△作沢沼を成立させた地形変動
作沢沼の地形については、昭和62年5月に沼の神社を管理している
夏井白沢神社宮司の金沢文好氏が、人々の寄稿したものを「すぐれた自然の作沢沼
(白沢沼)」としてまとめられた中に、沼の成因として、
@陥没地形に水が溜まったもの、
A山体の中腹に生じた爆裂火口に水が溜まって出来たマール地形、
等の記述があり、この山上湖に触れた方々が特異な地形に着目し、それぞれの識見
を示してきているなど、早くから注目されていた事がわかる。今回の調査探訪
に当たり、何故にこのような山の斜面高所に、これだけの規模の湖水が存在して
いるかは興味をそそられた。実際の調査は、地形景観を目視観察するのとどまったが、
観察結果と国土地理院の25,000分ノ1地形図を用いて、作沢沼周辺地形を
北東側(樫内集落上空1,200mを視点として)から俯観地形図としてスケッチした
のが図 − Aである。

八幡平火山北西域の三方高山1,222mから一方高山1,104mに
台地状の尾根が続いているが、その一方高山の北側は尾根を切るように
幾つもの地形の食い違いがあり、構造線が存在している事がわかる。
その中の標高980m等高線を境にした北側斜面は、落差200mに及ぶ崩落崖を示しており、
さらにその下方で幾つものブロックとなって2次崩壊・3次崩壊を繰り返している。
作沢沼を抱え込む凹状地形は、その3次崩壊ブロックと4次崩壊ブロックの断裂境界に
生じている。これらの崩壊を多発させた原因が、火山の終末爆裂活動に原因するのか、
それとも八幡平火山活動の中で蓄積された地形的な不安定歪みによるものかは、
今回の短時間の観察では把握出来なかったが、一方高山から北側の斜面全体の
大きな崩壊地形からは、より大きな範囲の地形不安定から歪みの解放運動として山体
に数百mもの深い断裂を生じて、次々にブロック崩れを引き起こしたものと考える
方が整合性があると判断している。その意味においては、現在でも崩壊の
エネルギーが完全には消去されず、残存していると考えられる。
(※:火山終末の爆裂火口説も、作沢沼の22.5mという最深部の数値を考える場合には
一考すべきものであり、この場合には、斜面が基本的に持っていた歪みが、
爆裂に伴う衝撃によって断裂崩壊したとする考えとなるが、
それにしては稜線域から始まる崩壊範囲は大きすぎるという印象
を受けている。)
△作沢沼を長く保った調節弁は沼の東側に形成されていた湿原であった
作沢沼は、周囲の僅かな範囲からの水によってまかなわれている。湖水面積を
除けば、その集水域は40,000u程度のものである。水域には、湖底からの湧水点
もあるとの事(8/16:金沢文好氏・冬に猟に入った人が、水面が凍結しない部分
があるという情報から)であるが、その地下水脈についても、この40,000uの
範囲からの供給水であると考えられるので、水量の安定はもっぱら流出量が
釣り合っている事によって保たれている。したがって沼には顕著な流入河川はなく、
流出は水域の最も東の緩やかな溝状低地を経て、作沢ノ沢に細い水脈として供給
されているだけである。作沢沼はその形成の最初から、この低所から作沢ノ沢に
水を落とし、現在の作沢ノ沢の侵蝕地形は、この僅かな水脈を基本として刻まれて
きた事になる。ところが沼の東端に認められる流れの侵蝕痕跡は幅3mで、深さは1.5m
程の軽微な窪みでしかない。この一見すると理解を越えた地形形成の矛盾を
解決する考え方は、沼の水域の増減と柔軟に対応する事が出来る湿原が沼の東側に
存在する現在の浅水域に広く発達して適度に水を流しながら、一方では沼を作る
基盤地形の侵蝕をくいとめるという、自然の流水調整弁の役割を果たした時代が
かなり長く(数千年の単位)続いていたと位置づける場合だけではないだろうか。
現在では、その湿原は失われてしまい、僅かに三つの浮島湿原として残っている
だけとなったが、その浮島湿原の根源を探求する中から、この一帯の長大な時の
流れを背景とした自然環境の調和の実体が浮かび上がってきた。
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