後藤家文書

 妻の実家である沼津の後藤家で引き継がれている古文書を解読しました。

義理の父から古文書のコピーをもらっていましたが、解読できないところもありホームページで公開していませんでした。

古文書の内容について国会図書館などを利用し調べられる限りは手を尽くしましたが、誤った解読もあると思います。

古文書の日付けは、戦国時代の永正14年(1517)になっており、今川氏親が後藤弥九郎に宛てた文書で後藤善右衛門尉(ぜんうえもんのじょう)の知行地等を安堵する内容になっている。


『沼津市史 通史編 原始・古代・中世』より
戦国時代の沼津地域には、今川、北条、武田などの被官となり彼ら戦国大名の軍事力の一端を形成し、かつ在地支配を担当した土豪が数多く存在する。
農村部では石川郷の栗田氏、井出郷の杉山氏、沢田郷の後藤氏、大塚郷の雅村氏、大平郷の星谷氏・土屋氏・片岡氏など。
また海村部では獅子浜の植松氏、三津の松下氏、江梨の鈴木氏などが著名である。


『静岡県姓氏家系大辞典』より
戦国期には、北条早雲が根子屋の興国寺城に入り、沼津地域は今川氏や葛山氏の勢力下に置かれるようになった。
早雲の伊豆侵入に呼応したり、のちにその被官となって海上輸送や水軍に従事した地侍に、三津の松下三郎左衛門、重須の土屋左衛門太郎がいる。また、葛山氏(かつらやまし)や今川氏配下の地侍としては獅子浜の植松右京亮(うきょうのすけ)、岡宮の諏訪部惣兵衛尉、西沢田の後藤善右衛門尉、武田氏配下の地侍に柳沢の小野伊豆守らがいた。
今川義元の桶狭間での敗死後、沼津近辺は今川・小田原北条・武田氏の争奪地となり、1577(天正五)年には武田勝頼の臣高坂源五郎により三枚橋城が築かれた。
1582(天正十)年徳川家康は三枚橋城を手に入れ、家臣松平周防守康親にこれを守らせた。



 この古文書の特色は花押があること、また表題がありませんが結びは定型の仍如件で締めくくられています。

後藤弥九郎に宛てた文書ですが後藤善右衛門尉と二人の名前が書かれているので、二人の関係に注目しました。

親子かとも思いましたが、名前は違ってても二人は同一人物と判断しました。

後藤善右衛門尉の尉に注目し、これは後藤弥九郎の官職名だと思われます。

同時代の豊島泰経は豊島勘解由左衛門尉、豊島泰明は豊島平右衛門尉と名乗っていたことからも推察されます。

この文書は後藤家の世代交代で今川氏親に知行等の権利の継続を申し出た文書の返書として権利を認め発給されたものと推察されます。



中世期の知行(ちぎょう)は、主君から安堵(保証)された土地の支配権や用益権を意味する。

惣(そう)は荘園制度が崩壊した後、地域で構成された自治組織をいう。寄合によって掟を定め入会地、灌漑用水の共同管理、年貢納入の請負、村落の自衛などにあたった。

は後継者あるいは人の死後に残るものを意味する。

は漢文の置き字で読まない。

綺(いろう)は干渉する、口を出す、さからうを意味する。



氏親 文明5年(1473)−大永6年(1526) 享年54歳
文明3年(1471)誕生説もある。
駿河今川家九代当主
駿河・遠江守護
伯父北条早雲のたすけで家督をつぐ。
遠江・尾張に進出し戦国大名今川氏の基礎を築く。
中御門宜胤娘
(なかみかどのぶつねのむすめ)
寿桂尼
(じゅけいに)
公家の出自
氏親の死後剃髪して瑞光院寿桂尼となる。
氏親、氏輝、義元、氏真の四代に渡って今川氏の政務を補佐し領国支配の文書を出し「女戦国大名」と呼ばれた。
氏輝 永正10年(1513)−天文5年(1536) 享年24歳
氏親の長男
14歳で家督をつぎ駿河・遠江の守護となる。
義元 永正16年(1519)−永禄3年(1560) 享年42歳
氏親の三男
初め出家するが、還俗して兄氏輝のあとを受け、家督を相続する。
 大原崇孚(たいげんそうふ)(雪斎)(1496−1555)に補佐されて三河も支配、今川家の全盛時代を築く。
北条氏康、武田信玄と三国同盟をむすんで東方を安定させたのち、永禄3年西へ向かい尾張に侵入。
永禄3年(1560)桶狭間の戦いで織田信長に急襲されて敗死した。



享禄二年は西暦で1529年になる。

戦国期は、貫高制で年貢量と軍役基準を示す。牧野純一氏の研究(後北条氏民生史論)によれば、後北条氏は田畑一反歩の貫高を次のように定めていた。

天文二十一年(1552年) 柏木文書

上田 中田 下田
六百文 五百文 四百文
上畑 中畑 下畑
二百文 百五十文 百文

160貫600文の年貢から土地の広さを算出してみる。

すべて中田と仮定すると160600÷500=341(反歩)

34町歩で約34ヘクタールになる。



ホームページがありましたのでリンクしました。
駿河・後藤屋敷



葛山氏元(かつらやまうじもと)が後藤修理助に充行(あてがう)文書 天文十五年(1546年)
葛山氏元(かつらやまうじもと)   葛山氏(かつらやまし)は、駿河国駿東郡葛山(現在の静岡県裾野市)を本拠とした国人領主で葛山城主。

充行(宛行) あてがい、あておこない   所領・禄物を給与すること、また賦役を割当てること。

役所   @関所の異称  A役を賦課された所  B戦陣の詰所

畢   ことごとく(完全に、みな、すべて)

富士の関   古昔あったという足柄、横走、清見の三ヶ所の関所を指して富士三関という。戦国時代には廃絶しているので不明。

修理職(しゅりしき)   律令制において令の規定にない令外官(りょうげのかん)。宮内、京内の諸施設の造営・修理をつかさどった。
               柴田権六勝家の官職名は柴田修理亮(しゅりのすけ)勝家