蒙古襲来
馬が射られて必死に手綱たずなをとる竹崎季長すえながの前で「てつほう」が炸裂する | モンゴル軍の軍船 どらや太鼓を打ちたたきながら迎え撃つ日本軍との矢合戦 |
高麗王国がモンゴル軍に屈服し、モンゴル皇帝の外藩国(服属国)となったとき、朝鮮半島沿岸諸州に倭寇が出没した(1263年、1265年)。このとき高麗王朝を外藩国としたモンゴル皇帝フビライ汗は、自ら正統的中国王朝の継承者を自認して、東アジア交易圏の安定のために必要とされる新しい国際秩序の再建者の地位につこうとしていた。その自負が高麗の近海を侵略する日本に対して和親入朝の要請となった。
モンゴル皇帝は、1266年から1274年の文永の役まで6回にわたって国書を携えた使者を日本に派遣している。しかしモンゴル皇帝の国書を受けた鎌倉幕府、朝廷は、これを無視しつづけ返書を送らなかった。これによってモンゴル皇帝の態度は硬化し、ついに日本征討が決意された。
文永の役(1274年)
元軍の兵力 | 総数3万2300人(元・高麗連合軍
戦闘員2万5600人 水手・大工6700人) 元兵の他に金や南宋の降伏兵などが加わった2万人の部隊と、高麗兵によって構成された1万2千人の部隊とで構成されていた。 |
日本軍の兵力 | 総数1万人(北部九州の守護であった武藤資能すけよし、大友頼泰よりやすの総大将のもとに九州に在住、もしくは領地を有する御家人と地方武士団からなる) |
戦況 | 元は、対馬、壱岐の両国を軍事占領し、10月20日未明博多湾岸に上陸した。毒矢やてつほう(鉄砲)などみなれぬ兵器と、統制のとれた集団戦法を駆使する元軍の前に、幕府は動員された御家人ら武士たちはたまらず大宰府まで没落した。だが、この夜、海上の船に引き上げた元軍は夜半の暴風雨によって多くの被害を出して高麗に撤退した。 |
弘安の役(1281年)
元軍の兵力 | 総数14万3000人(東路軍 4万2000人、900隻 江南軍 10万人、3500隻) 東路軍は元軍1万人、高麗軍1万5000人、水手1万7000人からなる。江南軍は南宋軍10万人からなる。 |
日本軍の兵力 | 総数12万5000人(北条実政が鎮西軍4万人を率い、博多の防備にあたった。北条宗盛は2万5000人を以って中国地方をかためた。後方では宇都宮貞綱指揮下の日本軍主力6万人が京都から西国方面を守っていた。) |
戦況 | 5月3日東路軍は朝鮮の会浦がっぽを出発。対馬、壱岐をおかし、一部は長門を侵攻し、主力は6月6日、博多湾の志賀島しかのしま,野古島のこのしまの海上に姿をあらわした。6月6日の夜半から6月13日まで、同海上および陸上の一部で戦闘がおこなわれた。日本軍の激しい防戦にあって東路軍は上陸侵攻を阻まれ、壱岐を経て肥前の鷹島に退いた。 いっぽう江南軍は、6月15日以前に東路軍と壱岐で合流する予定であったが、中国の慶元を出発したのは6月18日であった。7月に入り平戸島付近で両軍は合体し、7月22日、鷹島に移った。この大船団で一挙に博多湾に押し入ろうとしていたのである。ところが、7月30日夜からものすごい暴風雨が吹き荒れ、翌閏7月1日(太陰暦では閏月があり、1年13ヶ月になることがある)、元軍は壊滅状態となった。 |
元の敗因・日本の勝因
暴風雨のため元軍の多くの船が沈没した。
元の将兵は、乗馬は得意だが、海や船には不慣れだった。
元軍は海を越えてきたので、食料や武器あるいは補充の兵隊などの補給に不安があった。
元軍といってもその大半は被支配民の中国人や朝鮮人で、士気が低かった。
日本軍の武士は手柄をたて恩賞をもらうため必死になって戦った。
その後の歴史への影響
危機の際、神仏に祈祷を行えば、必ず「神風」が吹き荒れ、日本を救ってくれるという神国思想が信じられるようになった。
従軍した将士に恩賞を与えようと思っても、恩賞とすべき領土や賠償金がなく御家人は不満を募らせた。
御家人の中には、土地を売ったり、高利貸しに借りたりしてしのいでいたが、幕府は土地の売買を禁止し、すでに売買された土地は無償でもとの持ち主に返す徳政令を出した。
「悪党」と呼ばれる反社会的武装集団が横行するようになった。
倭寇は高麗のみでなく、中国沿岸も荒し回り、衰退の兆しを見せつつあった大帝国・元を苦しめはじめた。
北条氏は執権政治にみられた合議制を廃止し、権力を北条得宋家に集中し、専制支配を強化して難局を切り抜けようとした。
次第に人心が北条氏から離れ、やがて鎌倉幕府は崩壊していく。
北条時宗
8代執権北条時宗の34年の一生は、蒙古襲来の対応にささげられた。現在から蒙古襲来の歴史をみると、だれでも客観的にみることができるが、渦中にあった時宗の蒙古に対する恐怖は計り知れないものがあっただろう。
和暦 | 西暦 | 歳 | 出来事 |
建長3年 | 1251年 | 1 | 北条時宗出生。 父は執権・北条時頼 |
正元元年 | 1259年 | 9 | 高麗国がフビライに降伏 |
弘長3年 | 1263年 | 13 | 父北条時頼没(37歳)。 北条時宗、家督をつぐ |
文永元年 | 1264年 | 14 | 北条政村が7代執権、北条時宗が4代連署に就任 |
文永3年 | 1266年 | 16 | フビライが日本に朝貢を要求 |
文永5年 | 1268年 | 18 | 蒙古の国書が到来。北条時宗が8代執権、北条政村が5代連署に就任 |
文永9年 | 1272年 | 22 | 北条時宗が庶兄(異母兄)の北条時輔(25歳)と名越時章ときあき・教時のりとき兄弟を斬る(二月騒動) |
文永11年 | 1274年 | 24 | 文永の役(第1次蒙古襲来) |
弘安2年 | 1279年 | 29 | 南宋滅亡 |
弘安3年 | 1280年 | 30 | フビライ派遣の使者を北条時宗が斬った。 |
弘安4年 | 1281年 | 31 | 弘安の役(第2次蒙古襲来) |
弘安7年 | 1284年 | 34 | 北条時宗没(34歳) |
永仁2年 | 1294年 | フビライ没(80歳) |