗りの欄干の橋を渡り、石段を登ると海神社が祀られています。漁師の娘の伝説が伝えられる海神社は、海の守り神として「神権さん」と呼ばれ島の人々に親しまれています。 この弁天島は、ぐるりと岩に取り囲まれています。ここで地層を観察しました。信仰の地のため岩はたたかず、ハンマーは写真のスケールとして使っています。 弁天島の地層をつくっている岩石はデイサイトです。下の写真のように黄土色をしていますが、新鮮なところは緑灰色です。白い斑点が目立ちますが、これは斜長石の斑晶です。斜長石は本来は無色透明ですが、粘土鉱物などに変質しているためにこのように白くなっています。斜長石のほかには、長柱状の普通角閃石と小さな石英の結晶が少量ふくまれています。普通角閃石は、ほとんど完全に変質しています。
弁天島の裏に回ってみると、岩に縞模様が見えます。縞模様は大きく湾曲し、また縞模様の方向は一定ではなく各所で交差しています。 このような模様はどのようにしてできたのでしょうか? 縞模様は、マグマの流れた跡を示す流理だと考えられます。粘り気をもったマグマが固まりかけたとき、まだ固まっていないマグマに押されて変形したり、ブロック状に壊れて、それらが集まって固まったと考えられます(自破砕構造)。
弁天島の岩には、大小の穴がたくさん空いています。これはタフォニと呼ばれる侵食地形で、海岸などでよく見られます。タフォニは、岩にしみ込んだ海水が蒸発するとき、海水にふくまれていた石膏などの結晶が成長し、岩石をもろくしていくことでつくられます。 弁天島は、波が削り取ってできた海食崖で囲まれています。その下には海食台(波食棚)が広がっています。海食台は、潮間帯にある平坦な台地で、これも波の侵食によってできた地形です。
弁天島のデイサイトと同じ岩石は、弁天島付近や島の東側の海岸でも見られます。溶岩ではなく、軽石をふくんだデイサイト質の溶結凝灰岩として見られる場合もあります。この溶結凝灰岩は、火砕流によってできたと考えられます。 この地層ができた頃、デイサイト質の火山活動があって溶岩を流したり火砕流を発生させたりしました。 佐藤大介(2016)では、弁天島をふくむこれらの地層を後期白亜紀「家島層」の「デイサイト軽石火山礫凝灰岩」としています。
2.島南部の地層 島の南部には、流紋岩質の溶結凝灰岩が広く分布しています。野外では、石英の結晶が目立つ褐色を帯びた灰色の岩石です。石英のほかには、斜長石・カリ長石・黒雲母・普通角閃石がふくまれています。軽石がレンズ状に伸びた溶結構造は、風化面や転石の表面で観察できます。 島西部の海岸で、この地層に入りこんだ石英脈の空隙に水晶が見られました。 佐藤大介(2016)では、この地層を後期白亜紀「家島層」の「黒雲母普通角閃石流紋岩溶結凝灰岩及び火山礫凝灰岩」としています。同じ地層は、坊勢島のほか西島全域、男鹿島南部などに分布していて、西島南西部から約9000万年前(89.8±0.9Ma)のジルコンU-Pb年代が報告されています(佐藤大介,2016)。
3.丹波帯の地層 島北東部の海岸で、丹波帯の地層が見られます。海守堂の下には頁岩の地層が現われています。灰色で不規則な割れ目が細かく入っています。 この地層はジュラ紀に付加した丹波帯の地層だと考えられます。同じ地層は家島の広い範囲や矢ノ島に分布しています。
坊勢中学校の校門を入ったところに、「波の化石」が展示されていました。ガラス越しに、表面が波打った泥岩が見えます。 漣痕(リップル)と呼ばれるこの水の流れの跡は、昭和34年にすぐ近くの海岸で見つかったものです。そこは今、港のコンクリートの下に埋もれていますが、工事前に地層からはぎ取られてここへ移されました。丹波帯の地層にできたもので、今からおよそ2億年前の波の跡を残しています。
引用文献:佐藤大介(2016)兵庫県姫路市,家島諸島に分布する後期白亜紀火山岩類のジルコンU-Pb及びFT年代.岩石鉱物科学,45,53-61. ■岩石地質■ 白亜紀 家島層 |