ヤマトタケルの東征
ヤマトタケルの東征物語は大和朝廷の東国への勢力拡大を象徴する四世紀頃の、ある程度事実を反映した物語である。『古事記』が和銅五年(712年)、『日本書紀』が養老四年(720年)に編纂され、ヤマトタケル伝承はそれより四百年もさかのぼる遠い昔の話であり、それも大和の側の視点で書かれた物語でありそのまま史実とはみなせないが、当時の情勢を推測することができる。ヤマトタケルは第12代景行天皇の子供であり天皇の命により、南九州の熊曾建や出雲の出雲建を討つ西征をした後、東国の蝦夷征服の東征を行った。なお、ヤマトタケルは古事記では倭建命であり、日本書紀では日本武尊である。
ヤマトタケルの東征軍路は古事記と日本書紀で相違があり日本書記のほうが陸奥、日高見(北上川流域の国)へとより北の方に侵攻していったように書かれています。全コースを図式的に示すと次のとおりである。
古事記
倭―伊勢―尾張―駿河―相模走水―上総―常陸新冶―筑波―相模足柄―甲斐―科野―尾張―近江伊吹山―伊勢能煩野
古事記ではヤマトタケルは病み疲れ伊勢能煩野までたどりつき、ここで有名な故郷を思った歌を遺し、帰らぬ人となる。
倭はくにのまほろば たたなづく 青垣 山隠れる 倭しうるわし
(大和国は国々の中で最もよい国だ。青い垣をめぐらしたような山々、その山々に囲まれた大和は、美しい国だ。)
日本書紀
倭―伊勢―駿河―相模走水―上総―陸奥―日高見―常陸新冶―筑波―甲斐―武蔵―上野―碓日坂―信濃―美濃―尾張―近江伊吹山―伊勢能煩野
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日本書記の東征ルート(新しい歴史教科書) |
古事記
(景行天皇)
さて景行天皇は、また重ねて倭建命に「東方の十二国の荒れすさぶ神、また服従しない者どもを征伐し平定せよ」と仰せられ、吉備臣らの祖先に当たる、名は御スキ友耳建日子という人を従わせて東国にお遣わしになるにあたり、ひいらぎで作った長い矛をお授けになった。こうして倭建命は勅命を拝して退出なされる時、まず伊勢の大神宮に参って、その神宮を拝み、それからその叔母の倭比売命に申されるには「天皇は、まったく私なんか死んでしまえと思っていらしゃるのでしょうか。そうでなければ、どうして、西方の悪者どもを討ちに私をお遣わしになり、都に帰って参りましてから、まだいくらもたっていないのに、兵士らも下さらないで、今、再び東方の十二国の悪者どもの平定にお遣わしになるのでしょうか。これによって考えますと、天皇はやはり私なんかまったく死ねばよいとお思いになっていらしゃるようです」と申されて、嘆き泣き悲しみながらそこから退出なさろうとした時に、倭比売命は草薙剣をお授けになり、また袋をもお授けになって、「もしも火急のことがあったなら、この袋の口を解きなさい」とおっしゃった。
そして、尾張国に到着して、尾張国造の祖先の美夜受比売の家におはいりになった。そして求婚しようとお思いになったけれども、再びここに帰って来た時に求婚しようと思い直され、姫としっかり約束だけをして東国へとお進みになって、ことごとく山や川の荒れすさぶ神、また服従しない者どもを平定されたのであった。
そして、相模国にお着きになった時、その国造は倭建命をだまして、「この野原の中に大きな沼があります。この沼の中に住んでいる神は、たいへん荒荒しい神でございます」と申し上げた。これを聞いた倭建命は、その神を見るためにお出かけになり、その野原にお入りになった。するとその国造は火をその野原につけた。倭建命は、だまされたとお気づきになって、叔母の倭比売命の下さった袋の口を解いて開いてごらんになると、火打石がその中にはいっていた。そこで、まず叔母から授けられたご帯刀で草を刈り払い、その火打石で火を打ち出して、燃え迫ってくる火に向かい、こちらから草に火をつけて敵の方に火勢をしりぞかせた。そこを脱出してからその国造どもをみな斬り殺して、そして死体に火をつけてお焼きになった。それゆえ、今日その地を焼津というのである。
相模から東へお進みになって、走水海(浦賀水道)をお渡りになる時、その海峡を支配する神が怒って大波を立て、船をくるくる回して、倭建命は先へ進むことができなくなってしまわれた。この時、その后の弟橘比売命という方が、「神の怒りをしずめるために、私が皇子の身代わりとなって海にはいりましょう。皇子は命じられた東征の任務を成し遂げて、天皇に御報告なさいませ。」と進言して、海にはいろうとなさり、菅や皮や絹の敷物を何枚も重ねて波の上に敷いて、その上に神の妻としてお降りになった。するとその恐ろしい荒波も自然に静かになって、御船は対岸に進むことができた。この時、その后は
さねさし 相武の小野に 燃ゆる火の 火中に立ちて 問ひし君はも
((さねさし)の相模の野原に燃え立つ火の、その炎の中に立って、私の安否を尋ねてくださったわが夫の君よ)
とお歌いになった。それから七日たったのち、その后のお櫛が海岸に流れついた。そこでその櫛を拾い取って、御陵を作ってその中に埋葬した。
倭建命は、上総から奥地にはいっていかれて、ことごとく荒れすさぶ蝦夷ども服従させ、また山や川の荒れすさぶ神々を平定して都に帰ってこられる時、足柄山の坂の麓に到着され、お食事の乾飯を召し上がっているところに、足柄峠の神が白い鹿に姿を変えてやって来た。これを見て、すぐに食べ残しになった野蒜の片端で、待ちかまえて鹿めがけてお打ちになると、その目に当たってそのまま鹿は打ち殺されてしまった。それから倭建命は、その坂の上に登り立って、三度もため息をおつきになり、「吾妻はや(わが妻よ)」と絶叫なさった。それでその国を名づけて吾妻(東)」というのである。
さらにその国を越えて甲斐に出て、酒折宮(甲府市酒折町)にご滞在になった時、
新冶 筑波を過ぎて 幾夜か寝つる
(新冶や筑波を過ぎて、幾夜寝ただろうか。)
とお歌いになった。すると夜警の火をたく老人が、倭建命のお歌に続けて、
日日並べて 夜には九夜 日には十日を
(日数を重ねて、夜は九夜、昼は十日になります。)
と歌った。即座に歌ったので、その老人をほめて、東国造の称号をお授けになった。
日本書紀
(景行天皇)
冬十月二日、日本武尊は出発された。七日、寄り道ををされて伊勢神宮を拝まれた。そして倭媛命にお別れのことばを述べ、「今天皇の御命令を承って東国に行き、もろもろの叛く者を討つことになりました。それでご挨拶に参りました」と言われた。倭媛命は草薙剣をとって、日本武尊に授けられ「慎重になさいませ。けっして油断なさってはいけません」と言われた。
この年、日本武尊は、はじめて駿河に到着された。そこの賊は、偽り従い、欺いて、「この野に、大鹿が、きわめて多くおります。吐く息は、朝霧のようで、足は茂った林のようです。お出かけになって狩りをなさいませ」と申し上げた。日本武尊は、その言葉を信じて、野に入り狩りをなされた。賊は皇子を殺そうという気があって、その野に火を放った。皇子は欺かれたと気づき、火打石をとり出し火をつけて、迎え火をつくり逃れることができた。皇子のいわれるのに、「もう少しのところで、欺かれるところであった」と言われた。ことごとくその賊どもを焼き滅してしまわれた。だから、そこを名づけて焼津(静岡県焼津市)というのである。
さらに相模においでになって、上総に渡ろうとされた。海を望まれて大言壮語して、「こんな小さい海、飛び上ってでも渡ることができよう」と言われた。ところが、海の中ほどまで来たとき、突然、暴風が起こって、御船は漂流して、渡ることができなかった。そのとき、皇子につき従っておられた妾があり、名は弟橘媛という。穂積氏の忍山宿禰の女である。皇子に申されるのに、「いま風が起こり、波が荒れて御船は沈みそうです。これはきっと海神のしわざです。賎しい私めが皇子の身代りに、海に入りましょう」と申し上げた。そして、言い終るとすぐ波を押しわけ海におはいりになった。暴風はすぐに止んだ。船は無事岸につけられた。時の人は、その海を名づけて、馳水(浦賀水道)いった。
こうして、日本武尊は上総より転じて、陸奥国に入られた。そのとき、大きな鏡を船に掲げて、海路をとって葦浦を廻り、玉浦を横切って蝦夷の支配地に入られた。蝦夷の首領島津神・国津神たちが、竹水門に集まって防ごうとしていた。しかし、遥かに王船を見て、その威勢に恐れて、心中勝てそうにないと思って、すべての弓矢を捨てて、仰ぎ拝んで、「君のお顔を拝見すると、人よりすぐれておられます。きっと神でありましょう。お名前を承りたいのですが」と申し上げた。皇子はお答えになって、「われは現人神(天皇)の皇子である」と言われた。蝦夷らはすっかり畏まって、着物をつまみあげ、波をかきわけて、王船を助けて岸に着けた。そして、自ら両手を後に縛って降伏した。そこで、日本武尊は、その罪を許された。こうして、その首領を俘として、手下にされた。蝦夷を平らげられ、日高見国から帰り、常陸を経て、甲斐国に至り、酒折宮(甲府市酒折)においでになった。そのとき、灯をともしてお食事をされた。この夜、日本武尊は、歌を作って従者にお尋ねになって、こう言われた。
新冶 筑波を過ぎて 幾夜か寝つる
(新冶や筑波を過ぎて、幾夜寝ただろうか。)
従者たちは、答えられなかった。御火焚の者が、皇子の歌の跡を続けて歌って、
日日並べて 夜には九夜 日には十日
(日数を重ねて、夜は九夜、昼は十日でございます。)
とお答えした。
御火焚の賢いのをほめて、厚く褒美を与えられた。この宮においでになって、靫部(兵士)を大伴連の先祖の武日に賜わった。
日本武尊は、「蝦夷の悪い者たちはすべて罪に服した。ただ信濃国、越国(北陸)だけがすこし王化に服していない」と言われた。甲斐から北方の、武蔵・上野をお廻りになって、西の碓日坂(碓氷峠)にお着きになった。そのとき、日本武尊はしきりに弟橘媛を偲ぶお気持ちをもたれ、碓日嶺にのぼり、東南の方を望まれて、三度歎いて「吾嬬はや(わが妻は、ああ)」と言われた。そこで、碓日嶺より東の諸国を、吾嬬国というのである。