鎌倉大仏
長谷の大仏、露座の大仏とも呼ばれて親しまれている鎌倉大仏は、建長四年(1252)に鋳造が始められ、完成年次は不明である。
鎌倉大仏はまず、木造の大仏が遅くとも嘉禎(かてい)四年(1238)から造り始められ、仁治(にんじ)二年(1241)の上棟以前には本体は完成し、寛元元年(1243)には大仏殿も完成、そして、建長四年(1252)から銅造大仏が鋳造され始めた。
露座の大仏として親しまれている鎌倉大仏であるが、もともとは大仏殿の中に入っていた。
『太平記』巻十三
建武(けんむ)元年(1334)八月三日に名越式部大輔を大将とする軍兵五百余人が大風を避けて大仏殿に逃げ込んでいたところ、大仏殿が倒壊して一人残らず圧死したという。
『鎌倉大日記』
その後大仏殿は、応安二年(1369)九月三日にやはり大風で転倒
『梅花無尽蔵』第二
文明十八年(1486)十月二十四日禅僧万里集九(ばんりしゅうく)が大仏を訪れたときには堂宇はなく、露座であると述べている。
『鎌倉大日記』
明応四年(1495)八月十五日に大地震による洪水で海水が上がり、大仏殿の堂舎屋を破壊し、200余人が溺死したという。
八月十五日大地震洪水、鎌倉由比濱海水到千度檀、水勢大佛殿破堂舎屋、溺死人二百餘。
千度檀(参詣道:若宮大路)
『塔寺八幡宮続長帳』
明応七年(1498)八月二十五日にも大地震があり、海水が大仏殿まで上がったと伝える。
明応七年八月二十五日、大地震、一日一夜三十震、鎌倉由井浜海水涌、大仏殿迄上ル、十三年以来早潟陸路ト成ル江島、又如昔。
大仏殿は明応七年(1498)以降は再建されず、大仏は現在に至る五百年あまりを露座ですごしている。
| 鎌倉大佛の名で親しまれている高徳院の本尊、国宝銅造阿弥陀如来坐像は、1252(建長四)年から十年前後の歳月をかけて造立あれたとみられる。制作には、僧浄光が勧進した浄財が当てられたという。鋳工として丹治久友、大野五郎右衛門の名を記す資料もあるが、原型作者を含め、創建に関わる事情の多くは謎に包まれている。尊像を納めていた仏殿は、1334(建武元)年と1369(応安二)年に大風で損壊したらしい。十五世紀以後、同仏殿が再建された形跡は認められない。 台座を含む総高 約13.4m 仏身高 約11.3m 重量 約121t |
はたして明応の大地震(東海・東南海地震)と津波(1495年または1498年)によって大仏殿が破壊されたのでしょうか。既にその時は、大仏殿はなかった可能性が大きい。1486年では露座が確認されており、それから10年の間に大仏殿が再建された可能性は小さい。また、平成12年(2000)から13年(2001)の境内発掘調査の結果では、応安二年(1369)の倒壊以後に大仏殿が再建された形跡は見出されなかったそうです。