2 民事訴訟法の基本原則(1)〜処分権主義   top  (まとめ)  (復習のポイント

 

 1 処分権主義とは?

民事訴訟法第246条は「裁判所は、当事者が申し立ていない事項について、判決をすることができない」と規定している。
この条文は、日本の民事訴訟法が「処分権主義」を採用している一つの現れである、と言われている。「処分権主義」とは、「いかなる権利関係について、いかなる形式の審判を求めるかは、当事者の判断に委ねられる」という民事訴訟法上の原則のことをいう。民事訴訟法条文に「処分主義とはこうゆうものだ」と明確に記載されているわけではないが、民事訴訟法の大切な原則であるとされている。「訴えなければ裁判なし」という法諺で語られることもあるし、「不告不理の原則」と言われることもある。

 (1)なぜ「処分権」主義と呼ばれるのか?
民事訴訟は、「甲の乙に対する貸金返還請求権があるか否か」というようなことを判断するために手続きが進んでいく。この貸金返還請求権のような実体法(民法・商法)上の権利については、「私的自治の原則」が認められている。
自分の権利については自分で「処分」するかどうか(その債権を誰か他人に譲渡してしまったり、その債権を免除してしまったりすることも当人の自由である。)を決める、ということになる。「処分権主義は、実体法上の私的自治の原則を、民事訴訟法という手続法に反映させたものである」といわれている。
権利自体を「処分」することも当事者の自由なのだから、その権利関係を裁判にかけるか否かについても当事者の自由(処分)に任せるべきで、国家機関たる裁判所にあれこれ口を出されたくないし、当事者のことが良く分からない裁判所は口を出すべきでもない、ということである。

 

(2)処分権主義は何のためにあるか?
処分権主義は当然の原則のよう思うかもしれないが、古今東西を見回してみた場合、裁判の手続は、およそ全てが処分権主義というわけではない。逆の方針として、職権主義の裁判が考えられる。
これと比較してみると、処分権主義が何のためにあるのか、より理解できると思う。
例えば、江戸時代の裁判官であった「遠山の金さん」を考えてみる(これは民事事件ではなく刑事事件であるが)。金さんは、自分で町の中へ入っていって「こいつぅあぁ〜許せねぇ〜」となると自分で御白州を開いてしまう。庶民が訴え出るかどうかは関係ない。「お上」が裁判にかけるべきだと考えれば裁判なるし、逆に「お上」が裁判にかけるべきでないと考えれば、裁判にならない。
「遠山の金さん」スタイルは、裁判官に人を得れば大変良いシステムなのだが、そうでない場合、裁判官の恣意によって裁判されるか否可が左右されることになりかねない。
そこで、現行の日本の民事訴訟法はそのような建前をとらず、原則として正反対の処分権主義を採用しているものといわれている。

 

(3)訴訟終了時の処分権主義

以上は、訴訟を始めるときの処分権主義について見てきたが、処分権主義は訴訟を終了させる際にも働く原則である。つまり、原告が「訴えの却下」(民訴法第261条)を行うことによって訴訟を終了させたり、「請求の放棄」(民訴法第267条)を行うことによって訴訟を終了させたりすることができる。逆に被告が「請求を認諾」して、訴訟を終了させることもできる(同条)。請求を認諾すると、主張された権利関係が存在するということで、確定判決と同一の効力が生ずる。このような強大な効果を生じさせて良いのか疑問にも思えるが、このような権利関係は、本来、当事者の自由な処分に委ねられていたのであるから、「当事者が『権利はあった(なかった)』ということでよい」と考えている以上、そのような当事者の意思を尊重することが私的自治の原則に資すると考えられている。

  訴えの却下は、訴訟係属が遡及的に消滅するので、何もなかったことになり、原告は再び裁判を提起することができる。とすれば、被告としては、訴訟が提起されてから訴えを取下げるまでに一生懸命主張・立証したことについても全て無かったことになってしまう。
このような効果を生じる訴えの取下げを原告の一方的な都合だけで行うことができるとすれば、原告が取り敢えず訴訟を提起してみて、形勢不利と見るや訴えを取り下げ、
また別の訴訟を提起するということも起こりかねない。
そこで、民訴法は、このような訴えの取下げを行うには原則として被告の同意を要するものとしている(民訴法261条2項本文)。他方、請求の放棄は、主張していた権利関係を放棄してしまう意思表示なので、被告に不利益はないから被告の同意は要しない(民訴法第267条)。請求の放棄を行うと、確定判決と同一の効力が生じるので、主張していた権利は
「無かった」ことに確定してしまうという強大な効力が生じる。

 

2 ケース・スタディ

 (1)(ケース1)貸金返済請求訴訟

Xは、Yに対し、貸金300万円の返還を求める訴訟を提起したが、証人訊問や証拠書類を見た裁判官Jは、貸金は実は300万円ではなく、500万円あるのが本当だ(X自信が証拠をきちんと検討していないだけで本当は500万円の支払いを求める証拠がある)と考えている。この裁判官は、Yに対し、500万円の支払いを命じる判決を下すことができるか?

 

ここで500万円の支払いを命ずる判決を下すと、まさに246条の条文に反することになってしまうので許されない。
そのように考えると、本当は(神様の目から見ると)500万円の貸金返還請求権があるのに、
300万円という判決を裁判官がしなければならないというのは真実に反する不公正な裁判ではないかという気がするかもしれない。しかし、

ア 処分権主義の根拠が、訴訟物たる権利関係の当事者の処分権に求められる以上、そのような権利を有しているX自信が「それで良い」と言っている以上、それ以上国家機関たる裁判所が検索すべきではない。
例えば、裁判外で債権者が債務者に債務を免除しようとしたとき、国は「本当は債権があるんだ。免除は止めろ」と無理やり免除を止めされることはできない。それが私的自治である。

イ また、処分権主義の機能としての「手続保障」を重視すべきである、という点も強調される。すなわち、処分権主義は、訴訟を提起された被告にとっては、「ああ、この点を防御すれば勝てるのだな」ということで、防御の目的を提示するという機能を持っている。
つまり、訴訟以外の請求が突然裁判所から持ち出されて敗訴するということはない。
その前に、反論・言い分を尽させるという「手続保障」がなされなければならない、ということである。

 

(2)(ケース2)人事訴訟

Xは、Yに対して、認知を求める訴訟を提起したが、Yは、請求について争うつもりがないので、これを認諾しようと思っている、認められるか?

 

認知(民法第779条)を求める訴訟は、人事訴訟法の定めるところによって審理される。(民法第787条、人訴法第2条2号)。人事訴訟は、基本的には民事訴訟法の手続に従って進められるが(人訴法第1条)、いくつかの例外がある。
このケースはそのひとつであり、人事訴訟においては請求の認諾をすることは原則として認められていない(人訴法第19条2項)。
その意味において、人事訴訟は処分権主義の例外とされている。その趣旨は、認知などの身分関係については、当事者の私的自治が制限されているからである、とされている。ただし、離婚訴訟は人事訴訟の中でも再例外として、請求の認諾をすることが認められる場合がある(人訴法第37条1項)。

 

(3)(ケース3)境界確定訴訟

境界確定訴訟では、処分権主義が大きく制限されているといわれている。

 

X所有の甲地とY所有の乙地が隣接しているが、その境界を巡って争いがあり、
Xはイロ線を境界線と主張し、Yはハニ線を境界線と主張している。
裁判官Jが証拠を検討した結果、実はホヘ線が境界線であるとの心証を抱くに至った。
裁判官Jはホヘ線が境界であるとの判決を下すことができるか?

 

  

 民事訴訟法第246条の文言を形式的に適用してみると、ホヘ線を境界とする判決を下すことは、当事者であるXが求めているイロ線以上の利益を与える判決を下すことになってしまい、これに反して許されないように思われる。しかし、通説・判例はこのような判決をすることを認めている。その理由付けに関連して学説上、激しい議論が展開されている。

ア 境界確定訴訟に第246条の適用があるか?
そもそも境界確定訴訟は、貸金返還請求訴訟や所有権移転登記手続請求訴訟とは異なる性質を持っているのではないか、というところから議論が始まる。判例・通説は、「境界確定訴訟というものは、私法(民法)上の所有権とは無関係の公簿上の地番と地番の境界線(筆界)を定めるもの、すなわち公法上の境界線を定めるものだ」という前提に立つ。つまり、境界(筆界)というものは、公法上の一筆の土地と土地の境を確定するに過ぎず、私法上の所有権は一筆の土地の一部にも成立するから、公法上の境界と私法上の所有権の境目はずれることもあるということである。そして、境界は市町村の境界ともなり得る公法上の単位であるので、私人が勝手にその範囲を決定することは許されない、というものだ。
以上の理論から、下記のような判例が存在する。

(ア)原告は訴訟において特定の境界線の存在を主張する必要はなく、
仮に特定の境界線を主張したとしても裁判所を拘束するものではない。

(イ)旧民事訴訟法第186条(現民事訴訟法第246条)は、
境界確定訴訟には適用されない。

 

イ 境界確定訴訟の法的性質〜形式的形成訴訟説

このような訴訟を「形式的形成訴訟」と呼ぶのが通説の立場である。「形式的形成訴訟」とはどのような意味か。まず、「形成訴訟」という言葉を考える。民事訴訟は大きく分けると3つの種類からなっている。それは、

 

@          給付訴訟、A確認訴訟、B形成訴訟の3つである。


@    給付訴訟
  被告は、原告に対し、金100万円を支払え。というように、相手に対して一定の給付を求める訴訟である。

 

A          確定訴訟
原告と被告との間で、本件土地が原告の所有であることを確認する。というように、
一定の法律関係が存在することの確認を求める訴えである。このような訴訟が成り立つためには、原告と被告の間で「所有権」(民法第206条)という法律関係についての共通の理解がなければならない。
(相手が全く「所有」という概念がわからなければ、長い時間と手間をかけて裁判所に
「所有権」を確認してもらっても紛争は解決しない。
「所有権」というものが何かということについての別の紛争が生じるからである)。
その意味で、確認訴訟は給付訴訟や形成訴訟よりも法的に熟成した理解が成り立っているところでしか成立しない。
「本来、ローマ法のアクチオ(訴権)というものは、給付訴訟にあたるものを予定していたが、
実体法上の権利体系ができて、裁判外の権利というものが観念できるようになってはじめて、それを確認してくれと言えるようになった」と言われている。

 

B    形成訴訟
原告と被告を離婚する。というように、判決によって一定の権利関係の変動等を生じさせる訴訟である。判決の主文は「原告と被告『が』離婚する」のではなく、「原告と被告『を』離婚する」のである。主体は、当事者夫婦ではなく、裁判所「が」離婚することになる。
この場合、民法第770条に離婚が認められる要件が記載されているから、その要件が充足されていることを主張して、上記主文のような法律関係(離婚)を形成するということになる。これが本来の形成訴訟である。

これに対し、形成的形成訴訟というのは、例えば民法258条1項に基づく共有物分割の訴えのように、分割の要件が法律上明文で定まっていない、(「こういう条件を満たしたとき分割を請求できる」ということが明文で定まっていない)ところに特徴がある。当事者は裁判所に分割を請求するだけで、「こうゆう要件があるから」という審理の対象が存在しない。その意味で、「裁判によって法律関係を形成する」という意味では、形式的には形成訴訟であるが、どのような要件が備わった場合にそのような形成判決を下すかということが実態法上定まっていないので、あくまで「形式的に」形成訴訟の形態を採っているだけ、ということになる。そして、境界確定訴訟は、境界確定の要件が定まっていないのであるから、形式的形成訴訟の一種であると説明されてきた。
そのような考え方に立てば、処分権主義の根拠である実態法上の権利関係に関する処分権(私的自治)が形成的形成訴訟においては、実態法上の権利関係が存しないので、処分権主義は妥当しないと説明されてきた。この立場によれば、私法上の所有権の範囲の確認については、境界確定訴訟とは別に(境界確定訴訟の判決が確定した後に所有権の範囲を確認する別訴を提起するか、境界確認訴訟の係属中に所有権の範囲を確認する別訴を提起する)争うしかないということになる。

 

*境界確定訴訟でも、当事者が訴えを提起されない限り訴訟は開始されないから、
 「訴えなければ裁判なし」という不告不理の原則自体は妥当するので、処分権主義が完全に排除されているわけではない。

*判例「被告主張の境界線を認めたものであり、係争範囲外に線を引くことまで許す趣旨とよむべきではない。との指摘もある。
*形式的形成訴訟は、訴訟の形式はとっているが、権利関係の確定を目的とするのではなく、その実質は非訴事件であるといわれる。
*「境界確定の訴えは」「土地所有権の範囲の確認を目的とするものではない」「取得時効の成否の問題は所有権の帰属に関する問題で、相隣接する土地の境界の確定とはかかわりのない問題である」と判示している。
*「法的にはともあれ事実上は境界確定の訴えにより所有権の争いも解決される」
 (境界確定訴訟の判決に従った和解等が当事者間においてなされるという趣旨から)として不具合はないとする指摘もある。

 

(3)境界確定訴訟の法的性質(2)〜所有権(範囲)確認訴訟説
 このような通説の考え方に対しては「訴訟当事者の実際の感覚に反する」として厳しい批判が為されている。
すなわち、「当事者は、自己の所有権の対象たる土地の境界の確定を求めているからこそ時間と費用をかけて訴訟をしているのであり、所有権とは無関係に境界の確定を求めているわけではない」と批判されている。そこで、「境界確定の訴えの実質は、あくまでも所有権の効力の及ぶ範囲についての私人間の争いである」とする考え方が強く唱えられている。この説からは、境界確定訴訟についても民訴法第246条の適用があり、処分権主義の考え方が貫徹されることになる。この点、高橋宏志教授の以下のような指摘が注目される。

 「そもそも、この境界確定の訴えというものはローマ法以来存在するものであるが、ローマ法でもドイツ法でも境界の確定は、同時に私的所有権の境を確定すると理解されており、ドイツの通説は今でもそのように理解している。にもかかわらず、これが通常の所有権確認訴訟とは別の特殊な訴えだとされるのは、土地の境界線の証明は極めて困難であるのが通例であり、これを通常の民事訴訟における証明責任で処理したのでは、証明責任を負う原告がほとんど常に敗訴することになってしまうから」であり、このことについては双方当事者にとって同様(どちらも立証できない)から、どちらも敗訴することになり「係争部分がどちらの所有に属するかは訴訟では決着がつかない。これでは不都合であるから、境界確定の訴えという特殊な訴訟を認め、そこでは請求棄却すべきではないとし、真偽不明のときも証明責任を発動させず、裁判所がどこかに境界線を引き、それが同時に隣接地の所有権の境だとすることにしたのである」。

 

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処分権主義は、民事訴訟法の重要な基本原則の一つであり、実体法上の処分権を手続法上も認めることが適切であるという趣旨に基づくものである。
訴訟の開始や終了については、当事者のイニシアティブを尊重し、裁判所は必要最小限の範囲でしか介入しない。ただし、人事訴訟は境界確定訴訟のような処分権主義が大きく制限されている例外的な類型があるので併せて理解することが大切である。

復習のポイント〉 

1)    処分権主義とは、どのようなものか?
2)    処分権主義は、民事訴訟法のどのような条文に現れているか?
3)    処分権主義が認められている趣旨はどのようなものか?
4)    処分権主義の例外といわれる訴訟にはどのようなものがあるか?それは、何故例外といわれているのか?