小方加賀守
小方氏は厳島神主家の一族であり、小方(大竹市)に居住して小方氏を称したものとみられる。小方氏でよく知られているのは小方加賀守で、芸藩通志によると藤掛尾城に居城していたとある。
永正5年(1508)大内義興は、前将軍義稙を擁して京都に上り厳島神主興親も随従し、同12年興親は京都で病没した。神主断絶の間、神主一族の小方加賀守、友田興藤も在京していたが、国元においては小方加賀守支持派と友田興藤支持派が神主職継承争いを続け、小方加賀守支持派は藤懸ノ城(藤掛尾城)に立籠って神主職の獲得を巡って対立抗争を続けている。
戦時の小方氏と藤懸ノ城(藤掛尾城)との関わりはこれらから伺うことができるがその他の関わりについては不明である。平時の屋敷は厳島神主家の居館があった桜尾城下にあり小方氏はここに居住していたのである。寛永15年(1638)の廿日市内後地分地詰帳に「おかた屋敷」がみられ、ここが「小方屋敷」であったのである。しかし、文政2年(1819)の国郡志御編替下しらべ帳で誤って「岡田屋敷」と記されこれが芸藩通志の絵図に掲載されて迷わされたのである。
ところが天保12年(1841)の売券状扣帳には「小方屋敷」の記載がみえ、廿日市内後地分地詰帳の「おかた屋敷」の部分と一致することがわかったのである。記述者の筆先ひとつでそれが真実と思われているが、歴史を調べるには根本の史料や複数の史料からみていかないと大きな誤りをすることになるのである。
厳島社神主家系図写には小方加賀守と友田興藤は神主興親の甥とあり、小方加賀守の女は大内氏が任命した神主杉刑部少輔と御師棚守房顕の妻となっているので厳島神主家と小方氏の関係が想像できるのである。
小方加賀守との続柄は不明であるが小方対馬守(與康)は厳島神領の大内氏権力代行者となっており、その子隆忠は大内義隆に仕えのちに毛利元就に仕えた。毛利氏の防長移封に伴なった小方氏は萩藩閥閲録に大組小方吉右衛門家と小方三郎左衛門家がみられ、地元地御前村に残った小方氏は厳島社や外宮、速谷、大頭神社の祭祀に使用する平瓮をつくっていた。