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去年(1993)の夏と秋、二回にわたってロマン・ロラン研究所の御厚意で、公開講座の一環として「魅せられたる魂」を語らせて頂いた。大正から昭和にかけて、心ある日本女性のどれはど多くの人がこの作品から勇気と励ましを与えられただろうか。その秘められ隠された喜びと感謝の声が押さえがたく噴きこぼれて「『魅せられたる魂』と私」というテーマがしばしば書かれたり語られたりする。私もその一人だが、その私が、「私」をぬきにして純粋に作品だけを語ろうと思い始めたのは十二年前のことである。
東京中野の三十人くらいの主婦の読書会サークルに呼ばれてこの話をした。まず驚いたのは、この作品を曲がりなりにも読んでいる人は四人しかいなかったことである。読書会のサークルにしてすでにそうである。しかしその中に一人、少女のように髪を切り揃えた三十前後の盲目の女性がいた。その女性は「魅せられたる魂」というテーマを耳にして以来、どうしても聞きたくて盲導犬に導かれて会場へ来たという。「ロランの世界を初めて知りました。何か遠い本国からの便りを聞くようでした。」その女性は眼を閉じたまゝ静かに感想を言われた。私の方が参ってしまった。それ以来、あくせくと忙しい日本人に、魂の本国の消息をロランを通して語りたいと思うようになった。それにはまずロランを読んでもらわなければならない。その導入の手がかりとなるように、いきなり物語を語り始めようと思った。一ばん避けなければならないことは大学の講壇ふうになることである。でも私は本職の声優でも俳優でもない、どのように語ればいいのだろうか。
私はもともとロシア文学畑の出身だから普段の講演ではよくトルストイを語る。これは助かる。「アンナ・カレーニナ」にしろ「戦争と平和」にしろ繰り返し映画や芝居になっている程、物語性に富んでいるからである。その点ではまた「魅せられたる魂」も同じであった。激烈な議論や深遠な哲理をふくんでいながらドラマティックで多彩な人間像と、人間心理の機微をついた描写は巧まない物語性となって人の心を惹きつける。殊に前半がいい。ロランのもっとも気力横溢した時代のものだから、作品も青春のアンネットのようにみずみずしい。アンネットがロジェを拒否して未婚の母になってしまうところなどは、三十年前の一般日本女性なら承服しなかったかもしれないが、今は誰もがうなずいて真剣に聞いてくれる。最後のロジェとの会話の行き違い、そのアイロニーには軽い笑いさえ起こる。「私の心情も感覚も体も私自身のものであって、しかも私自身のものではない。それはもっとも奥深い魂のものであって、自分が勝手に取り扱うわけにはいかない」というアンネットの言葉を伝えたとき、講演終了後、若い女性が近寄ってきて、「今まで自己に忠実に生きることが一ばんいゝことだと思ってやってきたんですが、自分はなんてお粗末で愚かだったんだろう、と気がつきました。」と訴えてくれた。
未婚の母になっただけでなく、破産して無一文になり、ブルジョア階級から転落してしまうアンネット、からだも心もすりへらして日々のパンを稼ぐアンネット、その時初めて世に開眼するアンネット、科学者ジュリアン・ダヴィとの恋愛と別れ、息子マルクとの非情な関係、パリの有名な外科医ヴィヤール・フィリップとの肉の愛とその妻ノエミとの闘争、こうした息づまる展開を経て物語は前半のクライマックスに駈け上っていく。十八才のマルクが初めて大臣のロジェが父親であることを知るのだ。即日、会いにいった演説会場で、若者を戦場に駆りたてるべく、長広舌を振るっているロジェを見てマルクは愕然とする。そして彼の前に初めて母親の真の姿が立ち現れるのだ。私はここまでを一時間半にまとめて話す。聴衆に面を向け、肉声で語ることで、すでにおのれを曝しているのだから、自分の意見はなるたけ述べないようにしているがどうしてもコメントめいたアドリブが入ってしまう。女性の自立も孤独も、階級闘争も反戦運動も、ロランが生の言葉で述べているところは一切省いて、情景描写と人物描写と会話と流れだけで、ロランの思索と思想を聴衆に伝えなければならない。こんな語りを繰り返しているうちにいつのまにか「世界文学の語り部」と呼ばれるようになった。しかし、これは雑誌編集者が勝手につけた名前で、ふだんは細々と、文学畑でものを書いている人間である。
後半、「予告する者」、これはもう一時間半にまとめる原稿書きの段階で頭がハチャメチャになってしまった。なにしろ、宮本正清氏が十年かかって訳された長篇原稿、みすず書房の部厚い三巻本を無暴にも三時間にまとめようというのである。あの話もこの話も押し込めたいが、結果としてはばっさばっさと切り捨てることになった。第一、後半にはアーシャという女性が登場してくる。マルクの妻になるロシア女性である。これがなかなか手剛い。それにいささかロボットめく。二十回近く話した聴衆の反応では、ちょっと、アーシャをどう理解していゝのかわからないという戸惑いの表情が多い。それから新聞社の「人喰い鬼」チモンとアンネットの関係が始まる。このあたり少々荒唐無稽な感じがしないでもなく、ロランの筆にいくらか疲れがでてきたのかな、と思う。この辺からソ連の革命とイタリアのファシズムが強大な顎を覗かせてくる。ついコメントしたくなるのを押さえて城館での大金持ちたちの狐狩りならぬ裸女狩りの話をする。この話をたヾの「怪奇篇」としか受け取らない聴衆もいるのだが、私の古い友人で、女性学もやり市会議員もやっているのが、「今のセクハラも、当時のすさまじいセクハラに較べれば他愛なく見えるわね、やっぱり時代は進歩しているのかしら」と、まともに受け止めてくれた。
アンネットの異母妹、シルヴィも抜かすわけにはいかない。この鋼鉄のハートと魔法の指を持ったドライで現実的なパリ女の骨頂。シルヴィのことだけを一時間半にまとめていつか話してみたいと思うほど、多彩で複雑だ。
物語の大筋には入らないので京都でも割愛したが、シルヴィがマルクの死を知って、モンマルトルの二百二十五段の石段を片足ひきずって登り、祈りに祈った挙句、白い聖母を蹴倒すところ。マルクの遺骸と共に汽車で帰ってくるアンネットを涙一つ見せず駅頭で迎え、一晩を姉妹が同じベッドで過ごして涙の川を作ってしまうところ。しみじみと私は話したかったのだ。シルヴィが花の香りのする夕べ、アンネットの腕に抱き止められて来世を語りながら死んでいく細部、ここにはロランの東洋的というか汎神論的な息吹きが感じられてどうしても話したいところだ。汎神論といえばイタリアのキャレンツィア伯爵もまたロランの思想の一端を担い、ヨーロッパ世界とは別の豊穣で神秘的な物語を産み出すキャラクターである。だから語り始めれば一時間はゆうに過ぎてしまうだろう。だから、ばっさりということになる。
こうしてロランのすばらしい大河小説を切り刻んで一体私は何をしたんだろう、と講演の夜はたいてい深い絶望感に襲われる。あらゆる楽器の、対位法があり、フーガがあり、ポリフォニーがあるからこそ美しい偉大な交響楽を私は単なるピアノソロにしたのではないだろうか。
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