鹿友会のこと
「はじめに」
 
 
△「鹿友会とは」その三 − 「鹿友会五十年史」大正以後
 
 大正以後、昭和十二年の現在に至る二十五周年間のうち、わが鹿友会にとって最も顕著な 事績は、奨学事業を開始した事である。
 
一、奨学事業
 鹿友会が奨学育英に手を染めたのは、前に述べた如く、明治二十五年の昔であったが、 これは数年にして中絶の余儀なきに至った。これを再興し、鹿友会奨学金規定を制定実施したのは、 大正五年一月であった。而してこの奨学事業再興の産みの親は、実に川村竹治氏、及び石田八彌男の 両先輩であった。
 
 これより先、川村氏は会誌第十三冊(明治四十四年)巻頭論文に於て「奨学金を設くるの議」を唱へ、 東北人の「運命の開拓は、東北人自ら為さなければならぬ。若し今日に於て、之が準備に努めなかったならば、 他日天運吾等の頭上に廻り来ることあるも、空しく之を把握すること能はずして、吾々東北人は永久頭 を抬ぐるの機会無くして畢らねばならぬであらう。さらば其の準備とは如何。他なし、 そは即ち人物養成の一事である。」と説き、且つ氏が学生時代「殆ど無謀に近き程の悪戦苦闘を続けた」こと、 及びこれに対して大里、石田、内田、佐藤、諏訪、田村等の諸氏から学資を補助され、学成り世に立つに至った 次第を述べ、
 
 「自分が以上の諸氏から補助された資金は、合計百数十円であって、これは成業の後に至って、自分から右の 金員を返済したき旨、諸氏に計ったことがあったが、初めより返して貰ふ考へから出したのではないから、 其の心配は無用だ、との返事を得たので、自分は益々諸氏の好意を感ずる余り、暫く其の好意に甘へる事とし、 折もあらば如何にして諸氏の好意に酬いたしとの精神から、先年自分が諸氏から受けた金額に、更に若干金を 加へ、差向き金参百円を、奨学基金として鹿友会に寄附することゝし、適当なる補助者を得る迄、自分の手許に 預って置いたのである。」
 
 この川村氏の提議は、大なる反響を喚起した。仝年の廿五周年記念会席上に於ては、該事業に対して石田男から 壱千円寄附の申出があった旨発表され、即座に奨学事業に関する協議委員として、
 青山芳得、湯瀬禮太郎、石川祐助、石川漣平、川村十二郎、小田島徳蔵、月居忠悌、立山林平、佐藤賢治
の九氏が挙げられ、大正五年一月奨学金に関する規定の成案実施を見た次第である。 併しこの規定の成案を待たずして、川村、石田両氏提供の資金は、順次両氏の手元に於て運用せられ、 数名の学生は、貸費の恩典に浴し、鹿友会は是等貸費生の監督、貸費事務の取扱を為しつゝあったのである。
 
 而して此の奨学金規定によれば、鹿友会奨学金は寄附金より成り、独立会計として取扱ひ、其の資金は利子のみ の運用による基金制ではなく、資金そのものを貸費に充て、成業者より返還せしめ、 循環運用の方法に依ることであった。
 
 斯くの如くして、鹿友会の奨学事業は著実にその歩武を進めたのであるが、併しこれだけでは、 石田、川村奨学金(大正八年に立山弟四郎氏から二百円の寄附があったが)を鹿友会が取扱ってゐるに過ぎない やうな、甚だ心細い事業と謂はなければならない。
 初め川村氏が提議したのも、大方の賛同を求める意味であり、何人もこの現状に満足するのではなかった。  
 恰かも好し、大正九年夏、欧州戦後の我の景気の沸騰を看取した時の幹事長青山芳得氏は、機至れりとなし、 東奔西走、郷党の父兄を説服したので、醵金を申込むもの相継ぎ、翌十年三月末の計算によれば、奨学資金の 申込総額一万五千二百二十五円(内払込額四千八百五十一円)といふ桁上りの好成績を示した。
 即ち鹿友会の奨励事業は、その金額に於ては固より誇るに足るものではないが、こゝに事業としての画期的躍進 を遂げ、互助共済の社会事業たるの形態を具備するに至ったのである。
 
 爾来醵金は次々に払込まれ、貸費も比較的順調に返済され、毎年少くもニ三名、多きは四五名の貸費生が厳選 採用され、昭和五年十二月の調査によれば、
◎貸費生
 総員 三十人 卒業生 二十三人
        貸費生   七人
◎貸費額
 総額  一九、二六四円五〇 返還  四、七三九円五〇
               未済 一四、五二五円〇〇
◎奨学資金
 申込額 二八、六八五円〇〇 払込 一六、六二一円五〇
               未済 一二、〇六三円五〇
といふ数字を示してゐる。
 尚最近(昭和十年度)の奨学金会計の収支は、
 収入 前年度繰越  一、二五〇円一二
    貸費回収金    五八四円〇〇
 支出 貸費金      四八〇円〇〇
    次年度繰越  一、三五四円一二
となって居り、金額は多くはないが、貸出金に充てるだけの回収金があるといふことは、 事業の順調を示してゐると云はなければならない。

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